03 影
おれがおかしいのかと思った。
多分隣で百羽も、「わたしがおかしいのかな」と思っていた。
その証拠に、ふたりで全く同じポーズをした。両腕を小さく広げて、手のひらは上。顔の角度は斜め上。四十五度。
廊下の天井をすり抜けるように、はらはらと雪が降ってくるのを見つめている。
「雨漏り、みたいな?」
みたい、という言葉もびっくりしているだろう。まさかうら若き女の子が自分にそこまでの役割を期待してくれるなんて……。しかし、どう見ても雨漏り『みたい』という表現じゃ回収できない現象が目の前で起こっている。
ジャンプして、天井にタッチ。
とりあえず、おれたちがホログラムを見ているってわけじゃなさそうだった。
「なんだこりゃ」
「え、触れたの?」
ぴょんぴょんと百羽が跳ねる。悲しいかな、身長と跳躍力が足りずに届かない。おれのことをじっと見てくる。それからその視線が床に動く。
四つん這いで台になれ、というメッセージ。
四つん這いで台にならせていただいた。
「あ、ほんとだ。触れる」
「なあ、すげえ背中に固い感触があるんだけど、それ靴のままじゃないか?」
「わたし西洋かぶれだから」
「そうか。暴れ馬になって思う存分西洋体験をさせてやってもいいんだぜ」
「え、これどうなってるの?」
ありえなくない、と感想をまとめて百羽が背中から降りてくる。立ち上がると、そのまま背中をぱんぱんと叩いてくる。気遣いというより、証拠隠滅の匂いがする手つきだった。
さて、改めて状況を整理する。
おれたちがいるのは、〈塔〉の四階居住区。塔は内廊下タイプ……つまり、玄関を開けたらすぐに外みたいな、古い漫画で見るタイプじゃない。燃料の問題で廊下まで冷暖房完備とはいかないし普通に寒くはあるが、それでも一応、ちゃんと屋内だ。
屋内に、雪が降っている。
天井をすり抜けるようにして、はらはらと。
下を見た。
「積もってはないな」
「え、なんで? 普通に触れるんだけど」
百羽の言う通りで、広げた手のひらには雪の冷たい、それからすぐに解けて水になる感触がある。雪は本物。天井も本物。床もとりあえず、立っているってことは本物。
なのに、何なんだこの光景は。
「トンネル効果か……」
「今、賢こぶって適当言ったでしょ」
「そのとおり」
「でもほんと、何なんだろうね。〈塔〉の隠し機能?」
流石にそれはないだろ、とも言い切れない。
〈塔〉――〈二十五重の塔〉は、この国がわやくちゃになる前の、最後の大規模公共事業の成果だ。
少子高齢化とかいうやつが、当時のこの国を襲っていた。地方から人が減って、これまで何百年とか人が住んできたはずの土地の多くが、維持できなくなった。野生動物が跳ねまわるなんてまだまだ序の口だ。水道ガス電気の供給コストが、人が少なくなった分、残った人間に余計に重くのしかかる。重たいもんだから外に出る。残った奴らはさらに重たくされる。そういう負のループが続いて、ついでに「移住の自由があるのにわざわざ好き好んで田舎に住んでる奴は馬鹿」なんて風潮も出てきて、田畑は荒れ果て、さらに野生動物が跳ねまわり、都市は侵食され、まあそんな感じ。
対症療法として、荒っぽいコンパクトシティ構想が導入された。
どのくらい荒っぽいかと言うと、「タワーマンションを作ってそこに過疎住民は全員押し込めちまえ」というくらい。そうすればライフラインも交通網も安く上がる。市役所も学校も全部ここに突っ込んじまえ。
突っ込まれた。
もちろん突っ込まれた側のおれたちは、ここがどういう機能を持った施設なのかなんて細かくは知らない。一応、最新技術が色々と使われていたという触れ込みだけは知っている。
それにしたってどう考えても室内に雪が降るいわれはないのだが、実際目の前に起こっているわけだし、よくわからないことは全部〈塔〉のせいにしてみたくもなる。
「あれか。経年劣化で天井の建材が剥がれてきてるとか」
それで本当は床にちゃんと降ってるんだけど、くっついてわからないとか。
こじつけてみたら、何だかそれらしい気がしてきた。
が、百羽はそれどころじゃなかったらしい。
「ね、下の階がどうなってるか見にいこうよ」
おれの返答なんか聞いちゃいなかった。
百羽が歩き出す。おれは少しだけ溜息を吐く。
「待てよ」
それで、いつもみたいに追いかける。
∞
コンビニは学校と同じ、一階にある。
階段を降りている間、ようやく百羽が気が付いた。
「そういえば、停電してる?」
人感センサーが反応してなくて、廊下が真っ暗なままだってことに。
雪に気を取られていたからだろう。ちなみに、おれはちゃんと気が付いていた。気が付いていたから階段の先をさっきから携帯のライトで照らし続けているわけで、だから雪明かりだけの夜でも、とりあえず二人揃って仲良く階段下まで転落せずに済んでいる。
「玲ちゃん、部屋出るときどうだった?」
「部屋は普通に点いてたよ。でも、昨日もこんなんだった。廊下のセンサーが壊れてんのかもな」
「うそ。雪は?」
「雪は別に」
結構、新鮮な景色ではあった。
真っ暗な廊下や階段なんて、こんな機会でもなければ歩くことはない。夏には「どんな採光してんだよデザインもうちょい考えろ」と文句を付けずにはいられない踊り場の大窓が、今は冬の冷気もあいまって、冴えた湖の水面みたいに見える。向こうでも雪が降って、こっちでも雪が降って、光景がそっくりそのまま鏡写しみたいだから、そんなところまで。
「降ってなかったけど――」
その続きを口にするか迷っていたら、口にする必要がなくなった。
目の前の光景の方が、もっと衝撃的だったから。
「積もっとる」
「積もってる!」
わーっ、とはしゃいだ犬みたいに百羽が駆け出した。そんなに喜び回るほどの積雪量じゃないが、確かに、肉眼で見てもはっきりわかるくらいには積もってる。一階の床の上に薄く雪が敷かれて、携帯のライトを切ってもなお、ぼんやりと足元が光るくらいに白く輝いている。
それを見ながら、改めておれは考えている。
やっぱり、今見てる光景は変だ。
昨日見たのと、同じくらい。
何かが起こっているのか、それとも無関係なのことなのか。この後は三十代前半になったあずきあたりがおれたちの前に姿を現すのか。
言ってみようか、と思った。
昨日あったことを、百羽にも全部。突拍子もない話だし、どうせ言っても「ふざけるな!」とか言って暴れ始めるだけだと思っていたけれど、今のこの状況を目の当たりにしながらなら、ちょっとは耳を傾ける気になるかも――
「ぶべっ」
なんてことを考えていたおれが悪かったのか。
べしゃ、と顔から雪が滑り落ちる。鼻が気持ち悪いから、口を開けて呼吸する。雪の味がする。
雪玉を顔に投げつけられた。
投げつけた本人は、惚れ惚れするような投球フォームのまま、「やべ、ほんとに当たっちゃった」という感じの顔をしている。
「あ、今の嘘。うそうそ。うそだから」
「何が嘘なんだ、よっ!」
「いったあ!?」
痛いわけはないが、あからさまに大袈裟に百羽は飛び跳ねた。そのはしゃぎっぷりを見たら、おれは真面目にものを考えていたのが馬鹿馬鹿しくなってきた。このままではおれはまともに考えごともできなくなり、雪を拾って固めてぶん投げる技術だけがどんどん上達してしまうが、仕方がない。雪を拾って固めてぶん投げる。ぶん投げられる。原始人もやっていたであろう冬の遊びを、最新施設の廊下で繰り返す。
まだ、積もりに積もっているってほどじゃない。
だからすぐに床はまだら模様になって、投げつけ合う雪玉もシャーベット状になって、これ部屋に戻ったらすぐに風呂入らないと風邪引くなという予感が全身を支配して、その頃のことだ。
べしょっ、と雪玉が足に当たった。
おれの足じゃなかった。それを投げた百羽の足でもなかった。ぽかんとした顔を浮かべている。指を差す。おれは振りかぶっていた腕を下ろして、その指が差す方を見る。
紫色の影が、そこに立っていた。
影というのも間違っているかもしれない。色が濃いからそう見えるだけで、実際は光っているのかもしれない。紫色というのも正確じゃない。黄色とか赤とか青とか、デザイン性のない万華鏡みたいな色が、その影の中で無数に走っている。
形は、人によく似ている。
「おい」
後退りする。蛇のときよりもずっと慎重になって、相手を刺激しないようにおれは百羽のところまで下がっていく。
「関係ない人まで巻き込むなよ」
「何、あれ」
百羽がおれの服の背中を掴む。
「人に向かって『何』とはなんだ。機嫌を悪くされたらどうする」
「人なの?」
ごもっともな疑問だった。
フォルムはかなり人に近く見えるが、テクスチャの方は奇怪な宇宙の謎にしか見えない。どうしてこんなところに宇宙の謎がお出ましになられたのか。これなら未来の芳尋堂あずきが現れる方がよっぽど話はわかりやすかった。
「あ、あの!」
おれの陰に隠れて、百羽が声を張り上げた。
「雪、ぶつけちゃってごめんなさい! わざとじゃないんです!」
声を張り上げ終わると、しんとした空気が戻った。今度は百羽は小声で、
「許されたかな」
「そもそも怒ってるのか?」
「玲ちゃんが言ったんじゃん。機嫌が悪いとか何とか」
影は、そのまま動かない。
ぼそぼそとそのまま、おれたちは相談を続ける。
「どうする?」
「動かないなら、無視でいいんじゃないか。向こうの階段に周って戻ろうぜ」
ところで、雪合戦をしている間におれたちはすっかり見覚えのある場所まで辿り着いていた。
なんと、教室の前だ。この〈塔〉の中でも自分の部屋の次に見慣れていると言っていい場所だが、そこに積雪が重なると何だか夢の中にいるようで、そこにさらに宇宙の謎が加われば、相当悪い夢の中にいるような気がする。
幸いなことに、いくら広い〈塔〉の中とはいえ、ここからならどこをどう行けば部屋まで戻れるかくらいはわかる。
「え、帰るの?」
百羽がとんでもない発言をした。
「意味がわからない。なんだその質問」
「だって、」
気になるじゃん、と呆れたことを言う。
このとき、おれたちは全ての条件を満たしてしまったことになる。
犬とかクマとかハチとか、そういうのと遭遇したときの対処法の話だ。慌てない。騒がない。これはさっき百羽が大声で謝罪したのでダメになった。相手を刺激しない。これはそもそも雪をぶつけたところからなので、初めから成立しない。
何を言ってるんだこいつは、という目でおれは百羽を見た。百羽もまた、おれを見た。
最後の条件が成立する。
目を離しちゃいけないのに、離した。
それに気付いて視線を戻したら、もう取り返しがつかなかった。
増えてる。
「うお、」
わらわらと。
さっきはいつの間にか現れたが、今度は違う。現在進行形で現れ続けている。増え続けている。
幽霊みたいに、雪みたいに、壁をすり抜けて。
おれはもう、すっかり諦めて視線を切った。開き直って百羽だけを見た。百羽も同じだった。こくん、と頷き合う。言葉はもう要らない。
「――逃げんぞ!」
駆け出したら、それが合図だった。
信じられないことに、影には音がなかった。廊下におれたちの足音だけが響く。教室なんか一瞬で過ぎ去った。ろくに使われていない共同エントランスを駆け抜けた。やっぱりあの影は影じゃなくて光なのかもしれない。おれたちの足元にいつもある方の『影』は進行方向の方に伸びて、緑色だか何色だかの輪郭を浮かばせている。
おれは百羽の背中を押すようにして走る。
こんなときでも後ろの光景に興味津々の国南百羽くん十七歳は、何度も何度も振り返る。
「追ってきてる!」
「わかってるよ!」
わかっちゃいるが、良い手立てが思い浮かばない。
百羽が実況解説してくれるから、おれにも後ろの状況がよくわかる。すごい数になってる。段々間が詰まってきてる。二つの条件を与えられ、演繹的に答えが出る。追い付かれるのは時間の問題。平地で距離を詰められてたら、階段なんか上り始めたらもっとあっという間。
部屋に戻るのは難しい。
光明が見えた。
「おい、コンビニ!」
それは比喩じゃなくて、実際の光の話だ。
「入んぞ!」
背中越しに誘導してやると、素直に百羽はそれを聞いてくれた。
元々の目的地だ。自動ドアに身体をねじ込むようにして滑り込む。というかもう、ヘッドスライディングに近い。そこでようやくおれは後ろを振り返る。まだ後ろの影とは結構な距離がある。
今のうちに何か対策を。
店内に目を凝らす。〈塔〉のコンビニはコンビニ呼ばわりされているだけで、実際にはちょっとしたスーパーマーケットとかホームセンターくらいの大きさがある。古い映画で蓄えた知識が頭に浮かぶ。消火器。殺虫剤とライター。チェーンソー。
どれでもいいからどれか。
すぐ、今すぐにでも。
「あ、あのっ!」
おれの声じゃない。
「あの、あれ、今、追われててっ」
一番最初に目についたのは消火器だった。駆け寄る。手に持つ。防災訓練ではいつも百羽がうきうきで消火器を握るから、おれには使い方がわからない。頼む、と声を掛けようとする。その百羽は、別の人間に声を掛けている。
コンビニのレジには、いつも一人の婆さんが座っている。
しかしこの婆さんというのが、店番という概念を超越した婆さんで、いつ見ても寝ている。おれたちはいつもここに来るたびにおはようございますとかこんにちはとかこんばんはとか話しかけるけれど、いらっしゃいませすら返ってきたことがない。セルフレジで会計している間もぐっすり夢の世界に旅立っておいでで、声を聞いたこともない。
「おいそれより――」
こっち、と言おうとしたとき、気が付いた。
「……なんだそりゃ」
「え?」
急におれは落ち着きを取り戻す。心臓はバクバクだけれど、とりあえず表面上は。
その落差に驚いたらしく、百羽もこっちを見る。それで、同じものを見る。
「……自動ドア、開かないんだ」
影は、おれたちに追い付いていた。
だけど、店の前で止まっていた。
みっしりだ。このコンビニが宇宙船ポッドか何かで、うっかり爆発中の新星に足を突っ込んでしまったような光景。自動ドアのガラス越しにべったりと、紫色の影が張り付いている。
でも、中には入ってこない。
「ここにいれば安全ってこと?」
「かもな。あんま近付くなよ」
忠告すれば、流石にちょっとは懲りたらしい。ふらふら自動ドアに吸い込まれるように歩き出していた百羽は、ピンと背筋を伸ばして後退り。一方おれは、考えている。
自動ドアが開かないから入れないとか、そんな間抜けな話なわけがない。
だって、さっきこいつらは壁を通り抜けていたから。となると、この敷地の中に入れないのは単にそういう、わかりやすい理由からじゃない。何か他にある。ここは今までの廊下と何が違う?
すごく簡単に、次の予想は見つかった。
「なんでここだけ停電してないんだ?」
理由はもちろん、全然わからなかったけれど。
それでもそういう仮説を立てたなら、やるべきことはすぐに思いつく。
ポケットに入れた携帯を取り出す。視界の端で、百羽も同じ結論に達したらしい。ライトを点けようと指を動かす。さらに視界の端で、むっくりと婆さんが立ち上がる。
婆さんが立ち上がる。
立ち上がった。
声を失って、おれも百羽も手を止めていた。唖然として、視線を釘づけにされていた。この婆さんが起きているところを初めて見た。二足歩行しているところも。巨大人型ロボットが動くところを目撃してしまったような気分になる。立ち上がってもそんなに大柄ではないはずだが、何だか途方もなく巨大なものを見上げているような気持ちになる。
おれたちも声を失っていたが、婆さんも無言だった。
無言のまま、自動ドアに向かった。
「ちょ――」
止めようとしたが、間に合わない。
婆さんが、自動ドアのガラスに触れた。
そうしたら、影が一つもなくなった。
ウィーン、と低く音を立てて自動ドアが開く。ついさっきまでの光景が嘘だったかのような、平穏な夜。婆さんはそのまま廊下に出ていく。人感センサーが働く。廊下が明るくなる。これで完全に、いつもの光景が戻ってくる。
おれは百羽と顔を見合わせている。
「今夜は、」
婆さんが戻ってくる。
たぶん、おれたちに向けて言う。
「随分と冷えるみたいだから、暖かくして寝るんだよ」
しわがれた声で言い残すと、カウンターの奥に入っていく。スタッフルームの方に消えていく。
戻ってくるのかと思って待っていたら、戻ってこない。
次の日の朝には、雪も何もかも、綺麗さっぱり消え去っていた。




