04 列車に乗って君は
「変な夢でも見たんだろう」
こんな定型文を肉声で聞く日が来るなんて思いもしなかった。
だからおれは、朝から教室で感動していた。
「夢じゃないよっ! 本当に見たんだから!」
こんな定型文を肉声で聞く日が来るなんて思いもしなかった。
だからおれは、朝から教室で感動していたパート2。
すっかりいつもの朝だった。強いて言うなら、昨日と比べてもう一段寒さが厳しくなった。学校があるのは〈塔〉の一階。一夜明けて外には雪が降り積もり、そこの窓からよいしょっと飛び出していつでも雪合戦を始めることができる。
ただ、窓の反対側、廊下の方には、積雪の跡なんてこれぽっちもない。
もちろん、それが当たり前のことなんだけど。
そしてその教室では、朝からおれの友人二人が睨み合っている。正確に言うなら、友人の片方がもう片方を睨みつけていて、もう片方は「また変なこと言い出したな……」というような常識人面をしている。ちなみに常識人の方は、冬服の発掘に成功したらしい。長袖だった。
「絶対夢じゃないよ! ていうかだって、私だけじゃなくて玲ちゃんも一緒に見たもん! ね!」
百羽が熱烈な視線をおれに向けてくる。
実を言うとあれ以来、おれには怯えがあった。しかし、そこまでしっかり見つめられては仕方ない。
「…………」
「キス待ちすなっ」
内心「またやってまたキスされたらどうしよう……」という不安があっただけに、かなり安心の結果だった。もう一回このやり取りを掘り返すことで昨日の百羽の怒りがぶり返して会話がめちゃくちゃになったらどうしようという不安は、特になかった。会話なんて全部めちゃくちゃになればいいんだ。
「見たでしょ、玲ちゃん!」
「拝見しました」
「ほら、証人ひとり! しかも謙譲語!」
「謙譲語だから何だっていうんだ?」
今度はあずきがこっちを見た。訊ねてくる。
「本当なのか」
おれは真剣な顔で頷く。
「ああ」
「こいつが真剣な顔をしてるときはいまいち信用ならないんだよな」
「それはそうだけど」
ひどすぎる感想が両方向から降りかかってきた。
おれの証人としての信用性は日頃の言動から容易に否定され、それでも百羽はめげなかった。あからさまにあずきは引いているが、百羽はこのまま信じてもらえるまで一時間でも二時間でも喋り続けてやるとでも言いたげなとんでもない熱意に溢れている。この熱意が十分の一でもおれにあれば、昨日のこの時間に「おまえ昨日二十代前半の姿になっておれにキスしてきたよな?」「これは厳然たる事実だ」と詰め寄ることも可能だっただろう。この熱意がおれになくてよかった。あったらまるきり変態だ。
「じゃあ二人一緒に同じ夢を見てたってあずきくんは言いたいの? そんなことありえる?」
「別にお前たちが仲良く同じ夢を見てたところで何の違和感もないぞ」
「どういうこと?」
「というか、実際一回あった。玲が俺に『カレーの夢を見たから朝からカレーが食いたくて仕方ない』って話してるところに、百羽が『今日カレーの夢見てさあ』って言いながら登校してきたことが」
「ないよそんなの」
「あったよな」
「あった」
「ないって!!」
実際にあったのだが、おれとあずきだけで面白くなりすぎてしまって百羽には全く解説しなかったのだと思う。
もちろん百羽は、なおも食い下がろうとした。
しかし、高校生の朝というものは一時間も二時間もない。
チャイムが鳴り、担任が入ってくる。
「ちょっとこれ、後でまた話すから」
捨て台詞を残して、百羽がおれの前の席に座る。おれは元々自分の席に座っているから、特に動く必要はない。あずきも自分の席に座っているから、動く必要はない。
その動く必要のない時間に、あずきが一筆書いたらしい。
机の上に、手紙が一枚置かれた。
『さっきの、本当の話なのか? 芳尋堂あずき』
おれは、少しの間だけ考えた。
本当にあった話なのか。一昨日の夜のことなら、もしかしたらなかったかも、と答える。でも、昨日はおれ一人だけじゃなかった。百羽も一緒にいて、その百羽は強硬に昨日の出来事を人に信じさせたがっている。
だから、それなりの自信を持って、こう返すことにした。
『本当』
手紙を受け取ったあずきは、しばらくその文字を見つめていた。二人してどうかしてしまったと思っているのか。それともまたこいつら同じ夢を見たんだなと思って、クールな顔で笑いを堪えているのか。
「それから、志杖さん」
「え、はい」
急に名前を呼ばれた。
教壇に立つ担任だ。手紙のやり取りがバレたか。それとも何かやらかしたか。
「放課後、職員室に来てください」
後者が濃厚、と思いながら、おれは「うす」と返事をする。
∞
「あ、玲ちゃん。退学だった?」
どれだけおれはこいつの中で信頼がないのか。
放課後。教室に戻ってくるともうあずきの姿はなかった。その代わり、百羽が机の上に腰掛けて待ってくれている。「退学ではなかった」と答える。全然どうでもいいことだが、こういうのもゲレンデマジックというんだろうか。外の積雪からの照り返しで百羽の顔が輝いて、何だかいつもより綺麗に見えた。
それで思い出す。
「よかったのか」
「何が?」
「雪合戦しなくて。あずき、帰ったろ」
百羽も、思い出した顔をした。
口を開けて後ろを振り返る。雪を見る。
「忘れてた」
「そうか」
「衝撃で」
しばらく、名残惜しそうに外の景色を見ていた。といって、今日はずっと晴れていたから、もはや雪合戦を楽しくやれるほどの積雪でもない。いっか、と百羽は小さく呟く。
「昨日やったし」
「おかげですごい目に遭ったけどな」
「あ、それでさ。さっきわたし、コンビニに行ってきたんだけど」
部屋に戻ることなく、ここで喋り続けるつもりらしかった。
別にそう珍しいことじゃない。だからおれは百羽の席に座る。窓辺に背中を預けて、聞く体勢に入る。
「婆さんに訊いてきたのか」
「それが全然起きてくれなくて。いつものことではあるんだけど」
それはそのとおりで、婆さんはおれたちが探し物をしているとき、レジが動作不良で停止しているとき、どれだけ本気で起こしにかかっても全く目を覚まさない。おかげさまで広い店の中を、隅から隅まで自分の足で探し回る羽目になる。
「それで?」
「どうしようもないから、一階をぐるーって回ってきた」
「何かあったか?」
何も、と首を横に振る。
それから百羽は、珍しく深刻な顔になって、
「何だったんだろうね。昨日の」
「宇宙人の襲来」
「わたしたちファーストコンタクト?」
「そう。これから宇宙人は初対面の挨拶として雪玉をぶつけてくるようになるぞ。それが地球の文化だと思ってるから」
「負いきれないよ、その責任……」
冗談はともかくとして、と真面目に答えようとした。
真面目に答えるとどうなるのか、おれにはわからなかった。
「何だったんだろうな」
「ね」
しばらく、無言の時間が続く。
ここ二日、変なことばかりが起こっていた。しかも夜になると、必ず。夜間外出はやめろという神からのお告げだろうか。今日こそは家から出ずに夜を過ごした方がいいのだろうか。段々と事態はエスカレートしてきている気がするし、今日こそ本当に、それこそアニメみたいなめくるめくアクションシーンを演じさせられる羽目になるかもしれない。
「わたし、」
百羽が口を開く。
「央都に行ってみようかな」
どういう脈絡があるのかわからなかった。
呆気に取られて、おれは百羽を見上げていた。百羽もやがて、見上げられていることに気付いた。恥ずかしがるようにはにかんだ。やわらかい力で、おれの頭にチョップを落とした。
「何か言ってよ」
「……旅行?」
「そうじゃなくて」
言ってたでしょ、と百羽は頭を逸らす。天井を見ようとして、後頭部を窓枠にぶつける。いった、と頭を押さえた後、
「先生、言ってたじゃん。毎年一人、央都に推薦枠があるって」
「進学?」
そう、と百羽は頷いた。
「昨日、ふたりで大冒険して思ったんだよね。世の中って、まだまだわたしの知らないことがたくさんあるんだなって」
そういうスケールの話だろうか。
おれはそうじゃないと思う……が、ふと思い出す。昨日の夜。あんな騒動に巻き込まれる前。おれは何と言い訳して問題集を放り投げていただろう。どうせ世の中、本当のことも嘘のことも区別がつかないんだから。こんなことを学んでも無駄なんだから。知らないことは、永遠に知らないままでいるしかないんだから。
そういうスケールの話、なのかもしれない。
「でも、何だかんだでこういう推薦枠があるっていうことは、まだまだ央都には色んな……知識?が集まってるってことでしょ。だから、」
本気で、と百羽が呟く。
「狙ってみようかなと思って。推薦枠」
そのときおれは、気が付いた。
いつまでも、同じ時間が続くと思っていたってことに。
もちろん、理屈で考えればそんなことはありえない。当たり前だ。おれだって子どものころから成長して十七歳まで辿り着いたんだから。時間が流れないなんてことはありえない。
頭ではわかってる。
でも、頭以外のところじゃ、わかっていなかった。
隣の部屋に百羽が住んでいて、大慌てで「ねえ宿題やってない!」と扉を叩いてくる朝とか。隣の席にあずきが座っていて、居眠りこいてるのを誤魔化すために裏声で問題の答えを叫んでやる昼とか。コンビニに新しい商品があるって全部一個ずつ買って、これは美味いこれは不味いふざけんなこれも美味いとか言って、いつまでも騒いでいた長い夕暮れとか。
ベランダに出て、白い息を吐きながら雪を見る夜とか。
そういうのが、ずっと続くと思っていた。
「……そっか」
でも、そうじゃない。
それがわかったら、言うことは一つだった。
「頑張れよ」
うん、と百羽が小さく頷く。
それで、言いたいことは言い切ったのかもしれない。そうだ、と気を取り直したように、
「玲ちゃん、結局なんで呼び出されたの?」
「同じ話だよ」
「同じ?」
「央都の推薦枠使わないかって。おれがこの学年で一番成績良いから」
百羽が、唖然とした顔をした。
開いた口が塞がらなくなっている。おれは顎の下に手を当てて、開いた口を塞いでやる。
「うそ」
もっかい開く。
「誰が宿題写させてやってると思ってんだ?」
いや、とか。そう言われれば、とか。そういうことをもにゃもにゃ百羽が口にする。もにゃもにゃ言って現実を受け入れた後、
「受けたの?」
「断ったよ。だって……」
別に、今でも十分幸せだったし。
という言葉は、口にはできなくて、
「別にわざわざ、央都まで行って勉強したいことなんかねーし。つか、推薦枠埋めておいて『頑張れよ』とか言ってたらおれの性格悪すぎるだろ」
「知らない一面があるのかと思った」
「なくてよかったな」
うん、と百羽は頷く。
それから、じっとおれを見つめて訊ねてくる。
「頑張るの、応援してくれる?」
当たり前だろ、とおれは答えた。
∞
それからの一年は、どうってことのない日々だった。
不思議な夜はエスカレートしていくかも、なんて心配は杞憂で終わった。何度か百羽に付き合わされて夜のコンビニに出掛けたりもしたが、何にも遭遇しない。店番の婆さんも起きやしない。どころか、雪も二度とは降らないままに冬が去り、夏が来た。げっそりするような、そのへんの道路に生卵を落としたらそのまま目玉焼きになるようないつもの夏だ。
それでも、一度決めたら最後までやり通すタイプだったらしい。
百羽の成績は、めきめきと伸びていった。
初めの頃こそおれに色々訊いてきたりもしたが、教科書の読み方と問題集の解き方がちゃんとしてからは、もう何の手助けも要らなかった。あっという間におれの成績も抜き去って、試験のたびにいちいち自慢してくるようになった。実を言うとおれは人の努力を称えるのが好きなので、これ幸いとばかりに褒めちぎっていたら、すぐにやめた。それからは一人で黙々と机に向かうばかりで、そこから先でおれのやれることといえば、たまにあずきと一緒になって息抜きに誘ってやることくらい。
あっさりと、次の冬が来た。
あっさりと、百羽は試験に受かった。
そしてあっさりと、別れの時は来た。
∞
「へー……。時刻表ってこう読むんだ」
「それも教科書に書いてあればよかったのにな」
むっとした顔で百羽が掲示板から顔を上げるから、違う違う、とおれは弁解する羽目になる。
「別に、嫌みじゃなくて。困ったら訊けよ、駅員に。多分央都にならいるだろうから」
駅は、〈塔〉から直通のシャトルバスが出ている。
乗ったことはなかった。初めて乗って、初めての駅。電光掲示板の前で迷って、切符を買って、改札で見送るだけっていうのもここまで来たら何だか薄情な気がしたから、わざわざ入場券を買ってホームまでついてきた。
無人のホーム。三月の十四日。
まだ、冷たい風の吹く冬の名残の日。
うん、と百羽は素直に頷いた。おれがただ心配してるだけってことをわかってくれたらしい。それから、急にそわそわし始めて、
「大丈夫かな。忘れものとかしてないよね?」
「落ち着けよ。何かあったらこっちから送ってやるから」
「送ってもらえるの待てない忘れものって何がある?」
「向こうの部屋の鍵。携帯。あと財布」
「あっ、財布持ってきたっけ」
「さっき切符買うとき使っただろ」
そうだった、なんて間の抜けたことを言う。
言って、肩を落とす。溜息を吐く。細く白く、息が立ち上る。
「大丈夫かよ」
おれは言った。
「電車に乗る前からこれじゃ、央都に着くまでにストレスでおかしくなるんじゃないか」
「電車に乗っちゃったらもう、乗ってるだけでしょ。乗るまでが一番緊張するの」
「駅までは来られたんだから、もう乗るだけだろ」
「そうだけど」
そうなんだけど、と百羽は言う。新品の靴を、足先で擦り合わせる。
「玲ちゃん」
「ん」
「あのね、」
『まもなく、一番線に――』
そうしたら折り悪く、電車の到着を予告するアナウンスが流れ始めた。
「何だ?」
それが終わるのを待ってから続きを促すと、百羽はうつむいたまま、首を横に振った。だから、おれは先に腰を上げた。
百羽はこの日のために、新しいキャリーバッグを買った。白くて新しくて、かなり可愛い。持ち手のところがシュコシュコ鳴るのが楽しいらしくて、出し入れしすぎて一回指を挟んで、半泣きになっていた。そのときの絆創膏は、おれが巻いてやった。
もう、これからは百羽が自分で巻くんだろう。
あるいは、おれの知らない誰かが。
「ほら、電車来るぞ」
ぽん、とそれを叩くと、ようやく百羽は立ち上がった。危うげなく持ち手を伸ばして、ごろりとバッグを引く。
電車が来る。
電車が停まる。
不思議と、清々しいような気がした。
「元気でやれよ」
ドアが開く。
ところがここで、予想外のことが起こった。
「……おい?」
百羽が、動かなかった。
まっすぐに前を向いたまま答えもしない。幸いなことに、そんなに電車ってやつは急いで扉を閉めるわけじゃないらしい。まだしばらく開いている。さっさと乗れ的なアナウンスも聞こえてこない。
でも、いつ聞こえてくるかわからない。
「どうした。乗り遅れるぞ」
「バレンタイン」
意味不明な単語が、百羽の口から放たれた。
「バレンタイン?」
「玲ちゃん、チョコくれたよね」
ああ、と一応相槌を打ってみる。
確かにあげた。というか、毎年あげてる。いつ頃から習慣になったんだったか忘れたが、昔からそうで、今年もそうした。勉強頑張ってるよなって、いつもより多少手の込んだものを。
「あげたけど、それがどうした」
つか電車、という言葉を百羽は聞いていない。
ポケットに手を突っ込む。そうすると、手品みたいにそこから小さな包みが出てくる。あ、と気付く。
今日の日付。三月十四日。
ホワイトデー。
ようやく繋がった。最後の最後だから、柄にもなくこういうのを返す気になったらしい。そして柄にもないものだから、気恥ずかしくて最後の最後まで渡せなくて、ここでうだうだやっていたらしい。
現在進行形で、うだうだやっているらしい。
早く乗れよ。
「そっか。ありがとな」
しかし、折角こうしてくれるというものを「そりゃどうも」と横から奪ってしまっては、いかにも百羽の気持ちを蔑ろにしている。おれはできるだけ爽やかな笑みを作った。急かしているのが滲み出ない程度に急かしてやろうと、さりげなく右手を出して、早めに受け取ろうとした。
意味がなかった。
百羽はそれを持ったまま、電車に乗り込んでいったから。
「はあ?」
と声が出そうになるのを、おれは何とか呑み込んだ。華々しい門出だ。電車も発車直前だ。いいじゃないか。乗ったことには乗ったんだから。最後のときくらい、怒ったり何だりしないで、綺麗な別れのシーンを演じよう。
百羽はそんなのお構いなしだった。
振りかぶった。
ぶん投げた。
おれの顔を目がけて。
「ぐえっ!」
カーン、と華麗な音がした。
同時に電車の発車ベルが鳴り出している。おれの額を直撃したホワイトデーの包みは、放物線を描いて宙を舞っている。感触からしてキャンディらしかった。
おれは健気な奴だから、たとえその渡し方が『ぶん投げる』であったとしても、ホワイトデーに貰ったものが地面に落ちていくままにはしない。
空中でキャッチしようとする。位置がひどい。足が椅子に突っかかる。転ばないようにしたら、自然と腰を下ろす形になる。
崩れ落ちるみたいに座る。
キャンディが、空から胸に落ちてくる。
電車のドアが閉まっていく。
百羽が、叫ぶ。
「――待ってて!」
ガタンゴトン、といかにも旧時代的な音だけを残して、電車は去っていった。
誰もいなくなった駅のホーム。ホワイトデーのキャンディを一包みだけ残されて、一人ぼっちになって。
改めて自分のことを客観視してから。
おれは自分の置かれた状況が全く信じられなくなって、呟いた。
「……おれ、待ってなきゃいけないわけ……?」
さらに信じられないことを言う。
この後七年、何の連絡もなかった。




