二 純情インキュバス
トカゲの男は、程なくして席を立った。
「今日は潮がいい」
誰にともなくそう言って竿らしきものを担ぎ、店を出て行った。
残ったのは、ドワーフのマスターと、突っ伏したままのシェリルだけだったが、トカゲの男と入れ違いになるように一人の女がやってきた。露出の多い衣装をまとい、動くたびにシェリルよりは淡い、紫がかった長い髪が揺れる。目元は妖しく、口元には常に笑みの気配があった。
「おぅエイリット、まーた夢で男でも漁ってたんか?」
――夢で男を漁る、サキュバスだ。異種族酒場にドワーフ、トカゲの男、そしてサキュバスまでも来た。
そして、そこに突っ伏しているシェリル。
「何、この子」
「さっき来て、ワイン三杯でこれだ」
「人間の女がねえ」
エイリットはシェリルの横顔を覗き込んだ。
「一人でこんなとこまで来て、寝るとか。度胸があるのか、世間を知らなさすぎるのか……男だったらその場で頂いちゃうんだけど」
――男だったら。
エイリットがそんなことを言った時、店の扉がまた開いた。
入ってきたのは線の細い男、紛うことなき美少年だ。エイリットとは対照的な、少し頼りなさそうな仕草だった。
そして本人にはまるで自覚がなさそうだったが、通りを歩けば確実に人目を引く容姿だった。
「マスター、在庫の――」
言いかけて男は止まった。視界に入る、カウンターに突っ伏している人間の女。
マスターとエイリットが、同時に彼を見て、そしてシェリルを見た。
何も言葉を交わさなかったが、二人の間には確かに何かが通じていた。あの色男に絡まれたら、このお嬢も無事じゃない。
「あれ? メヴィリア、今日は非番じゃなかったっけ」
「非番だよ。ちょっと在庫を見に来ただけで」
その美少年の風貌の男は、突っ伏しているシェリルの横に、やりづらそうに、ちょこんと座った。
エイリットがサキュバス、そしてこのメヴィリアという美少年――インキュバスだ。
「夢渡り」と称し、対象の夢の中に実体として現れ、一晩を共にして相手の精気などを吸うことにより、人間でいうところの栄養を摂っている。いわば「食事」である。それ以外にも人間でいうところの一般的な食事も行うが、それはあくまで補助的なもの――言ってしまえば間食である。夢渡りは三日に一度が標準とされているが個体差がある。エイリットは昨晩その夢渡りをこなしていた。
そして、その「食事」は「夢」である必要が無い。
となれば彼はシェリルが気にならない訳がない。
が、彼はインキュバスにあるまじき程に純情である。
それを知っていて、エイリットはじれったそうに、この美少年を見ている。
――疲れている。
メヴィリアはシェリルに顔を近づけ、覗き込むようにして顔を見た。
頬にわずかな痩けがあり、眉間には、眠っていてもなお解けない皺が残っている。彼の種族は、こういうものに敏感だった。
生命力の流れが、明らかに削れている。
同時に、酒の名残だろう、頬にはまだ赤みが差していた。眠りに緩んだ表情の中で、その赤みだけが妙に鮮やかだった。整った顔立ちというだけではない。眠りに落ちてなお、姿勢のどこかに張りがある。緩みきらない何かが、彼女の輪郭を支えている。長い紫の髪が、カウンターの上に流れて広がっていた。
――上手く入れば。
その考えが、強い確信を伴って浮かんだ。回復魔法をかけて目を覚まさせて、そのまま奥の部屋に誘えば……人間の女がここまで無防備に眠っているのだ。誰にも咎められはしない。
彼は静かに手をかざした。
「――失礼」
一応、断りは入れた。返事がないことは分かっていた。
温かい光が、彼女の肩から流れ込んでいった。
温かい。
肩に何かが触れて、それから、体の中に温かいものが流れ込んできた。
シェリルの意識が、ゆるやかに浮上した。
誰かに肩を揺すられている。触られている。
――嫌じゃない。
その事実に、まず驚いた。不用意に体に触れられれば警戒するのが普通のはずだった。なのに今この瞬間、警戒という反応が一つも立ち上がってこない。
あるべき反応が、ない。
これは記録しておくべき異常値だった。
目の前に、男の顔があった。
線が細い。瞳が、揺れる不安を宿している。威圧感の値が――低い。
「あ」男が、少し慌てたように手を引いた。「すみません、勝手に――疲れてらっしゃるようだったので」
シェリルはまだ状況を整理できていなかった。体の中の温かさが、まだ残っている。
それが引いていく感覚を、彼女は初めて経験するもののように追っていた。
「これ、は」声が掠れた。「回復、魔法?」
「はい」
「あなたが」
「そ、そうです」
なんともおどおどした男だ。ただの純情だったら、シェリルに触れるだけの度胸も無かっただろうに。
男は、少し困ったように視線を逸らした。それから、思い出したように付け加えた。
「メヴィリア、といいます」
名乗られて、シェリルの口が勝手に動いた。
「シェリル」
言ってから、遅れて自分の失態に気づいた。名を尋ねられてもいないのに名乗った。彼女らしくない反応だった。まだ、頭の中の温かさの残滓を追うのに気を取られていたからだ。
「シェリル、さん」
メヴィリアが、その名を繰り返した。
その瞬間、彼の中で何かが引っかかった。
――かからない。
術をかけた。彼の術には、必ず副作用がある。女性の心を一時的に、自分へと向けさせる作用が。重症であるほど、それは強く出る。
今の彼女は明らかに疲れていた。しかも今、彼はこの上なく強い確信を持っていた。このまま奥の部屋に連れ込める、と。
なのに、目の前の彼女の目に、その気配がない。
ただ、不思議そうに彼を見ているだけだ。
――あれ。
効いて、いない。
彼の中で、確信が音もなく崩れていった。強気だった手つきが、急に落ち着きを失った。
「あ、いや」メヴィリアは、身を引いた。「その、すみません、勝手に術なんてかけて――具合とか、悪くなってませんか」
声が、明らかに上ずっていた。先ほどまでの余裕は、どこにも残っていなかった。
カウンターの端で、エイリットが片手で顔を覆った。
――何やってんのよ、あんた。
声には出さなかったが、その顔だけで十分に伝わる呆れだった。
――変ね。
術式としては成立している。効果もあった。実際、疲労はかなり和らいでいる。だが、この男に対して抱くべき何らかの感情――たとえば警戒、たとえば不審――が、ことごとく発生していない。
それどころか。
肩に触れられた感触を、まだどこかで覚えている。悪い気は、しなかった。
目の前の男は、今は先ほどとは別人のように狼狽えている。何がそんなに彼を動揺させているのか、シェリルには分からなかった。
なぜだろう。
その問いが、彼女の中で静かな興味に変わっていった。
結局、それ以上は何も起きなかった。
メヴィリアは、そのまま奥へ引っ込むこともできず、かといって話しかける勇気も出ないまま、カウンターの端でグラスを拭く仕事に逃げ込んでいた。シェリルは疲労が引いた頭で、カウンターに置かれたグラスを見て代金を確かめ、財布から硬貨を出した。
「ごちそうさま。次来たときは何か料理でも貰おうかしら」
「おぅよ。まぁこの店もこんな奴らしかいねぇ。あんまり知られると都合が悪いんでね。お前さんなら大丈夫そうだが、まぁ頼むよ」
初めての来訪だというのに、常連客のような目でマスターはシェリルを見た。
シェリルは立ち上がり、夏着を整えた。扉の前で一度、店の中を振り返った。ドワーフのマスターが小さく頷き、エイリットが妙に愛想のいい笑みを浮かべた。メヴィリアだけが、グラスを持ったまま固まっていた。
扉を開けると、外はまだ明るかった。日はもう傾き始めていたが、木立の向こうにはまだ十分な光が残っている。
シェリルは歩き出した。
東門までの道を、来た時よりゆっくりと歩いた。頭の中では、先ほどの出来事が整理されないまま漂っていた。
彼をあれほど狼狽させた何か。彼女には分からない何か。分からないものを分からないまま持ち帰るのは、彼女にとって珍しいことだった。
扉が閉まった音を確認してから、エイリットが動いた。
「ちょっと」
メヴィリアの肩を、後ろから小突いた。
「なんで、あんたそこで固まってんのよ」
「いや……」
メヴィリアは拭きかけのグラスを持ったまま、目を泳がせた。
「インキュバスでしょ、あんた。なんで、あのまま奥に連れ込んで、その、しちゃわなかったのよ」
「だって」メヴィリアは、グラスを置いて俯いた。「効かなかったんだよ、術が」
「効かなかったから、余計にでしょ」エイリットは呆れた声を出した。「そういう時こそ、押しが肝心なんじゃないの」
「そんな簡単な話じゃ」
「簡単な話よ」
エイリットはカウンターに肘をつき、俯いた彼の顔を下から覗き込んだ。
メヴィリアは、何も言い返せなかった。
カウンターの奥で、マスターが黙って酒瓶を磨いていた。まぁ、元気なこった――そんなことでも言いたそうだった。




