第五章 都会の余白、静寂の在処
月曜の朝。駅のホームに溢れる人の群れは、巨大な洗濯機の中で揉まれる衣類のようだった。
引き出物のカタログギフトを通勤バッグの底に押し込んだまま、私は千代田線のドアに押し込まれた。
恵梨香の結婚式から二日。八センチのヒールによる筋肉痛は、まだふくらはぎの奥に残っていて、一歩踏み出すたび、あの華やかな表参道が現実だったことを思い出させる。けれど窓ガラスに映る自分は、週末のドレス姿とは似ても似つかない、くたびれた会社員でしかない。
「……おはようございます」
オフィスに入ると、すでに空調が低い音を立てていた。
デスクに座って最初に目に入ったのは、二週間前に私が倒れた後に完遂されたサマー・キャンペーンの、結果報告書だった。数字はすべて目標を超えている。私が三週間かけて作った予測値の、ほぼ想定どおりに。
メールの受信トレイの一番上に、「【御礼】キャンペーン大成功について」というタイトルの全社宛メールが鎮座していた。差出人は佐久間部長。
『今回の成功は、現場を仕切ってくれた佐藤さんの臨機応変な対応があったからこそです。一人の力ではなく、組織として動くことの大切さを再確認しました……』
私はマウスを握る手に、少しだけ力を込めた。
資料を作ったのも、業者と交渉したのも、トラブルの種を事前にすべて摘んでおいたのも私だ。けれど、最後にボタンを押した人間だけが、勝利の女神に微笑まれる。
「あ、長谷川さん。お疲れ様です。その後、体調はいかがですか」
声をかけてきたのは、その「優秀な予備部品」である佐藤さんだった。彼女の顔には一片の悪気もなく、ただ純粋な気遣いだけが浮かんでいる。それが、今の私には一番きつい。
「うん、もう大丈夫。佐藤さん、あのときはありがとうね。大変だったでしょう」
「いえ、長谷川さんの引き継ぎが完璧だったので。……部長も『佐藤に任せて正解だった』って言ってくださって。私、来月が契約更新なので、少し安心しました」
最後の一言を、彼女は少し早口で言って、すぐに笑った。
彼女が契約更新の話をしたとき、私は目の前の集計表を裏返した。六か月ごとに、佐藤さんはこの席へ残れるかどうかを待っている。
私は更新の可否を決める会議で、佐藤さんの名前を何度も見てきた。それなのに、本人からその言葉を聞くのは初めてだった。
「そっか。……佐藤さん、あの資料、次からは自分で作ってみたら? 私の作り方、たぶん癖があるから」
思いつきで言った言葉に、彼女は少し目を見開いて、それから深く頷いた。
「はい。ぜひ」
午前の会議が終わったあと、佐久間は誰もいないと思ったのか、給湯室で錠剤を水なしで飲み込んでいた。机上の強い言葉とは不釣り合いなほど、肩が落ちていた。
「部長、大丈夫ですか」
声をかけると、彼は咳払いをして背筋を伸ばした。
「ただの胃薬だ。数字が悪い月は、昔からこうなる」
昼休み。給湯室でコーヒーを淹れていると、後輩の由衣がやってきた。
二十三歳の彼女は、流行りの韓国コスメに詳しく、常にアンテナを張り巡らせている「東京の若手」そのものだ。
「長谷川さーん、見ましたよインスタ。恵梨香さんの結婚式ですよね。あの会場、予約取れないって有名ですよ」
由衣は興奮気味に、自分のスマートフォンを私に向けてきた。そこには、私がタグ付けされた恵梨香の投稿があった。私は昨日、そのタグを外そうか三十分ほど迷って、結局そのままにしていた。
「……ああ、うん。すごく綺麗だったよ」
「いいなあ、羨ましい。長谷川さんの周り、スペック高い人ばっかりですよね。やっぱり東京にいると、出会いのレベルも違いますか」
「どうだろうね」
「私、最近アプリで失敗続きで。やっぱりああいう華やかな場所に顔を出さないとダメですよね。長谷川さんも、あの披露宴で何かあったんじゃないですか」
私が昨日の帰り道、歩道橋でヒールを脱いで泣きそうになっていたことや、三万円の祝儀を地元の蕎麦屋と比較していたことなんて、口が裂けても言えない。
「……別に、普通だよ。みんな自分の生活で精一杯だし」
「えー、またまた。謙遜しちゃって。でも長谷川さんならすぐですよ。仕事もできるし、東京の生活も長いですもんね」
私は適当に相槌を打ち、逃げるように給湯室を出た。
夕方、由衣が朝に修正した広告案を見せに来た。前なら、私はその場で赤字を入れただろう。今日は一度、彼女に尋ねた。
「この写真を最初にした理由は?」
「商品の形より、着たときの気分を先に見せたくて。今のフォロワーって、物だけの写真を飛ばすので」
説明を聞くと、数値にも根拠があった。私が思いつかなかった視点だった。
「じゃあ、この順番でテストしてみよう」
由衣は「本当にいいんですか」と聞いた。
「結果を見て、また一緒に考えよう」
午後七時。
本来なら、同僚と少し洒落た居酒屋に寄って、仕事の愚痴をこぼすのが「東京の会社員」の正しい週明けの過ごし方なのかもしれない。
私は千代田線に乗り、自宅の最寄り駅を二つ通り越した。
降りたのは、前から名前だけ気になっていた駅だった。話題のスポットもなければ、インスタ映えする店もない。ただ古い住宅街が広がるだけの場所。
改札を出ると、渋谷や新宿とはまったく違う空気が流れていた。
人混みがなく、道行く人の歩幅がゆったりしている。街灯の間隔が広く、影が濃い。
駅前の商店街は半分ほどシャッターが下りていた。八百屋の前では店主が段ボールを畳み、惣菜店からは揚げ油の匂いが流れてくる。流行の店はないが、買い物袋を提げた人々は迷わず歩いていた。
私はパンプスの速度を落とした。目的地を決めずに歩くと、普段なら見落とすものが目に入った。窓辺に並ぶ猫の置物、植木鉢へ差した手書きの札、玄関前で将棋を指す老人たち。
私は暗くなりかけた住宅街を、あてもなく歩いた。
途中、路地の角に、古い木造の二階家があった。一階の窓に灯りがともり、ガラス越しに本棚が見えた。門柱の脇に、小さな木の札が下がっている。
『はざま文庫 開館:火・木・土 十三時〜十九時』
私設の図書館らしかった。中では、白髪の女性がカウンターで何か書き物をしていて、その向かいの椅子で、小学生くらいの男の子が本を読んでいた。
ガラス越しに見ていると、小学生の男の子が本から顔を上げ、窓の外の私に気づいた。目が合い、私は反射的に会釈をした。
男の子は首を傾げ、また本へ戻った。中へ入ればいいのに、私は木札の開館時間を確認するだけで動けなかった。
やがて白髪の女性が立ち上がり、窓辺のカーテンを少し閉めた。拒まれたわけではない。それでも私は、今日入る時刻を逃したのだと思った。
木札に書かれた次の開館日は火曜日だった。私は携帯のカレンダーに「はざま文庫」とだけ入れた。
私はしばらく、その灯りを外から眺めていた。
東京の真ん中に、こんなに採算の合わなそうな場所が、当たり前の顔をして存在している。誰も急いでいない。何も売られていない。
そこからさらに数分歩いた先に、小さな神社があった。
鳥居をくぐると、外の空気が一段変わる。表参道のゲストハウスのような、完璧に整えられた華やかさはない。けれど、湿った土の匂いと古い木の香りが、こわばっていた私の肺をようやく緩めてくれた。
石段に腰を下ろす。
ヒールを脱ぐ勇気はまだないけれど、少しだけ足を投げ出してみた。
遠くで電車の音がして、どこかでカラスが鳴いている。
——もし、明日からヒールを履くのをやめたら。
——もし、「誰の代わりでもいい仕事」を、心から受け入れることができたら。
スマートフォンが光った。由衣からのLINEだった。
『長谷川さん、来週末の合コン、欠員が出たんですけど来ませんか? 広告代理店の人たちだそうです!』
私は通知を開き、『誘ってくれてありがとう。今回はやめておくね』と返した。送信して、スマートフォンをポケットへ戻した。
「……帰ろうかな」
二度目の独り言は、前よりも少しだけ実感を伴って、夜の空気に溶けた。
その「帰る」がどこを指しているのか、自分でもまだ分からなかった。




