第八章 無名の盾、選び直す夜
最後の夜、私は二階の自室で、ようやくあの引き出しを開けた。
高校生の私が使っていたノートが四冊、輪ゴムで束ねられて入っていた。輪ゴムは触れた瞬間に切れた。
一番下の一冊だけを、私はバッグに入れた。中身は読まなかった。読むのは、東京に戻ってからにしようと決めた。
六月十六日、日曜日の夕方。東京駅のホームに降り立った瞬間、鼓膜を叩いたのは、あの暴力的なまでの情報量だった。
行き交う足音、自動改札の電子音、誰かの話し声、絶え間ないアナウンス。四日前には耳を塞ぎたくなったそのノイズが、今の私には、不思議と心地よい低周波のように感じられた。
改札を抜け、夜の街へ出る。
六月十七日、月曜日。三営業日ぶりのオフィスは、驚くほど何も変わっていなかった。
デスクには新しいプロジェクトの資料が積まれ、佐藤さんは以前と変わらず淡々とキーボードを叩いている。佐久間の声がフロアに響くのも、コーヒーマシンの唸る音も、すべてが先週と同じリピート放送のようだった。
「おはようございます、長谷川さん。体調、もうすっかりいいみたいですね」
佐藤さんが顔を上げ、穏やかに微笑む。
「うん。佐藤さん、先週はありがとう。……これ、地元のそば粉のクッキー。よかったらみんなで食べて」
「わあ、ありがとうございます! 長野、いいところですよね」
「うん。いいところだよ。……それと、この前の資料の件、来週のミーティングで一緒に作り方の整理しない? 佐藤さんのやり方も聞きたいし」
彼女は少し驚いた顔をしてから、「はい、ぜひ」と、この前より少しだけ大きな声で答えた。
自分の椅子に深く腰を下ろす。
不思議な感覚だった。デスクの角の傷、使い古したマウス、付箋だらけのモニター。それらは先週まで私を縛りつける檻の一部だったのに、今はただの道具に見える。
午前の報告会で、佐久間はキャンペーンの結果を役員へ説明した。資料の最後には担当者として私の名前だけが載っていた。
質疑が終わりかけたとき、私は手を挙げた。
「補足してもよろしいでしょうか。ローンチ前のサイズ表記の不備を見つけたのは佐藤さんです。初日の運用も担当しました」
役員の一人が佐藤さんを見て、「そうだったんですか」と言った。佐藤さんは慌てて立ち上がり、短く頭を下げた。
会議後、佐久間に呼び止められた。
「ああいうことは事前に言え。報告の組み立てが変わる」
叱られたと思い、私は身構えた。
「ただ、内容は正しい。次の資料には最初から二人の名前を入れておけ」
佐久間はそれ以上何も言わなかった。
佐藤さんは廊下で待っていた。
「ありがとうございます。でも、長谷川さんが全部準備した案件なのに」
「私一人では、間違った案内を出してた」
口にすると、事実は思っていたほど私を小さくしなかった。むしろ、三週間の仕事の中に佐藤さんの目と手が加わり、ようやく現実の形になった気がした。
午後、佐久間に呼ばれ、私は手帳を持って会議室へ入った。部長は数字の並んだ資料を机に置き、前置きなく切り出した。
「今回のキャンペーンの成功を受けて、来期から長谷川に新しいチームのリーダーを任せようと思っている。佐藤さんもそのまま君の下につける。どうだ、もっと上を目指せるチャンスだぞ」
けれど今の私は、自分の内側にある静かな声に耳を澄ませていた。
「ありがとうございます、部長。……でも、少し考えさせていただけますか」
「考える? 何をだ。不満でもあるのか」
「いえ、不満ではありません。ただ、自分がこれからどういう形でこの街と関わっていきたいか、一度きちんと整理したいんです」
佐久間の顔に、一瞬だけ困惑の色が浮かんだ。
それから彼は、ボールペンの尻でこめかみを掻き、意外なことを言った。
「……俺も、四十のときに一度、辞表を書いたことがある」
佐久間は、机の隅に置いた薬局の袋へ目をやった。
「結局、出さなかった。出さなかったことが正解だったかは、今も分からん。だから、急いで返事をするな」
私が黙っていると、彼は少し慌てたように資料をまとめ始めた。
「まあ、いい。来月の頭までに返事をくれ。それまでは通常業務だ」
会議室を出るとき、私は初めて、この人の背中が少しだけ丸いことに気づいた。
翌日、六月十八日火曜日の帰り道。私は渋谷にも銀座にも、話題の新スポットにも向かわなかった。
千代田線を二駅乗り過ごし、あの住宅街の駅で降りた。
路地の角の木造二階家に、灯りがともっていた。『はざま文庫』の木の札が、風に少し揺れている。
今日は火曜日。開館日だ。
私は数秒迷ってから、引き戸を開けた。
中は、想像していたより狭く、想像していたよりずっと本が多かった。
カウンターの白髪の女性が顔を上げ、「どうぞ、ご自由に」とだけ言って、また手元の作業に戻った。誰も私に何かを求めなかった。誰も私を査定しなかった。
私は棚の間に立ち、背表紙を目で追った。分類も何もない、持ち主の気分だけで並んだ本たち。三十分ほどそうしていた。
帰り際、カウンターの脇に手書きの紙が貼ってあるのに気づいた。
『開館日の手伝いをしてくださる方を探しています。謝礼はわずかです。本が好きな方』
募集の紙を前にしたまま、私は棚を一周した。「仕事を変える本」という札の下には、転職指南書ではなく、農家の聞き書き、看護師のエッセイ、職人の写真集が並んでいた。
一冊を手に取っては戻した。ここへ来た目的を、偶然見つけた紙のせいにしたくなかった。けれど、紙を見なかったことにもできなかった。
カウンターの女性は、私が同じ棚を三度通っても声をかけなかった。待つことに慣れている人なのだと思った。
私はその紙を二度読み、思い切ってカウンターへ戻った。
「あの、こちらのお手伝いは、まだ募集していますか」
カウンターには、鉛筆で書かれた貸出帳と、寄付金を入れる木箱が置かれていた。エアコンは古く、運転音のわりに部屋は涼しくない。
私は掲示の「謝礼はわずかです」という一文をもう一度見た。会社で求人広告を作るなら、もっと耳触りのいい言葉へ変えただろう。
けれど、その正直さを見ていると、曖昧な期待を抱いたまま応募することだけはできなかった。
白髪の女性は老眼鏡を外し、初めて私の顔を正面から見た。
「しています。ただ、生活できるほどはお支払いできませんよ」
予想していた言葉なのに、胸の奥が冷えた。憧れだけでは家賃は払えない。
「仕事内容と条件を、聞かせていただけますか」
女性は橋間と名乗り、引き出しから一枚の募集要項を取り出した。私はそれを受け取った。紙は驚くほど薄かったが、バッグに入れると、仕事の資料より重く感じられた。
橋間さんは、二十五年前に亡くなった夫とこの文庫を始めたという。最初は自宅の一室に、近所の子どもが本を読める場所を作っただけだった。
「図書館と名乗っていますが、立派な制度があるわけではありません。寄付と、少しの助成金と、私の年金で続けています」
「どうして続けているんですか」
尋ねたあとで、奈津美さんにも似た質問をしたことを思い出した。私は、誰かが現在の場所に留まる理由を聞けば、自分の答えも見つかると思っている。
橋間さんはすぐには答えなかった。貸出帳の端を指で揃え、窓際の男の子を見た。
「やめる理由も、続ける理由も、毎年あります。どちらが多いかを数えているうちは、まだ開けられるんでしょうね」
明快な信念を期待していた私は、少し拍子抜けした。
「あなたは、本が好きですか」
「好きだと思います。でも、最近は最後まで読めないことが多くて」
「それは構いません。本を好きな人より、人が本を読まない時間を邪魔しない人のほうが、ここでは大切です」
条件の説明は現実的だった。勤務は週三日。時給は高くない。重い段ボールを運ぶ日もあり、寄贈を断って怒られることもある。読書をして待っているだけの仕事ではない。
私は聞きながら、胸の中で膨らみかけた理想が、適切な大きさへ戻っていくのを感じた。
文庫を出ると、募集要項をすぐバッグへしまえなかった。街灯の下で開き、勤務時間と時給をもう一度読んだ。
週三日働いても、今の家賃と光熱費を払えばほとんど残らない。仕事内容の欄には惹かれる言葉が並んでいるのに、金額の欄だけが現実へ引き戻した。
私は近くの喫茶店へ入り、窓際の席で募集要項をテーブルに置いた。コーヒーは四百五十円だった。その金額さえ、時給の何分の一かに換算してしまう。
スマートフォンの銀行アプリを開く。普通預金、定期預金、クレジットカードの未確定額。数字を見れば諦められると思った。
けれど、諦めるための計算を始めたはずなのに、私は家賃の安い部屋を検索し、使っていない動画配信サービスを数え、週二日だけ販促の仕事を続ける方法を考えていた。
隣の席では、制服姿の高校生二人が英単語を出し合っていた。一人が間違えるたび、もう一人が笑う。彼女たちにとって、選択肢はまだ未来の形をしている。
私にとって選択肢は、失うものの一覧と一緒に現れる。給与、社会保険、賞与、会社名を言えば説明が済む安心。増えるのは時間だけで、その時間をうまく使える保証はない。
店を出る前、募集要項の連絡先をスマートフォンへ登録した。名前は『はざま文庫・橋間さん』。電話はしなかった。
帰宅すると、赤いスーツケースがクローゼットの隙間から見えた。地元へ向かう前は、それを取り出すことが決断のように思えた。今は、もっと小さくて面倒な決断が、毎日の中にいくつもあることを知っている。
私はパンプスを脱ぎ、募集要項を冷蔵庫へ磁石で留めた。翌朝、寝ぼけた頭で見ても、まだ気持ちが動くか確かめたかった。
朝六時半。水を飲むために台所へ立つと、白い紙は昨日と同じ場所にあった。胸が高鳴ることはなかった。むしろ、保険料や税金への不安が先に浮かんだ。
それでも、捨てようとは思わなかった。
三日目の夜、私は橋間さんの番号を開き、通話ボタンを押した。呼び出し音が一度鳴ったところで切った。自分の臆病さに呆れ、ベッドへスマートフォンを放り投げた。
すぐに着信があった。
「はざま文庫の橋間です。先ほどお電話いただきましたか」
逃げる時間はなかった。
「先日、募集の件を伺った長谷川です。もう少し詳しくお話を聞きたくて」
声が震えた。取引先へ電話するときには出ない震えだった。
橋間さんは、土曜日に一日来てみませんかと言った。採用ではなく、お互いに仕事を見てから考えるための一日だという。
予定表を確認すると、その土曜日には美容院の予約が入っていた。三か月前に取った予約だった。
「大丈夫です。伺います」
電話を切り、美容院の予約をキャンセルした。髪の根元が少し伸びることより、自分の生活がどこへ伸びるのかを見てみたかった。
気づくと私は、あの住宅街の神社の石段に腰を下ろしていた。
バッグから、実家の引き出しから持ってきたノートを取り出した。
高校三年の日付。汚い字で、こう書かれていた。
『東京は、何にでもなれる街だって聞いた。でも私は、何者かになりたいんじゃなくて、誰にも縛られずに生きたいだけなのかもしれない』
十八歳の私が、無意識のうちに書き残していた本音。
九年かけて、私はようやくその言葉の意味を理解し始めていた。
私はスマートフォンを取り出し、ずっと消せなかったマッチングアプリのアイコンを長押しした。
「削除」を押すと、ホーム画面に小さな空白ができた。その空白を、私はしばらく眺めていた。
続いて、転職サイトのアプリを開いた。
検索窓に、私は「図書館」と打ち込んで、すぐに消した。まだ早い。まだ、何も決めていない。
ただ、選択肢がひとつ増えたということだけを、胸のポケットにしまった。
見上げると、ビルの谷間に細い月が浮かんでいた。
地元の山で見上げたのと同じ月なのに、ここでは少しだけ青白く、都会的な光を放っている。同じ月が、場所によって違って見える。それだけのことに、私は九年かかった。
「……よし」
私はノートを閉じ、バッグにしまった。
立ち上がると、膝のあたりが少しだけ軽かった。
足元のパンプスが、街灯の光を鈍く返していた。今夜は脱がなかった。痛みがないふりをするためではなく、自分の足で橋間さんに声をかけられたことを、そのまま持ち帰りたかった。
東京十年目の夏。




