一 手ぶらの朝
朝の宿舎は静かだった。
アノリスはとうに出ていた。上級術師になってから妹の朝は早い。
昨夜のうちに「明日は師団の朝礼から出るから」と言っていたのをシェリルは寝台の上で聞いていた。アノリスはそのあと、少し間を置いてこう言った。
「姉さん。ちゃんと休んでよ」
シェリルは天井を見ていた。
「十日もあるのよ」
「十日で足りるくらいならいいけど」
妹の声には、いつもの張りがなかった。
「決闘だの、毒だの、そんなのが続いたんだから、休めって言われて休めるうちに休んでよ。姉さんは平気な顔してるけど、平気なわけないんだから」
シェリルは、その言葉に返す言葉を持たなかった。
平気なわけがない、と妹は言った。それは事実だろうか。彼女は自分の状態を測る手段を持っていない。疲労はある。だがそれは作業量に比例した当然の量であって、異常ではない。異常ではないものを、休むべき理由として扱っていいのかどうかが分からない。
「わかったわ」
結局、そう答えた。
「あと、たまには他のところで泊まってくるのもいいんじゃない。ここにいたら姉さん、絶対なにか書き始めるでしょ」
「そうね。帰るのが面倒になったら、そうするわ」
妹は笑ったようだった。それきり、寝返りを打つ音がした。
窓の外はよく晴れていた。夏の盛りは過ぎて、朝の風に少しだけ涼しさが混じり始めている。
寝台を降り、薄手の夏着に着替えて、いつもの鞄を取ろうとして、手が止まった。中には筆記具と草稿と参考文献が入っている。持っていく理由がない。休暇中にそれを開けるのは自由だが、休めという命令に背くことになる。そう考えると、十日間それを使う場所がない。
鞄の中から、一通の封書だけを取り出した。
昨夜遅くまでかけて書いた、ガルデウスへの返信だった。しばらく途絶えていたやり取りだった。
通信局に預ければ、届くまで最速でも半月。普通なら一月はかかる。返事が来る頃には休暇はとうに終わっているだろう。
封書を懐に入れ、宿舎を出る前に、通信局へ寄る算段をつけた。
休暇。
言葉としては知っている。労働から一時的に離れることを指す。制度としても理解している。師団には規定があり、彼女もそれを読んだことがある。
だが、離れたあとに何をするのかが書かれていない。
規定にはこう書いてある。心身の回復に資すること。回復に資する行為とは何か。睡眠は該当するだろう。しかし十日間眠り続けるわけにはいかない。食事は毎日する。それは休暇でなくてもする。
――残りの時間は。
鞄を置いた。置いたまま、しばらく立っていた。
結局、財布を懐に入れて宿舎を出た。手ぶらで外を歩くのは、記憶にある限り初めてだった。
王宮の敷地を抜けるまでに三人に会釈された。二人は名前を知らない相手で、一人は講義に出ていた顔だった。誰も声はかけてこなかったが視線は確実に残った。あの人だ、という視線だ。何をしているのだろう、という視線でもある。平日の朝に鞄も持たずに、特級術師が門へ向かって歩いている。
説明する義務はない。義務はないが、説明を求められない状況というのは、それはそれで居心地が悪い。
通信局に寄った後、王宮の敷地を出た。
中央通りは人が多かった。荷車、露店、学生と、勤めに出る人々。誰もが行くべき場所を持っている。
――どこへ行けば。
立ち止まったまま、通りの両側を見た。東は書店までなら知っている。そこには彼女の本が並んでいて、店主は彼女の顔を知っている。その先は知らない。西の広場は、講義に来ていた者が多く住んでいる区画だ。北には王宮関係者の居住区がある。
では、それ以外は。
シェリルは、自分がこの街の何を知っているのかを数えてみた。
王宮、師団の講堂、王立大学、宿舎、書店が二軒、出版社、あとは講義の行き帰りに通る道が数本。それだけだった。いつもアノリスが行っている月華亭の場所は覚えていない。
来月には、リーヴィンに来てから一年になる。
途中でドルヴェナ岬を往復した期間を差し引いても、この街に住んで十ヶ月は経っている。十ヶ月住んで、知っている場所が数えて十に満たない。
その間に何をしていたかは、はっきりしている。本を出した。講義を百回近くやった。魔法師団の要請に応じて現場に出た。決闘を申し込まれた。毒を盛られた。全部、記録に残っている。
が、街のことが残っていない。
シェリルは息を吐いて、南へ歩き出した。
南には出版社がある。行くあてを一つも思いつかなかった彼女が、唯一思いついた場所がそれだった。
グラフェル堂のロビーには朝から人がいた。原稿を抱えた男、校正刷りに赤を入れる初老の男、書類を数える女。誰も彼女を見なかった。ここにいる人間はみな自分の仕事を抱えている。
シェリルは奥のミニカウンターに座った。何度も来た場所だ。いつもなら羊皮紙を広げて数式を書き、ドラウが降りてくるのを待つ。今日は羊皮紙もペンもない。鞄を置いてきたのだから当然だ。
「何にします」
「ジャスミン茶を」
運ばれた茶を両手で持った。書くものがないと時間はただ経つ。こんなに長いものだとは知らなかった。
「おや、珍しい」
ドラウが階段を降りてきた。向かいに座り、何も載っていない卓を見た。
「休暇命令が出たの。十日間」とシェリルは言った。「街中にいると誰かに会うわ。会えば話しかけられる。それをしていたら休んだことにならない。宿舎は出たけれど行く場所がなかったの」
ドラウは頷いた。「先生は、この街をどのくらいご存知で」
「ほとんど知らないわ。来月で一年になるのに」
「一年」
「事実なので」
ドラウは笑わず、指先で卓を二度叩いた。
「私も出版社と自宅の往復しかしておりませんので、お力にはなれませんがね」
慰めではなかった。事実の共有だった。
そこに通用口が開いて、若い男が飛び込んできた。二十代半ば、鞄を斜めに提げ、上着の前は開いたままだ。
「ドラウさん、南の分、印を。三軒回って昼までに戻ります」
「今日は南か。そういえばお前さん色々な場所を回っているだろう。こちらの方……特任研究師のシェリル先生だ。休暇中だというが、何か面白そうな場所は知らないか」
魔法算術論を書いた、エーテラリスことシェリル・アリアシスト、目の前に居るのが当の本人ということを知った男は目を見開いた。
「あっ……あの、初めまして。こんなにお若い方だったとは」
紫髪、薄手の紫のローブにヘーゼル色の瞳、異国の空気を感じる女性だった。実際に異国から来たのだが。
シェリルは、あまり上手くない作り笑顔で一礼した。
男は懐から板を出しながら、ロビーを一瞥した。「東の方も回るんですけどね、あっちに――ああ、そうだ」
思い出したように言った。
「東の外れに『見ぬ鴉』ってとこがあって。異種族の寄り合い所なんですけど、静かでいいですよ。誰も他人の話に首突っ込まないんで」
シェリルが興味深そうに顔を上げた。「異種族の」
「そう。人間も入れなくはないですけど、まあ少ないですね」男は印を受け取りながら、彼女を一瞥した。先ほどの驚きはもう引いていて、特に何も気に留めていない目だった。「でも、あそこなら誰も先生のこと知らないんじゃないでしょうか」
男は場所だけ教えると、鞄の紐を掛け直して駆け出していった。
「東の、はずれ」シェリルはドラウに向き直った。「便はあるの」
「東門回りの乗合ですな。本数は多くありませんが」
ドラウが時計を見た。「次はもうすぐです。逃すと昼過ぎまでありません」
シェリルは立ち上がり、茶代を置いた。
「先生」
「なに」
「お気をつけて」
通りに出ると日は高くなっていた。東へ向かう。書店を過ぎた先は、この街に来て一度も歩いたことのない道だった。
異種族の店、誰も自分を知らない、と配達員の男は言っていた。
だから行くのだ。どんな者が居るのか分からない。怖いから、動く。それだけを、彼女はずっと繰り返してきた。
そうこうしているうちに、東門行きの乗合馬車が来た。
御者の他に客は二人だけだった。荷物を抱えた老婆と、居眠りをしている職人風の男。誰もシェリルを見なかった。馬車が揺れるたびに、体が少し傾いた。何かに掴まる必要があるということを、久しく忘れていた気がした。
東門で降りた。
舗装はそこで終わっていた。石畳が途切れ、砂利道になり、道の両側から下草が這い出してきている。街灯の間隔が、明らかに開いた。
男は「道なりに二十分」と言っていた。
その通りに歩いた。畑があり、朽ちかけた小屋があり、それから木立が続いた。人とは、一人もすれ違わなかった。
やがて、それらしき建物が見えた。
茅葺きの屋根は苔むし、壁は年月に灰色を通り越して黒に近くなっている。軒先にランタンが一つ灯っていて、それだけが唯一、生きている印だった。看板には鴉の意匠と、判読しづらい字で何か書かれている。
日は高い。なのに、その一角だけが薄暗かった。
シェリルは看板を見上げた。
――これよ。
自分でも意外なほど、胸の内側で何かが跳ねた。この、いかにも何かありそうな佇まい。理屈で説明のつく美しさとは違う種類の――ただ怪しいというだけの魅力。
彼女は無言で扉を押した。
中は薄暗く、煙草とも香とも違う匂いがした。カウンターの奥に、ずんぐりとした体格の男が立っている。髭が胸元まで伸びていて、腕は丸太のように太い。ドワーフだ。
その手前の止まり木に、鱗に覆われた肌をした男が座っていた。トカゲに近い顔立ちで、瞳が縦に細い。
「珍しいな」
トカゲの男が、振り向きもせずに言った。
「人間なんて滅多に来ない。来ても、大抵はすぐ帰る」
「そう」
シェリルはカウンターに近づいた。腰を下ろすと、ドワーフのマスターが無言でこちらを見た。
「いい雰囲気ね」
思わず、そう漏れた。
トカゲの男が、初めてこちらを向いた。
「良さそうだと? ちょっと変わってるな、お嬢ちゃん」
「何か疲れてる顔してるな」マスターが低い声で言った。
「ええ。疲れてるかも」
自分の口から、そんな言葉が出た。誰かにそう指摘されて、素直に頷いたのは、いつ以来だろうか。
「何か、いいワインはあるかしら」
「銘柄はあるのか」
「ドルヴェナ産があれば、嬉しいのだけど」
マスターが片方の眉を上げた。
「ドルヴェナ、ねえ。いい酒知ってるじゃないか」
「あるの」
「ある。だが高いぞ」
マスターが口にした値を、シェリルは一瞬考えた。それから、懐の財布を思い出した。問題のない額だった。
「構わないわ」
酒を注ぐより飲むほうが似合いそうなドワーフだったが、手つきは慣れていた。棚は背の低いマスターに合わせて、普通の酒場よりも低いところに並んでいる。
運ばれてきたグラスは、色が深かった。
一口飲んで、シェリルは黙った。もう一口飲んで、また黙った。
三杯目を空けたところで、彼女は小さく息をついた。
「おいしい。ドルヴェナ岬は、春の初めに行って来たわ」
それを聞いたマスターが少々怪訝な顔をした。
「春の初めってことは、ここを出たのはまだ冬だな。物好きな旅人も居たものだ」
グラスを拭きながらマスターは言う。
そんな中、ワインが心地よくなり、シェリルの瞼が重くなってきた。
「少し、寝るわ」
言い終わる前に、体がカウンターに傾いていた。
誰も、私を知らない――その事実が、彼女の中で何かの箍を外していた。特級術師でもエーテラリスでもない、ただ酒場に来た客の一人。見咎める視線がどこにもない。それがこれほど重さのないことだとは、知らなかった。
シェリルはカウンターに突っ伏した。完全に油断している。
「おい、お嬢ちゃん」
トカゲの男の声が、遠くから聞こえた。「こんなところで寝たら、危ないぜ?」
「……何とかするわ」
それが、最後に紡げた言葉だった。




