第六章 泥を噛む自由、画面の外にある現実
境内の静寂を持ち帰るようにして、私はワンルームに戻った。
由衣への断りの返信を送ったきり、合コンのことはもう考えなかった。暗い部屋で、私はクローゼットの奥から赤いスーツケースを引き出した。九年前の私が「何者か」になるために詰め込んだ希望は、もう空っぽだ。けれど今の私には、その空っぽさが、不思議と軽やかな器のように思えた。
「……少しだけ、休もう」
翌朝、六月十一日火曜日。私は出社してすぐ、水曜日から金曜日まで三日間の有給休暇を申請した。
「この忙しい時期にか」と眉をひそめられたが、「先日の体調不良がまだ尾を引いていて、一度しっかり静養したいんです」と言うと、彼は意外にもあっさり許可を出した。
「分かった。幸い、今の案件は佐藤さんが完璧に把握している。君がいなくても現場に混乱はないだろうからな」
その言葉は、数日前の私なら心にトゲを刺しただろう。
けれど今日は、「そうですね」と微笑むことができた。
翌朝、最低限の着替えだけを詰め込み、私は北陸新幹線に乗った。週末まで含めれば、五日間だけ東京を離れられる。
車窓の景色が、コンクリートの塊から、雨に濡れた濃い緑へと変わっていく。トンネルを抜けるたびに、肺の奥に溜まっていた都会の淀みが、少しずつ薄まっていくのを感じた。
足元には、スニーカーがあった。会社に履いていったことのない、あの白い靴だ。
実家の玄関を開けると、使い古された芳香剤の匂いと、夕飯の支度をする微かな音がした。
母は「あら、急にどうしたの」と驚きながらも、私の顔を見て、それ以上は何も聞かなかった。その夜の食卓に、私の好物の煮物が二品出てきたことで、私は母がすべてを察していることを知った。
父は味噌汁を飲み終えてから、「仕事は休めたのか」とだけ聞いた。
「三日だけ。有休、余ってたから」
「そうか」
問い詰められなかったことが、かえって胸に重かった。母は煮物の鉢を私のほうへ押しやり、「食べてから考えなさい」と言った。
食卓の柱には、私が小学生の頃につけた身長の印が残っていた。帰ってこなかった九年間にも、この家の壁は少しずつ古くなり、両親の髪は白くなっていた。地元へ戻ることは、時間を巻き戻すことではない。私はその当然のことを、ようやく目の前の景色として理解した。
帰省した翌朝、私は母の包丁の音で目を覚ました。時計は六時半だった。東京ならアラームを止め、あと十分眠ろうとする時刻だ。
台所へ降りると、父は新聞を広げ、母は弁当箱へ卵焼きを詰めていた。父は退職後、週三日だけ地域の資料館を手伝っているという。
「お父さんも、働いてるんだ」
「働くというほどじゃない。展示の埃を払って、来た人に道を教えるくらいだ」
母が笑った。
「帰ってくるたびに同じ質問するのね。去年も話したでしょう」
私は覚えていなかった。電話で聞きながら、仕事のメールを見ていたのだと思う。
朝食のあと、父が資料館へ行く車に同乗した。途中で降ろしてもらうつもりだったが、古い木造校舎を改装した建物までついていった。
開館直後、県外から来た夫婦が地図を手に入ってきた。父は受付から出て、昔の街道と山道の違いを説明した。声は家にいるときよりよく通り、相手の質問に答えるたび、顔が少し明るくなった。
父には父の、私の知らない時間がある。親はいつでも実家で待っている背景ではない。その姿を見たことで、地元へ帰るという想像が、甘えの混じったものだったと気づいた。
二日目の午前。
私は、母に借りた古い軽自動車のハンドルを握っていた。
実家でじっとしていると、自分の輪郭がまた霧に溶けてしまいそうだった。私は、ブックマークに保存されたままの『kaze-no-kaori』というカフェの住所を確認する。淡路島のリナではない。実家から車で行ける距離だと知って、半年ほど前になんとなく保存したきりの、フォロワーの少ないアカウントだった。
画面の向こうにあった「地方での理想の暮らし」が、実際にはどんな空気を吸い、どんな土の上に立っているのか。それを自分の目で見なければ、私はまた東京という迷路の中で立ち止まる気がした。
市街地から車で三十分ほど山を登った、かつての養蚕集落の一角。
細い山道を抜け、視界が開けた先に、その建物はあった。
瓦屋根の重厚な古民家。漆喰の壁は塗り直され、深い群青色の暖簾が、雨を含んだ風に重たく揺れている。センスの良い手書きの看板が、そこがカフェであることを控えめに主張していた。
けれど、広々とした砂利敷きの駐車場には、私の軽自動車が一台きり。他に人影はない。
「……こんにちは」
奥で、水が金属を叩く小さな音がしていた。天井の梁の下にバケツが置かれ、その前で一人の女性がしゃがみ込み、雫の落ちる位置を確かめている。彼女は私の声に驚いたように肩を揺らし、慌てて立ち上がった。
「いらっしゃいませ。……すみません、みっともないところを。梅雨のたびに、ここだけ漏るんです」
私より五、六歳上だろうか。色褪せた長袖のシャツの上に、厚手の帆布のエプロンを締めている。
都会的なショートカット。けれどその指先はひび割れて赤く、爪の間には落ちきらない汚れが染み付いていた。SNSで見かけた穏やかな微笑みの裏にある「生活」が、その手から漏れ出している。
「お好きな席へどうぞ。メニュー、お持ちしますね」
促されるまま、一番奥の窓際に座った。
差し出されたメニューは、手漉きの和紙に万年筆で丁寧に書かれたものだった。
『自家焙煎コーヒー 八五〇円』
『地元のルバーブのタルト 六五〇円』
この土地の物価を考えれば、驚くほど強気の値付けだ。都会ならいざ知らず、ここでこの値段を払う地元の人間は、まずいないだろう。
「コーヒーと、タルトをお願いします」
「ありがとうございます。少しお時間いただきますね。豆を挽くので」
彼女がカウンターの奥へ消えると、部屋にはバケツに落ちる雫の音だけが残った。
静かだ。静かすぎて、自分の呼吸音さえ他人のもののように聞こえる。
しばらくして、ミルが豆を砕く高い音が響き始めた。その音に導かれるように、私はカウンター越しに声をかけた。
「ここ、SNSで拝見しました。すごく素敵ですね。……実家が近いんですけど、こんなところにお店があるなんて知りませんでした」
彼女は豆をドリッパーに移しながら、ふっと自嘲気味な笑みを浮かべた。
「知らなくて当然ですよ。母方の曾祖父が残した家なんです。名義は母で、今は使用料なしで借りています。家賃がないから続けられているだけで、修繕費と固定資産税の一部は私が負担しています」
「お一人で?」
「ええ。最初は友達も手伝ってくれたんですけど……みんな、一週間もすれば都会に帰りますからね」
彼女が湯を注ぐと、芳醇な香りが冷たい空気に溶け出した。
運ばれてきたコーヒーを一口飲む。深く、まったく妥協のない味だった。この一杯に八五〇円という値付けは、強気ではなく、正当だった。
私は、自分が東京で販促の仕事をしていること、彼女の経歴をSNSで知っていたことを打ち明けた。
「……ああ、私のプロフィール、読みました? 広告代理店の話」
彼女は、客が私一人しかいないことを確認すると、向かいの席に腰を下ろした。
「あんなの、半分は自分に言い聞かせるための嘘ですよ」
彼女の名前は奈津美さんといった。
かつては六本木にオフィスを構える大手広告代理店で、有名飲料メーカーの大型案件を回していたという。まさに、私がかつて夢見た「東京の勝者」そのもののキャリアだ。
「当時はね、毎日タクシー帰りで、睡眠時間三時間。でも、六本木から見える夜景が自分の価値だと思ってた。私が手掛けた広告が駅に貼られる快感。それがすべてだったんです」
「どうして……それを手放したんですか」
「ある朝、ホームで自分の作った巨大なポスターを見たときに、吐き気がしたんです。これ、来週には剥がされてゴミになるなって。私の人生も、この使い捨ての紙と同じなんじゃないかって」
奈津美さんは、赤い自分の手をさすった。
「それで、逃げるようにここに来ました。SNSには『本当の自分を取り戻す場所』なんて書きましたけどね。現実は泥臭いですよ」
彼女は少し笑ってから、笑うのをやめた。
「移住して最初の冬、水道が凍って一週間お風呂に入れませんでした。市役所に電話しても、業者が来られるのは三日後だって。地元の会合に出れば、『都会の女が遊びでやってる』って。……期待していた都会からのお客さんは、最初の三ヶ月だけでしたね。今は、週に数人しか来ない日もあります」
彼女の言葉は、ナイフのように率直だった。
私が夢見ていた「地方での再出発」という聖域を、彼女は容赦なく解体していく。しかもそれを、恨みがましくではなく、天気の話をするような口調で。
「一番きついのはね」
奈津美さんは、窓の外の、雨に煙る山を見つめた。
「孤独じゃないんです。自分が何者でもなくなったっていう事実に、耐えられないことなんです。東京にいた時は、会社の名前と役職が私を守ってくれていた。でもここでは、私はただの『古民家を借りている不器用な女』でしかない。……時々、あんなに嫌っていた東京のネオンが、狂おしいほど恋しくなります」
彼女の目が、少しだけ潤んでいるように見えた。
SNSに上げられていた「丁寧な暮らし」の写真は、彼女にとっての生存報告だったのだ。私はここにいて幸せだ、後悔なんてしていない、と自分自身にかける呪文。
私が夜ごと羨んでいたのは、誰かの幸福ではなく、誰かの必死な祈りだった。
「長谷川さんは、地元に帰りたいんですか」
「……分かりません。ただ、今の仕事で、自分の代わりはいくらでもいるんだって突きつけられて」
「代わりがいくらでもいる」
奈津美さんは、その言葉を口の中で転がすように繰り返した。
奈津美さんは、しばらく考えてから売上台帳を開いた。数字は月によって大きく波打ち、梅雨の欄には赤い線が多かった。
「会社では、休んでも翌月の給与は入ったでしょう。ここは一日閉めれば、その日の売上はゼロです。自由になったつもりで帰ってきたけれど、自由には毎月、請求書が届くんですよ」
彼女は笑ったが、その指は修繕業者の見積書の角を何度も折っていた。
「それでも続けているのは、ここが理想の暮らしだからじゃありません。辞めるにしても、続けるにしても、数字を見て自分で決めたいからです。東京にいた頃は、忙しさを理由に、決めることまで会社へ預けていました」
彼女は真剣な目で私を見た。
コーヒーを飲み終える頃には、雨がいくらか小降りになっていた。
けれど、私の心はさっきよりもずっと冷えていた。
タルトを口に運ぶ。ルバーブは、記憶よりずっと酸っぱかった。子どもの頃、祖母が庭の隅で育てて、毎年ジャムにしていたのと同じ酸っぱさだった。
「これ、おいしいです。本当に」
言ってから、それが今日、私が言った唯一の嘘のない言葉だと気づいた。
「……ありがとうございます」
奈津美さんは、少しだけ驚いたような顔をして、それから初めて、SNSの写真とは違う笑い方をした。
「ごめんなさい、せっかく来てくれたのに、夢のない話ばかりで」
「いえ。……聞けてよかったです。本当に」
店を出るとき、奈津美さんはまたエプロンの紐を締め直し、バケツの水を捨てに土間へ戻っていった。
車を走らせながら、バックミラーの中で古民家が小さくなっていくのを見た。
彼女は「失敗した人」なのだろうか。それとも「戦っている人」なのだろうか。
けれど、と私は思った。彼女は少なくとも、毎朝あの店の鍵を開けている。誰も来ないかもしれない日にも、豆を挽き、バケツの位置を直している。それは、揺れながらでも立っているということだ。
実家に戻ると、母が居間でテレビを見ていた。
「おかえり。どうだった、素敵なカフェだった?」
母の問いに、私は「うん、コーヒーが美味しかったよ」とだけ答えた。
そのコーヒーの底に沈んでいた苦みについては、口にすることができなかった。
私は二階の自室に入り、古い学習机に座った。
引き出しの奥には、十八歳の私が東京に持っていかなかった、何冊かのノートが残っている。
背表紙に指をかけて、私はそこで手を止めた。
まだ、開く勇気はなかった。




