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エーテラリスの薫風 第三部 それぞれの風雲急  作者: 裸単騎大佐
第一章 エーテラリスの恋
4/6

一 手ぶらの朝

 朝の宿舎は静かだった。

 アノリスはとうに出ていた。上級術師になってから妹の朝は早い。


 昨夜のうちに「明日は師団の朝礼から出るから」と言っていたのをシェリルは寝台の上で聞いていた。アノリスはそのあと、少し間を置いてこう言った。

「姉さん。ちゃんと休んでよ」

 シェリルは天井を見ていた。

「十日もあるのよ」

「十日で足りるくらいならいいけど」

 妹の声には、いつもの張りがなかった。

「決闘だの、毒だの、そんなのが続いたんだから、休めって言われて休めるうちに休んでよ。姉さんは平気な顔してるけど、平気なわけないんだから」

 シェリルは、その言葉に返す言葉を持たなかった。

 平気なわけがない、と妹は言った。それは事実だろうか。彼女は自分の状態を測る手段を持っていない。疲労はある。だがそれは作業量に比例した当然の量であって、異常ではない。異常ではないものを、休むべき理由として扱っていいのかどうかが分からない。


「わかったわ」

 結局、そう答えた。

「あと、たまには他のところで泊まってくるのもいいんじゃない。ここにいたら姉さん、絶対なにか書き始めるでしょ」

「そうね。帰るのが面倒になったら、そうするわ」

 妹は笑ったようだった。それきり、寝返りを打つ音がした。


 窓の外はよく晴れていた。夏の盛りは過ぎて、朝の風に少しだけ涼しさが混じり始めている。

 寝台を降り、薄手の夏着に着替えて、いつもの鞄を取ろうとして、手が止まった。中には筆記具と草稿と参考文献が入っている。持っていく理由がない。休暇中にそれを開けるのは自由だが、休めという命令に背くことになる。そう考えると、十日間それを使う場所がない。

 鞄の中から、一通の封書だけを取り出した。

 昨夜遅くまでかけて書いた、ガルデウスへの返信だった。しばらく途絶えていたやり取りだった。

 通信局に預ければ、届くまで最速でも半月。普通なら一月はかかる。返事が来る頃には休暇はとうに終わっているだろう。

 封書を懐に入れ、宿舎を出る前に、通信局へ寄る算段をつけた。


 休暇。

 言葉としては知っている。労働から一時的に離れることを指す。制度としても理解している。師団には規定があり、彼女もそれを読んだことがある。

 だが、離れたあとに何をするのかが書かれていない。

 規定にはこう書いてある。心身の回復に資すること。回復に資する行為とは何か。睡眠は該当するだろう。しかし十日間眠り続けるわけにはいかない。食事は毎日する。それは休暇でなくてもする。

 ――残りの時間は。

 鞄を置いた。置いたまま、しばらく立っていた。

 結局、財布を懐に入れて宿舎を出た。手ぶらで外を歩くのは、記憶にある限り初めてだった。


 王宮の敷地を抜けるまでに三人に会釈された。二人は名前を知らない相手で、一人は講義に出ていた顔だった。誰も声はかけてこなかったが視線は確実に残った。あの人だ、という視線だ。何をしているのだろう、という視線でもある。平日の朝に鞄も持たずに、特級術師が門へ向かって歩いている。

 説明する義務はない。義務はないが、説明を求められない状況というのは、それはそれで居心地が悪い。


 通信局に寄った後、王宮の敷地を出た。

 中央通りは人が多かった。荷車、露店、学生と、勤めに出る人々。誰もが行くべき場所を持っている。

 ――どこへ行けば。

 立ち止まったまま、通りの両側を見た。東は書店までなら知っている。そこには彼女の本が並んでいて、店主は彼女の顔を知っている。その先は知らない。西の広場は、講義に来ていた者が多く住んでいる区画だ。北には王宮関係者の居住区がある。

 では、それ以外は。

 シェリルは、自分がこの街の何を知っているのかを数えてみた。

 王宮、師団の講堂、王立大学、宿舎、書店が二軒、出版社、あとは講義の行き帰りに通る道が数本。それだけだった。いつもアノリスが行っている月華亭の場所は覚えていない。

 来月には、リーヴィンに来てから一年になる。

 途中でドルヴェナ岬を往復した期間を差し引いても、この街に住んで十ヶ月は経っている。十ヶ月住んで、知っている場所が数えて十に満たない。

 その間に何をしていたかは、はっきりしている。本を出した。講義を百回近くやった。魔法師団の要請に応じて現場に出た。決闘を申し込まれた。毒を盛られた。全部、記録に残っている。

 が、街のことが残っていない。

 シェリルは息を吐いて、南へ歩き出した。

 南には出版社がある。行くあてを一つも思いつかなかった彼女が、唯一思いついた場所がそれだった。


 グラフェル堂のロビーには朝から人がいた。原稿を抱えた男、校正刷りに赤を入れる初老の男、書類を数える女。誰も彼女を見なかった。ここにいる人間はみな自分の仕事を抱えている。

 シェリルは奥のミニカウンターに座った。何度も来た場所だ。いつもなら羊皮紙を広げて数式を書き、ドラウが降りてくるのを待つ。今日は羊皮紙もペンもない。鞄を置いてきたのだから当然だ。

「何にします」

「ジャスミン茶を」

 運ばれた茶を両手で持った。書くものがないと時間はただ経つ。こんなに長いものだとは知らなかった。

「おや、珍しい」

 ドラウが階段を降りてきた。向かいに座り、何も載っていない卓を見た。

「休暇命令が出たの。十日間」とシェリルは言った。「街中にいると誰かに会うわ。会えば話しかけられる。それをしていたら休んだことにならない。宿舎は出たけれど行く場所がなかったの」

 ドラウは頷いた。「先生は、この街をどのくらいご存知で」

「ほとんど知らないわ。来月で一年になるのに」

「一年」

「事実なので」

 ドラウは笑わず、指先で卓を二度叩いた。

「私も出版社と自宅の往復しかしておりませんので、お力にはなれませんがね」

 慰めではなかった。事実の共有だった。


 そこに通用口が開いて、若い男が飛び込んできた。二十代半ば、鞄を斜めに提げ、上着の前は開いたままだ。

「ドラウさん、南の分、印を。三軒回って昼までに戻ります」

「今日は南か。そういえばお前さん色々な場所を回っているだろう。こちらの方……特任研究師のシェリル先生だ。休暇中だというが、何か面白そうな場所は知らないか」

 魔法算術論を書いた、エーテラリスことシェリル・アリアシスト、目の前に居るのが当の本人ということを知った男は目を見開いた。

「あっ……あの、初めまして。こんなにお若い方だったとは」

 紫髪、薄手の紫のローブにヘーゼル色の瞳、異国の空気を感じる女性だった。実際に異国から来たのだが。

 シェリルは、あまり上手くない作り笑顔で一礼した。

 男は懐から板を出しながら、ロビーを一瞥した。「東の方も回るんですけどね、あっちに――ああ、そうだ」

 思い出したように言った。

「東の外れに『見ぬ鴉』ってとこがあって。異種族の寄り合い所なんですけど、静かでいいですよ。誰も他人の話に首突っ込まないんで」

 シェリルが興味深そうに顔を上げた。「異種族の」

「そう。人間も入れなくはないですけど、まあ少ないですね」男は印を受け取りながら、彼女を一瞥した。先ほどの驚きはもう引いていて、特に何も気に留めていない目だった。「でも、あそこなら誰も先生のこと知らないんじゃないでしょうか」

 男は場所だけ教えると、鞄の紐を掛け直して駆け出していった。

「東の、はずれ」シェリルはドラウに向き直った。「便はあるの」

「東門回りの乗合ですな。本数は多くありませんが」

 ドラウが時計を見た。「次はもうすぐです。逃すと昼過ぎまでありません」

 シェリルは立ち上がり、茶代を置いた。

「先生」

「なに」

「お気をつけて」


 通りに出ると日は高くなっていた。東へ向かう。書店を過ぎた先は、この街に来て一度も歩いたことのない道だった。

 異種族の店、誰も自分を知らない、と配達員の男は言っていた。

 だから行くのだ。どんな者が居るのか分からない。怖いから、動く。それだけを、彼女はずっと繰り返してきた。

 そうこうしているうちに、東門行きの乗合馬車が来た。

 御者の他に客は二人だけだった。荷物を抱えた老婆と、居眠りをしている職人風の男。誰もシェリルを見なかった。馬車が揺れるたびに、体が少し傾いた。何かに掴まる必要があるということを、久しく忘れていた気がした。


 東門で降りた。

 舗装はそこで終わっていた。石畳が途切れ、砂利道になり、道の両側から下草が這い出してきている。街灯の間隔が、明らかに開いた。

 男は「道なりに二十分」と言っていた。

 その通りに歩いた。畑があり、朽ちかけた小屋があり、それから木立が続いた。人とは、一人もすれ違わなかった。


 やがて、それらしき建物が見えた。

 茅葺きの屋根は苔むし、壁は年月に灰色を通り越して黒に近くなっている。軒先にランタンが一つ灯っていて、それだけが唯一、生きている印だった。看板には鴉の意匠と、判読しづらい字で何か書かれている。

 日は高い。なのに、その一角だけが薄暗かった。

 シェリルは看板を見上げた。


 ――これよ。


 自分でも意外なほど、胸の内側で何かが跳ねた。この、いかにも何かありそうな佇まい。理屈で説明のつく美しさとは違う種類の――ただ怪しいというだけの魅力。

 彼女は無言で扉を押した。

 中は薄暗く、煙草とも香とも違う匂いがした。カウンターの奥に、ずんぐりとした体格の男が立っている。髭が胸元まで伸びていて、腕は丸太のように太い。ドワーフだ。

 その手前の止まり木に、鱗に覆われた肌をした男が座っていた。トカゲに近い顔立ちで、瞳が縦に細い。

「珍しいな」

 トカゲの男が、振り向きもせずに言った。

「人間なんて滅多に来ない。来ても、大抵はすぐ帰る」

「そう」

 シェリルはカウンターに近づいた。腰を下ろすと、ドワーフのマスターが無言でこちらを見た。

「いい雰囲気ね」

 思わず、そう漏れた。

 トカゲの男が、初めてこちらを向いた。

「良さそうだと? ちょっと変わってるな、お嬢ちゃん」

「何か疲れてる顔してるな」マスターが低い声で言った。

「ええ。疲れてるかも」

 自分の口から、そんな言葉が出た。誰かにそう指摘されて、素直に頷いたのは、いつ以来だろうか。


「何か、いいワインはあるかしら」

「銘柄はあるのか」

「ドルヴェナ産があれば、嬉しいのだけど」

 マスターが片方の眉を上げた。

「ドルヴェナ、ねえ。いい酒知ってるじゃないか」

「あるの」

「ある。だが高いぞ」

 マスターが口にした値を、シェリルは一瞬考えた。それから、懐の財布を思い出した。問題のない額だった。

「構わないわ」


 酒を注ぐより飲むほうが似合いそうなドワーフだったが、手つきは慣れていた。棚は背の低いマスターに合わせて、普通の酒場よりも低いところに並んでいる。

 運ばれてきたグラスは、色が深かった。

 一口飲んで、シェリルは黙った。もう一口飲んで、また黙った。

 三杯目を空けたところで、彼女は小さく息をついた。

「おいしい。ドルヴェナ岬は、春の初めに行って来たわ」

 それを聞いたマスターが少々怪訝な顔をした。

「春の初めってことは、ここを出たのはまだ冬だな。物好きな旅人も居たものだ」

 グラスを拭きながらマスターは言う。

 そんな中、ワインが心地よくなり、シェリルの瞼が重くなってきた。

「少し、寝るわ」

 言い終わる前に、体がカウンターに傾いていた。


 誰も、私を知らない――その事実が、彼女の中で何かの箍を外していた。特級術師でもエーテラリスでもない、ただ酒場に来た客の一人。見咎める視線がどこにもない。それがこれほど重さのないことだとは、知らなかった。


 シェリルはカウンターに突っ伏した。完全に油断している。

「おい、お嬢ちゃん」

 トカゲの男の声が、遠くから聞こえた。「こんなところで寝たら、危ないぜ?」

「……何とかするわ」

 それが、最後に紡げた言葉だった。


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