第七章 誰でもない私の、唯一の足跡
国道沿いにある、黄色い看板のファミリーレストラン。
高校生だった私たちが、ドリンクバー一杯で何時間も将来の夢を語り明かしたその場所は、内装こそ新しくなっていたものの、漂うポテトの油の匂いと、子どもたちの甲高い声だけは、九年前と何ひとつ変わっていなかった。
ボックス席から身を乗り出して手を振る女性を見て、私は一瞬、足が止まった。
そこにいたのは、高校時代の面影を残しながらも、私の知らない時間をまとった真紀だった。上の子の結衣は夫と買い物へ行き、今日は熱の下がった隼人だけを連れてきたという。
緩く結んだ髪には疲れが滲んでいる。けれどその瞳には、どっしりとした、揺るぎない生活の重みが宿っていた。彼女の膝の上では、二歳くらいの男の子が眠そうに目をこすりながら、ポテトを一本握りしめている。
「真紀。……全然変わらないね、って言いたいけど、すっかりお母さんだ」
「あはは、ひどいでしょ。もうお洒落なんて二の次だよ。ほら隼人、真帆おばちゃんだよ。東京からわざわざ来てくれたんだよ」
真紀は手慣れた動作で子どもをあやしながら、私を席へ促した。
私は、自分が着ている東京で買った細身のシャツワンピースが、この空間でひどく浮いているような、あるいは透明な武装をしているような、奇妙な違和感を覚えた。真紀の服は、袖に何かの染みがついていた。彼女はそれをまったく気にしていない。
「お疲れさま。子育て、大変そうだね」
「大変なんてレベルじゃないよ。毎日が戦場。でもね」
真紀は、子どもの口元のケチャップを指で拭いながら、ふっと柔らかく笑った。
「……逃げ出したくなるほど大変だけど、ここに私の代わりはいないからね」
真紀はメニューを開き、隼人が食べられるものを先に探した。自分の注文は最後まで決めなかった。
「何が食べたいの」
私が聞くと、真紀はきょとんとした。
「隼人が残すだろうから、それ見てからでいい」
「自分の分、頼みなよ」
「もったいないじゃん」
高校時代、真紀は新作のパフェが出るたび、誰より早く注文していた。私は半ば強引に、季節限定の桃のパフェを一つ追加した。
運ばれてくると、真紀は最初こそ「こんなの久しぶり」と笑ったが、二口食べたところで隼人がジュースをこぼした。彼女は反射的に立ち上がり、紙ナプキンでテーブルを拭いた。
戻った頃には、アイスが少し溶けていた。
「冷たいものって、いつも途中でぬるくなるんだよね」
真紀はそう言って、溶けたアイスを掬った。冗談のような口調だったが、その一言の中に、彼女の何年分もの時間が見えた。
ドリンクバーのメロンソーダを啜りながら、私たちは九年を埋めるように話し始めた。
真紀の話は、どれも地に足がついていた。住宅ローンの金利、保育園の待機の話、夫の両親との距離の取り方、上の子の小学校の学区の話。
それらは、東京で私が耳にしてきた「キャリアアップ」や「インプレッション数」といった言葉とは、まったく別の次元で脈打っている現実だった。どちらが上等だという話ではない。ただ、私の言葉はこの席では一つも役に立たなかった。
「真帆のほうはどう? 相変わらずバリバリやってるんでしょ。広告関係だっけ」
「……キラキラなんてしてないよ。毎日、自分がいなくても回る仕事に、必死にしがみついてるだけ」
言ってしまってから、私は少し驚いた。
誰にも言えなかった本音を、真紀にならこぼせるような気がした。
職場で倒れたこと。私が休んでも、プロジェクトが何事もなかったように大成功したこと。三週間かけた仕事が、私の完璧な引き継ぎ資料のせいで、私なしで完璧に回ったこと。私は交換可能な部品のひとつでしかないこと。
真紀は黙って聞いていた。相槌も打たず、慰めもせず、ただ聞いていた。
そして、いつの間にか眠ってしまった隼人の頭を撫でながら、静かに口を開いた。
「え?」
「私はね、真帆」
真紀は視線を落とし、眠った隼人の背中を一定の速さで撫でた。
「この子たちがいる生活を選んだことは、後悔してない。だけど、朝から晩まで『お母さん』って呼ばれていると、たまに自分の名前が遠くなるの。信用金庫で働いてた頃の私を知ってる人も、今はほとんど『隼人くんのお母さん』って呼ぶから」
彼女は笑おうとして、うまくいかなかった。
「一人で電車に乗って、誰にも行き先を聞かれない日が欲しいって思うことがある。そう思った直後に、子どもの寝顔を見て、こんなことを考える私は母親失格なのかなって落ち込む」
「失格じゃないよ」
反射的に答えた私に、真紀は少し驚いた顔をした。
「だったら、真帆も自分の疲れを、仕事に向いてない証拠みたいに扱わなくていいんじゃない」
慰めではなかった。彼女は、自分に向けることのできない言葉を、私に渡したのだと思った。
真紀は視線を落とし、空になったグラスの底を見つめた。
「ここでは、絶対に代わりがいないの。隼人にとっても、結衣にとっても、旦那にとっても。私が熱を出したら、この家の機能は止まる。私が『母親』をやめたいと思っても、誰も代わりに『お母さん』をやってくれるわけじゃない」
彼女はそこで一度、言葉を切った。
「……それは、幸せなことだよ。本当にそう思ってる。でも、一生ここから離れられないっていう覚悟でもあるんだよ」
テーブルの上で、真紀の指先が微かに震えていた。
真紀は昨年、信用金庫時代の同期から復職を勧められたという。人手不足で、経験者を探していた。
「ちょっと心が動いた。窓口の仕事、嫌いじゃなかったから。でも保育園のお迎えに間に合わないし、結衣が来年小学生になるし、旦那は帰り遅いし」
「旦那さんとは話したの?」
「話したよ。『無理しなくていいんじゃない』って」
真紀はストローの紙を細く折った。
「優しい言葉なんだけどさ。私が無理しないために、あの人の生活は何も変わらないんだって思ったら、腹が立った」
私は返す言葉を探した。東京で一人暮らしをしている私は、誰かと生活を分け合う難しさを知らない。
「それで、どうしたの」
「今度、土曜だけ研修に行く。旦那に二人を見てもらうことにした。復職するかは、そのあと決める」
真紀の選択は、東京へ出ることほど派手ではない。けれど、家族の時間割を少し動かすために、何度も話し合った跡があった。
地元の信用金庫で働いていた彼女は、結婚を機に退職し、今は週三回のパートをしながら育児をしている。
彼女は「唯一無二」という究極の居場所を手に入れた。けれどその居場所は、彼女自身の「個」としての名前を塗りつぶし、「役割」の中に彼女を繋ぎ止めてもいる。
「たまにね、」
真紀は、寝ている隼人の髪をゆっくり撫でた。
「夜中に授乳しながら、真帆のインスタ見てたんだよ。渋谷とか、表参道とか。いいなあって思ってた。……あれ、真帆はしんどかったんだね」
「……うん」
「ばかだね、私たち」
二人で少し笑った。子どもが起きそうになって、慌てて声を潜めた。
「真帆が羨ましいよ」
真紀は言った。羨望でも皮肉でもない、ただの事実を述べるような声だった。
ファミリーレストランの駐車場で、私は真紀が子どもをチャイルドシートに乗せるのを見ていた。
彼女の車は、生活の汚れがついた、ありふれたミニバンだった。バックドアの隅に、子ども用のシールが貼ってある。
真紀は少しだけ疲れた顔で手を振り、それから思い出したように窓を開けた。
「真帆。次はもっと早く連絡して。あと、お母さんに顔見せてあげな」
私が返事をする前に、車は走り出していた。
私は、自分が立っている場所を確かめるように、アスファルトを強く踏みしめた。
真紀の車が見えなくなったあとも、私はしばらく駐車場に立っていた。
奈津美さんは、自由に届く請求書を見せてくれた。真紀は、愛している家族の中でも自分の名前を見失う夜があると話した。二人とも、自分の選択を正解として飾らなかった。
答えを渡されたわけではない。それが、ありがたかった。
足が勝手に向かったのは、高校時代、放課後によく座っていた川沿いの堤防だった。
雨は上がっていた。川面には、雲の切れ間から差した夕焼けが溶け込んだようなオレンジの光が、細く揺れている。
九年前、私はここで真紀と並んで座り、「絶対に東京で有名になるんだ」と息巻いていた。あのときの私は、自分が歯車になることなんて想像もしていなかった。自分が主役の映画が、ずっと続くのだと信じていた。
けれど、現実は違った。
私は、世界を動かすような特別な存在ではなかった。私がいなくても、会社も、街も、物語も進む。
でも、だからこそ。
(……だからこそ、どこで誰と生きるか、私が好きに決めていいんだ)
私はポケットからスマートフォンを取り出し、ブックマークしていた「移住失敗ブログ」を削除した。
他人の失敗を見て安心し、自分の現状を正当化するのは、もう終わりだ。
続けて、奈津美さんのカフェのアカウントを開いた。フォローを外そうとして、指を止める。
私は代わりに、最新の投稿に「いいね」を押した。彼女は明日も、あの店の鍵を開けるのだろう。それはもう、私にとって羨望の対象ではなく、ただの、誰かの一日だった。
私は、自分の足元を見た。東京から履いてきた白いスニーカーには、薄茶色の土埃がついていた。汚れていても、足の裏がどこに触れているのかは、ヒールよりずっとはっきり分かった。
「……帰ろう」
声に出してみると、その言葉は驚くほど滑らかに夜気に溶けた。
「帰る」と口にしたのは、これで二度目だった。一度目は東京の神社で、その行き先は自分でも分からなかった。
そして二度目の今、私が「帰る」と言った先は、東京だった。
今日の最終の新幹線に乗れば、予定より早く東京へ戻れる。発車まで、あと三時間。けれど私は、その列車には乗らないことにした。
私は実家に、今夜一緒にお茶を飲もうとメッセージを送った。母からは、ものの十秒で『わかった。ケーキ買っとくね』と返ってきた。
地元の山々に囲まれたこの場所は、私を育ててくれた、静かな揺り籠だ。
けれど今の私には、あのノイズだらけの、冷たくて、けれど無限に自分を消せる東京の空気が、もう少しだけ必要だった。
予定どおり、日曜日に東京へ戻ろう。
そして今度は、「必要とされたい」という焦りからではなく、「私はここにいたい」という自分の意志で、もう一度あの駅の階段を上がってみよう。
私は堤防の草の感触を確かめるように立ち上がり、暮れきった川面に背を向けて、実家への道を歩き出した。




