三 届かない風船
夕刻まで、メヴィリアは結局カウンターの端に居座っていた。在庫を見に来たというのは口実で、もとより非番の日を飲んで過ごすつもりだったのだ。
メヴィリアは店を出て自分の住処へ戻った。ここから更に街の中心から外れた場所にある一軒だった。ここには誰も呼ばない。この建物の奥には、彼の種族にとって欠かせない部屋がある。夢渡りの間だ。
彼にとって、これは食事と同じ行為だった。三日に一度こなさなければ、人間でいうところの空腹に似た状態になる。
夢の中に現れるといっても、相手の側から見れば夢に過ぎない。だが彼の側は、実体としてそこに立つ。触れれば感触があり、声を出せば声が届く。夢渡りの対象となった本人には、それが夢だったのか現実だったのか、覚めた後も判然としないことが多い。
顔見知りの女は何人かいる。何度か話したことのある、市場の店員もその一人。目を合わせて会話までしていれば夜の相手の候補となり、夢渡りの流路も開きやすくなる。が、同じ相手の夢に出続けると、対象の体力そのものを継続的に奪い続けることになる。そして相手にとっては夢だがメヴィリアは実体だ。穏便に事に及べなければ、夢の中とはいえ抵抗されて傷や痛みを負うこともあり、それはそのまま現実に持ち込まれる。最悪、命を落とすこともあるとか。
そのメヴィリア、今日は前の夢渡りから三日目。そろそろ人間でいうところの空腹のタイミングである。
――上手く行ったら、奥の部屋に。
昼間、自分が何を考えていたかを思い出す。人間の女がカウンターに突っ伏して眠っていた。それを見て、真っ先に浮かんだのがその考えだった。
あれは、ただの下心だったのか。
それとも――メヴィリアは頭を振った。こういうことは、あまり考えない方がいい。相手は今日会ったばかりの客だ。次に来たときの事を言っていたような気もするが、また来るとも限らない。名前を知っただけの、通りすがりの人間の女。
考えるだけ無駄だ。
そう自分に言い聞かせながら、彼は目を閉じた。
意識を、夢渡りの流路に乗せる。誰にするか……昨日の仕入れの時、市場の入口に居た新入りの女性に声を掛けられて挨拶をした。
――二度連続で市場の子だと、変な噂がたつかもなぁ……でも可愛かったし……
だが、意識が向かった先には、別の顔があった。
紫の髪。深い、ヘーゼルの瞳。カウンターに突っ伏していた、あの姿。
気づけば、彼はその顔だけを思い浮かべていた。
――駄目だ。
止めようとした時には、もう流路は動き出していた。一度でも顔を合わせ、言葉を交わした相手であれば、道は開く。今日、確かに話した。それだけではなく互いに名を呼びあった。市場の女よりも強い条件が成立していた。
条件は、揃っているはずだったが……途中で道は途切れていた。近くまで行けるのに、その先に行けない。
まだ彼女は寝ていないのであれば仕方がない。時間をおいてもう一度流路を辿ってみる。
が、途中で何かに阻まれた。壁ではない。道そのものが、途切れている。
時刻を確かめる。夜も更けている。眠っていておかしくない時間だった。
この感覚には覚えがあった。何年か前、一度だけ経験したことがある。相手が起きているわけではない。眠っている気配は、確かに感じ取れる。なのに、道が開かない。
インキュバスの中でも、メヴィリアの種に伝わる、数少ない制約のひとつだった。
――も、もしかして、しょ……処女?
そう、処女の相手には夢渡りができない。
理由は分かっていない。インキュバス自身にも説明できない、種族としての不可侵。実際に触れたことはあっても、夢では届かない相手。
メヴィリアは、しばらく暗闇の中で座ったままでいた。
落胆半分、そして興味も半分。しかし、これ以上どうにもならないと分かった以上、気を取り直して別の相手を探すメヴィリアだった。実際に今宵の夢渡りも完遂したのだが、彼の中に釈然としない何かが残っていた。
時は戻って、その日の昼。
姉が朝に出て行ってから、アノリスは師団の朝礼に出ていた。
昼を過ぎても、次の実技訓練までにはまだ間があった。十四時から、組分けされた訓練場での実戦形式が始まる。それまでの時間は、特に何をするでもなかった。
王宮の広場のベンチに、アノリスは腰を下ろした。
日差しはよく、風が心地よかった。何をするでもなく座っていると、自然と考えるのは姉のことだった。
十日間、休むと言っていた。休めるのだろうか、と思う。
姉は休むということが下手だ。休めと言われて、素直に何もしないでいられる人間ではない。今頃どこで何をしているのだろう。
そんなことを考えているうちに、ふいに別の記憶が滲んできた。
あの日のことだ。姉が毒を盛られた日。
もう、涙は出ない。あれからずいぶん経った。だが、思い出すたびに胸の奥が重くなる感覚だけは変わらなかった。
腕に無意識に力が入る。拳を握っていたことに、アノリスは自分で気づいた。
「なーんか疲れてんじゃない?」
声が、後ろからかかった。
振り向くと、ミレイが立っていた。風にあおられた明るい髪、崩れた着こなし。相変わらずのギャルらしい佇まいで、片手を軽く上げている。
「今日、同じ組だからさ。訓練場行く前にちょっと見かけたから声かけた」
「ミレイ」
アノリスは、ようやく我に返った。
この人には、借りがある。上級試験の少し前、絡んできたチンピラから助けようとしたのはアノリスのほうだったはずが、実際にはミレイのほうが冷静に場を収めていた。それに、姉の指導を受ける場面を何度か見た。姉さんはミレイにばっかり教えていて――そう拗ねたこともある。あの時、負けじと編み出したのが、斬撃に雷撃を乗せる今の技だった。
「なんか、ぼーっとしてたね」ミレイが、アノリスの隣に腰を下ろした。「大丈夫?」
「別に、平気かな」
アノリスは、拳を開いた。
ミレイは、それ以上は踏み込んでこなかった。ただ、隣に座ったまま、風に吹かれる髪を押さえていた。
「ミレイってさ」アノリスは、わざとおどけた調子で言った。「なーんか悩みが無さそうー」
「は? それ失礼ってもんじゃん!?」
ミレイが、勢いよく振り向いた。
「あたしにだって悩みくらいあるし。つーか、めちゃめちゃあるし」
「うそだー……というのはさておき、でもあんまり悩んでいる顔見たこと無いし」
ミレイは、腕を組んで明後日の方を向いた。それから、少し声のトーンを落とした。
「あたし、自分で言うのもアレだけどさ、あれだけ算術得意なくせに実戦だと全然動けないんだよね。上級試験の筆記の算術満点だったのに、なんで実戦だと差が出るのって、たまに真剣に凹む」
アノリスは、少し意外な気がした。ミレイが自分から弱音を吐くのは珍しい。
「そうだよね。姉さんと話が合うのも、素直に凄いと思う」
「そ、なのに模擬戦になると、頭の中で式が回ってるうちに相手が目の前にいんの。あれ、ほんと何なんだろ」
ミレイは笑ってみせたが、目は笑いきっていなかった。
アノリスは何か言おうとして、やめた。自分はその逆だ。考えるより先に体が動く。だからこそ、軽々しく言えることが何もなかった。
「ま、いいや。それよりさ」
ミレイが、ぱっと顔を上げた。声の調子は、もう元に戻っている。
「アノリスって、今日も夜のお仕事あるの?」
「夜のお仕事って言い方、なんかいやらしくない?」
「いやらしいじゃん。セクシーな格好するんでしょ?」
ミレイは、わざとらしく片目をつむってみせた。
「しないよ! 受付だってば」アノリスは思わず身を乗り出した。「お客さんの名前聞いて、予約見て、案内するだけ」
ミレイはベンチの背にもたれ、空を仰いだ。
「受付の子も綺麗な服着てるって聞いたけど」
「……それは、まあ、店の格ってものがあるから」
言いながら、アノリスは目を逸らした。嘘ではない。ただ、普段着で立てる場所でないことも確かだった。
「ほら、やっぱり」
「ほらじゃない」
ミレイが、けらけらと笑った。
踏み込んでこなかった代わりに、まるで関係のない話を持ってきた。それがわざとなのかどうか、アノリスには分からなかった。ただ、つられて少し笑ううちに、胸の奥の重さがいつの間にか軽くなっていた。
その時、広場の端で、泣き出しそうな子供の声がした。
見ると、五つか六つくらいの男の子が、一本の木を見上げて立ち尽くしている。高い枝に、赤い風船が引っかかっていた。
紐が細い枝に絡み、風が吹くたびに、風船が尖った小枝に押しつけられている。
「あー、あれ」アノリスが腰を浮かせかけた。「ちょっと行ってくる。風で――」
「待って、あんたのは強すぎ」
ミレイが、アノリスの袖を引いた。
「割れるじゃん、あれ」
言われてみれば、その通りだった。アノリスの風は、斬るためだけのものではない。吹き寄せることも、押し返すこともできる。ただ、こういう細かい加減は昔から苦手だった。力を絞ろうとすると、かえって風が暴れる。あの枝に届く頃には、風船ごと弾き飛ばしているだろう。
ミレイは立ち上がり、木の下まで歩いていった。泣きかけの男の子の頭に、ぽんと手を置く。
「ちょっと待ってなぁ」
それから、指先を軽く持ち上げた。
何かが起きた、とは見えなかった。ただ、木の葉が一枚、二枚と、ゆっくり裏返った。枝の下のほうから、ごく弱い風が、撫でるように上っていく。風船がふわりと浮き、絡んでいた紐が、枝から一巻きずつほどけていった。
最後の一巻きが外れた。風船は枝を離れ、見えない手に受け止められているかのように、ゆっくりと降りてきた。
ミレイが手を伸ばし、紐の端をつまむ。
「ほら」
男の子は、目を丸くしたまま風船を受け取った。
「おねえちゃん、ありがとう!」
そう言って駆けていった。走るたびに、赤い風船が背中の上で跳ねていた。
アノリスは、ベンチに座ったまま一部始終を見ていた。
小さな風だった。あれほど弱い風を保ち続ける。強く吹かせるのとは違う難しさ――少なくとも自分には、できる気がしなかった。
「……すごいね、今の」
戻ってきたミレイに、アノリスは素直に言った。
「そう? 割らないように、ちょっとずつ測っただけ」ミレイは肩をすくめた。「でも戦いの時って、相手は待ってくんないじゃん。あれと同じことやってたら、その間に斬られてる」
さっきの悩みの正体はそれなのだと、アノリスには分かった。
同じ風を使うのに、まるで違う。
「そろそろ行こ」ミレイが伸びをした。「十四時、遅れたらまた怒られるし」
「うん」
アノリスは立ち上がった。随分と身体が軽くなったような気がした。




