四 見抜いたつもりが
見ぬ鴉から戻った翌朝、休暇は二日目。
昨日は東行きだったが、今日のシェリルは南行きの乗合馬車に乗り込む。行き先も特に決めず、ただ普段は通らない路線というだけで選んだ。
着いた先は、川沿いの市が立つ区画だった。露店が並び、楽師が弦を鳴らし、子供たちが走り回っている。特に目的もなく歩いていたが、思っていたよりも楽しかった。本来なら一人で来るような場所ではないのだろう、とどこかで思いながら、それでも十分に楽しめた。
ただ、歩いているうちに気づいたことがあった。やたらと男女の連れが目についた。
腕を組んで歩く二人、露店の菓子を分け合う二人、川辺のベンチに並んで座る二人。今までなら、視界に入っても意識に残らなかったはずのものが、今日はやけに目に留まった。
そして気づけば、並んで歩く二人の足元ばかり見ていた。
男の歩幅は大きく、女の歩幅は小さい。それでも腕を組んだ二人の足は、不思議と同じ拍で地面を踏んでいる。肩の上下が、ほとんど重なっている。
少し先を行く二人は違った。並んではいるのに、片方の肩が上がるとき、もう片方の肩は下がっている。半拍ずつ、ずれていた。
二本の正弦曲線だ、とシェリルは思った。振幅も周期もほとんど同じなのに、位相だけがずれている。腕を組んだ二人はそのずれがほとんどなく、先を行く二人は、ちょうど半周期ずれている。
では、ずれていた二人が揃っていくとき、位相はどう寄っていくのか。どちらが、どちらに合わせるのか――。
そこまで考えかけて、シェリルは足を止めた。
休暇中だった。
考えるのは仕事だと、自分で言ったばかりではないか。彼女は小さく息を吐いて、頭の中に引きかけた二本の曲線を消した。
それでも、目だけは勝手に動いた。
ベンチの二人の片方が、もう片方の肩にもたれた。
その時、自分の肩のあたりが、ほんの少し温かくなったような気がした。昨日、あの店で触れられたところだった。
シェリルは、そこから目を逸らした。
三日目も、別の路線に乗った。北の丘陵地帯まで足を延ばし、遠くにリーヴィンの尖塔を眺めた。
景色は良かった。だが、頭のどこかに、まだ整理のつかない違和感が残っていた。
そして四日目の朝、シェリルは宿舎の寝台の上で、ぼんやりと考えていた。
――なぜ、あの店が気にかかるのだろう。
ワインは確かに美味しかった。それは事実だ。だが、思い返せば、それだけではない気がした。
誰も、私を知らなかった。
あの空気そのものが、今思えば、何よりも欲しかったものだったのかもしれない。特級術師でも、算術書の著者でもない、ただの客として扱われる時間。この二日間、市場でも丘の上でも、彼女は結局どこかで気を張っていた。誰かに見つかるかもしれない、という緊張が、常に薄くまとわりついていた。
あの店にだけ、それがなかった。
そして、あの温かい感覚。
肩から流れ込んできた、あの回復魔法の残滓を、彼女はまだどこかで覚えていた。
――行こうかしら。
結論は、驚くほど早く出た。
その日の昼前、見ぬ鴉のカウンターでは、エイリットがメヴィリアに詰め寄っていた。
「で? どうだったのよ、あの日の夜」
「どう、とは」
エイリットはメヴィリアに顔を近づけた。メヴィリアには、上気したエイリットの顔が少し可愛らしく見えた。
「もちろん彼女の夢に出たんでしょうねって話。あんだけ美人が眠ってたんだから、当然行ったわよね」
メヴィリアは、視線を逸らした。
「……何度か、試したよ」
「で?」
「出れなかった」
「は?」
「たぶん」メヴィリアは、声を小さくした。「処女、なんだと思う」
エイリットは、しばらく口を開けたまま固まっていた。
「う、うそでしょ! あんな堂々と、男の前で酔い潰れて、目が覚めてもあれだけ落ち着き払っている処女がいてたまるもんですか!」
エイリットの声が、思わず店中に響いた。
「普通、警戒するでしょ。知らない店で、知らない男の前で。なのにあの寝っぷりよ。あれで処女とか、意味分かんないんですけど!」
メヴィリアは、困ったように肩をすくめた。
「僕にも、よく分からない。あの魔法で起こしてそのまま襲ってしまおうと思ったけど……術が効かなくて、それどころじゃなかった」
押し気味にメヴィリアを問い詰めるエイリットの時間が続く中、扉が開いた。
「いらっしゃい……お、また来たかい」
ドワーフのマスターが客を一瞥した。
シェリルだった。
――あ、やばっ。これは私が邪魔だわ。
エイリットが、さっと真顔に戻って脇へ引っ込んだ。
「シェリルさん」
「また来たわ」
「その、いらっしゃると思ってなくて」
メヴィリアは、少し慌てたように布巾を置いた。頬にわずかに赤みが差しているのが分かった。
シェリルはカウンターに座った。
「今日も、ドルヴェナのワインを」
「おぅよ」
注がれたグラスを傾けながら、シェリルは店の中を見回した。この前のトカゲの男の姿はなかった。
その後、マスターは洗い物のためにカウンターの奥へ引く。
そうしてカウンターには、彼女とメヴィリアだけだった。
「そういえば」メヴィリアが、少し時を置いて思い切ったように口を開いた。「今日、このあと、お時間ありますか」
「時間なら、あと六日あるわ」
「あの、その」彼は言葉を選んでいるようだった。「よかったら、少し、外を歩きませんか。この時期、東の方でサーカスの一座が来てるんです」
「いいわ」
自分でも、その返事が意外に思えるほど、すんなりと口から出た。
サーカスの天幕は、東門からさらに外れた広場に張られていた。人が集まっていたが、シェリルの顔を知る者はいなかった。
綱渡り、火の輪をくぐる獣、空中を舞う軽業師。シェリルは、それらを黙って見ていた。理屈で説明できる仕掛けもあれば、そうでないものもあった。
いつもであれば、火の輪に円周の方程式を見出し、綱渡りの一歩一歩に漸化式と収束を重ね、宙返りには偏角が二π進むさまを追っていただろう。だが今日は、分析しようという気があまり起きなかった。
ただ、彼の横でそれを見ていた。
隣で、メヴィリアが小さく声を上げた。軽業師が失敗しかけて、すんでのところで持ち直した瞬間だった。彼のほうが、よほど純粋に驚いているようだった。
――あれ。
――なんだか、楽しい。
その感覚に、自分でも少し驚いた。分析するでもなく、比較するでもなく、ただ楽しいという言葉が、そのまま胸の中に収まっている。こんな感覚を、最後に持ったのはいつだっただろうか。思い出せなかった。
「メヴィリアと一緒だと」思わず、口にしていた。「楽しいわ」
メヴィリアが、驚いたようにこちらを見た。
「そう、ですか」
「ええ」
彼は何かを言いかけて、結局何も言わなかった。ただ、耳の先が少し赤くなっていた。
試しにメヴィリアは、少しだけ身を寄せてみた。肩と肩が、触れる。
シェリルは……何も言わず、そのままにしていた。
――あぁ、これは脈あり……いやいや待て待て。
でも、ここで怖気づいたら、またエイリットに小突かれる。
サーカスを出ると、日は傾き始めていた。
メヴィリアは、寂れた裏通りへと足を向けた。人気のない道を、二人でゆっくりと歩いた。
ふいに、彼の手がシェリルの手に触れた。
一瞬だけ、指先が絡むように動いた。
普通の人間なら、驚いて手を引くところだろう。だが、シェリルは動かなかった。
――この感覚。
興味深い。
嫌悪も警戒も湧いてこない。それどころか、彼が何度も、さりげなく触れようとしていることに気づいた。歩調を合わせるふりをして肩が触れる。何かを指し示すふりをして手が触れる。
私に、触りたがっている。
面白い、と思った。
そして同時に、ある確信が形をなした。
――この人は、人間ではない。
根拠と呼べるほどのものはなかった。だが、確信だけがあった。異種族の店で、当たり前の顔をして働いている男。触れ方の質、視線の質、何もかもが、彼女の知る人間のそれとは違う何かを含んでいた。
「少し、休みませんか」
メヴィリアが、路地の奥を指した。地下へ降りる階段があり、その先に小さなカフェの明かりが見えた。
薄暗い店内には、他に客はいなかった。二人は奥の席に座った。
シェリルは、単刀直入に切り出した。
「あなた、インキュバスね」
メヴィリアの体が、大きく跳ねた。
「――え」
「それを知っていて、どうしてついてきたんですか」彼は震える声で聞き返した。
「興味があったから」
「僕に、ですか」
「あなたに、というより」シェリルは、彼をまっすぐ見た。「インキュバスに」
メヴィリアは、視線を泳がせた。そこにシェリルは少しだけ身を乗り出した。
「夢に出てくるものなんでしょう」
彼は、しばらく黙っていた。それから、観念したように口を開いた。
「そう、です」
「試した?」
「……はい」
「出られた?」
完全にシェリルが押していた。そんなシェリルに対してメヴィリアは、目を伏せた。
「出ようとしたんです。でも、出られませんでした」
正直に、そう言った。
シェリルは、その答えを静かに受け止めた。予想の範囲内だった。だが、次に彼が言った言葉は、予想の外だった。
「シェリルさん……あなたは、処女ですね」
メヴィリアは、少し声を落として言った。
シェリルの体が、大きく跳ねた。
――え。
相手を見抜いたつもりだった。優位に立っているつもりだった。それが、一瞬で反転した。
見抜かれている。
自分より先に、相手のほうが自分を見抜いていた。
――ああ、なんてこと。
上を、行かれている。
だが、その衝撃はすぐに、別の感情に上書きされていった。
シェリルは、インキュバスという種族について、文献で読んだ程度の知識は持っていた。夢に入り込み、精気を吸う魔族。種によって性質は様々で、力の強さも、副作用の出方も一様ではないという。
だが、目の前にいるのは、そのどれとも違う。
――処女の夢には、現れることができない。
そんな制約を持つインキュバスがいるとは、どの文献にも書かれていなかった。
――面白い。
――面白すぎる。
シェリルの頭の中で、いくつもの仮説が同時に立ち上がった。これは種族全体の性質なのか、それとも彼個人の事情なのか。処女という条件が、なぜ夢渡りの流路を塞ぐのか。塞ぐ機構は、いったいどこにあるのか。
考えているうちに、口が勝手に動いていた。
「ということは」
シェリルは、まっすぐにメヴィリアを見た。
「私が処女でなくなれば、夢に出てくるのね」
メヴィリアが、椅子から転げ落ちそうになった。
「そ、それって――」声が裏返っていた。「それって、どういうことですか!?」
「言葉のままよ」
「いや、あの、その」彼は両手を振り回しながら、意味のない音を漏らした。「僕は、その、そういうつもりで言ったわけじゃ」
「知っているわ。ただの確認」
「確認って」
メヴィリアの顔は、今や耳まで赤くなっていた。シェリルは、その反応を興味深く眺めていた。記録が一つ増えた、というだけの感覚だった。彼女自身、自分がどれほど大きなことを口にしたのか、まだ気づいていなかった。




