五 変数が多すぎる
カフェを出ると、シェリルは迷いのない足取りで見ぬ鴉へ向かった。
メヴィリアは、少し遅れてその後を追った。
――なんだ、この子は。
普通なら、動揺するところだろう。処女だと言い当てられ、その解消を「確認」などという言葉で口にしたのだ。だが彼女の背中には、ためらいの気配が一つもなかった。
見ぬ鴉に着く頃には、日はすっかり暮れていた。
扉を開けると、店の中には既に人影があった。エイリットだった。どこかで昼寝をしていた男の夢にでも入ってきたらしく、今日の分の夢渡りはもう済ませたようだ。頬にいつもより艶のある清々しさが浮かんでいる。
「あら」
入ってきた二人を見て、エイリットの目が細くなった。
「これは――いよいよってやつ?」
ニヤニヤと笑みを浮かべる。メヴィリアは、その視線から逃げるように後ろに下がった。
――この女、こんなところで、堂々としてやがる。
エイリットは内心で舌を巻いた。処女だと聞いていたのに、目の前の人間の女には気後れの気配が微塵もない。
「まぁ……ちょっと、あんたら座りなよ」
言われるまま、シェリルとメヴィリアは向き合って卓についた。
エイリットが、卓の脇から身を乗り出した。
「ねえ、あんた」
メヴィリアに向かって言いながら、その声はシェリルにも十分聞こえる大きさだった。
「生身の女とか、いつ以来? インキュバスなら正々堂々抱きなよ。この子だって、そのつもりで来たんだろうし」
メヴィリアの顔が赤くなった。
「そんな、言い方――」
シェリルは、黙ってその言葉を聞いていた。
――そのつもりで来た。
言われてみれば、その通りだった。否定する要素が、どこにもない。
「事実よ」
シェリルは、あっさりとそう言った。
エイリットが、一瞬きょとんとした顔をした。それから、堪えきれないように笑い出した。
「――は、はは! いいね、あんた!」
「何がおかしいの」
「いや、普通そこは誤魔化すか照れるかするもんだけど。堂々と事実って言われるとは思わなかった」
メヴィリアは、両手で顔を覆っていた。
「シェリルさん、あの、その……そこまで、はっきり言わなくても」
「嘘をつく理由がないもの」
シェリルは、卓の上で手を組んだ。
「彼が処女に対して夢渡りができない。それは種としての制約、あるいは彼個人の事情。どちらにせよ、実験によって確かめられる命題だわ。私にはその条件を満たす資格がある。だから来た。それだけのことよ」
エイリットが、口元を押さえながらメヴィリアを見た。噴き出すのを抑えたようにも見えた。
「あんた、とんでもないの捕まえたね」
メヴィリアは、何も言い返せなかった。ただ、顔を上げられずにいた。
エイリットは、それ以上何も言わず、奥へ引っ込んだ。マスターも、いつの間にか姿を消していた。
店の奥、いつもは使われていない小部屋に、メヴィリアがシェリルを案内した。
狭い部屋だった。ベッドが一つ、小さな明かりが一つ。それだけだった。
扉が閉まると、メヴィリアの様子が変わった。
先ほどまでの狼狽が、少しずつ落ち着いていく。彼は種としての本能に従うように、静かにシェリルの前に立った。触れる手つきが、これまでとは違っていた。慎重でありながら、迷いがなかった。
声も、少し低くなった気がした。囁くように、彼女の名を呼んだ。
シェリルは、次第に自分の輪郭が曖昧になっていくのを感じた。
――これが、ムードというものか。
分析しようとしても、うまくいかなかった。彼の一挙一動が、彼女の思考を少しずつ奪っていく。抗おうとする理由もなかった。
アノリスも。
ラフィスも。
こういうことを、経験してきたのだろうか。
その考えが、脈絡もなく浮かんでは消えた。妹の顔、それから将軍の横顔。なぜ今、この二人のことを思い出すのか、自分でも分からなかった。
説明のつかない高揚感が、体の内側から湧き上がっていた。
ひとしきり、その熱が高まったところで、目と目が合った。
合ってしまった。
シェリルは、その瞬間に湧き上がった感情を、なんとか言葉にしようとした。これは何だろう。緊張だろうか。期待だろうか。あるいは、そのどちらでもない、まだ名前のついていない何かだろうか。
解析が、間に合わなかった。
メヴィリアが、それ以上言葉を待たずに、シェリルと重なった。
――おかしい。
メヴィリアの頭のどこかで、警鐘のような感覚が鳴っていた。
本来なら、ここからは自分が優位に立てるはずだった。彼の種は繋がりを通して相手の魂、そして対象が所持していれば魔力をも吸い上げる。その瞬間から、相手は次第に力を失い、意識を朦朧とさせ、彼に身を委ねるほかなくなる。それが、これまでの全てだった。
だが、これは何だ。
吸っている。確かに吸っている。なのに、涸れない。
魂もそうだが、魔力量がまるで違った。何度吸い上げても、その奥にさらに深い層が現れる。底が見えない。吸い上げるそばから、湧き水のように次が満ちてくる。
――幾らでも出てくるじゃないか。
彼のほうが、その量に呑まれ始めていた。取り込みきれない魔力が、彼の内側で行き場を失って渦を巻いている。優位に立つどころではなかった。自分の輪郭を保つだけで、精一杯になりつつあった。
メヴィリアの、息が乱れた。
――何か、吸われている。
シェリルは、その感覚を確かに捉えていた。
体の内側から、何かが少しずつ引き出されていく。魔力の一部が、彼のほうへ流れている。その事実は、明瞭に観測できた。
そして同時に、快楽があった。
――これは。
吸われるから、気持ちがいいのだろうか。
それとも、気持ちがいいから、吸われているのだろうか。
因果の向きが、判定できなかった。二つの現象が同時に発生している場合、どちらが原因でどちらが結果かを切り分けるには、片方を止めてみるしかない。だが今、それを試すことはできなかった。
目の前に、彼の顔があった。
あの端正な顔立ちが、いつもの穏やかさを失っている。息が上がり、額に汗が浮かび、眉が苦しげに寄せられていた。何かに耐えているようにも、何かに追い詰められているようにも見えた。
なぜ。
彼は吸う側のはずだった。彼のほうが優位に立つはずの構造だった。なのに、目の前の彼は、明らかに何かに圧されている。
――これは、何?
その問いだけが、彼女の中に残った。
終わる直前、小さな明かりが一段と激しく揺れ、それから揺れが、ふつりと止んだ。
自分の息が乱れているのは分かる。しかしそれ以外は妙に冷静だ。
時間と快楽の関係は、微分方程式で書けるかもしれない。緩やかな立ち上がり。やがて指数関数的な高まり。そして、ある一点での発散。値が、果てしなく跳ね上がる一点。
だが、その一点のまわりを積み上げた量は、有限に収まっている。値が際限なく跳ね上がっても、積分は収束する――そういう関数はいくらでもある。
だから今、自分はこうして冷静でいられるのだろう。
――これで、私は。
――処女でなくなった。
その事実だけを、頭のどこかで静かに確認していた。
気づけば、静かな時間が流れていた。
小さな明かりが、まだ二人を照らしていた。
そしてシェリルは、天井を見上げていた。呼吸が、まだ整いきっていなかった。体の奥に、これまで感じたことのない気だるさが残っている。ただ、それは軽い気だるさだった。魔力の残量を確かめてみても、目立った減りは見当たらない。
隣では、メヴィリアがぐったりと横たわっていた。息が荒い。顔色も心なしか青白かった。
「メヴィリア?」
「……はい」
返事に、力がなかった。
「大丈夫?」
「大丈夫、です」そう言いながら、彼はベッドにうつ伏せとなりぴくりとも動かなかった。「ちょっと、というか、こんなの……かなり……久しぶりだったので」
シェリルは、その様子を興味深く観察した。
――彼のほうが、消耗している。
本来、精気を吸う側であるはずの彼が、吸われた側の彼女よりも疲弊している。
彼が吸い上げた分を足し合わせても、私の側の総量は涸れない。上端をどこまで伸ばしても収束しない積分を、彼は途中まで抱えて、溺れたのかもしれない。
この非対称こそ、記録に値するものだった。
「……試してみないと、分からないな」
「何を」
「夢渡り。シェリルさんの夢に、出れるかどうか」
シェリルは、その言葉に少しだけ興味を引かれた。
「試すの、今から?」
「いえ」メヴィリアは、小さく笑った。「夢で会う必要、無いので」
その言葉に、シェリルは少し顔を赤らめた。
実験の結果は、今すぐには分からない。それも、事実として受け入れるしかなかった。
それから、二人は長いこと話をした。
話したのは、ほとんどシェリルのほうだった。正確には、尋ねていた。夢渡りの流路はどうやって開くのか。一度に吸える量に限りはあるのか。三日に一度というのは、誰が決めたのか。処女の制約は、いつから知っているのか。
メヴィリアは、枕に顔を半分埋めたまま、一つ一つに答えた。答えに詰まると、シェリルは問いの形を変えて、もう一度尋ねた。
何度目かの問いのあとで、メヴィリアが小さく笑った。
「シェリルさん、まるで講義みたいです」
「私が受ける側の講義なんて、久しぶりよ」
気づけば、明かりの油がずいぶんと減っていた。
小部屋を出て、シェリルとメヴィリアは店に戻った。
シェリルは、けろりとした顔でカウンターに座った。
「ワインを、もう一杯もらおうかしら」
「はいよ」
マスターが、慣れた手つきでグラスを用意した。
一方、メヴィリアは覚束ない足取りで、フラフラとカウンターの奥に腰を下ろした。壁に寄りかかるようにして、まだ息が整いきっていない様子だった。
「おい、あんた」エイリットが、その様子を見て眉を上げた。「どうしたのよ、その顔」
「……」
「まさか、あまりに気持ちよくて腰抜けたとか?」
「……うん」
小さく、正直に答えた。その返事が可愛らしくすら見えた。
エイリットは、しばらく言葉を失っていた。それから、シェリルのほうをまじまじと見た。
シェリルは、注がれたワインを静かに飲んでいた。何事もなかったかのように。
一杯を飲み干すと、シェリルは代金を置いて立ち上がった。
「今日は、ありがとう」
「あ――」メヴィリアが、慌てて立ち上がろうとして、ふらついた。「送ります」
「大丈夫よ、一人で帰れるわ」
「いえ」彼は、それでも立ち上がった。「せめて、外まで」
シェリルは、それ以上は止めなかった。
二人は、店の外に出た。夜の空気が、ひんやりと肌を撫でた。
メヴィリアは、少し歩いたところで、迷うように口を開いた。
「あの」
「なに」
「今日は――」言葉を探すように、間を置いた。「ありがとうございます、って、言っていいのかな」
シェリルは、少し考えた。
「言えばいいじゃない」
「そう、ですね」
メヴィリアは、ようやく少しだけ笑った。
東門までの道を、シェリルは一人で歩いた。
見ぬ鴉からの帰りが夜になったのは、これが初めてだった。だが、今夜は帰り道の暗さよりも、何かが違っていた。
――見られた。
体を、隅々まで。
今更のように、その事実が浮かんできた。羞恥という感情が発生するべき場面だったのかもしれない。だが、今は、それよりも別のことが気にかかっていた。
あの部屋の中で、いくつもの感情が同時に動いていた。緊張、興味、高揚、それから名前のつかない何か。変数が、あまりにも多すぎる。一つ一つを切り分けて処理しようとしても、うまくいかなかった。
――最後、どうして、あんなに激しかったのだろう。
あの明かりの揺れ方も、彼の動きも、彼女の中で起きたことも、まだ整理がついていなかった。
東の空が、わずかに白み始めていた。




