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ヒールを脱いだら、東京はただの空になった  作者: 久遠 睦


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4/10

第四章 幸福のパッケージ、披露宴の帰り道

 私は、履き慣れない八センチのヒールで、アスファルトの凹凸を慎重に踏みしめていた。手元には、パールのビーズが刺繍された小さなクラッチバッグ。中には、袱紗に包んだ三万円の祝儀袋と、予備のストッキングと、塗り直す暇のないリップスティックが入っている。

 このヒールは、今日のために買ったわけではない。三年前、今回より一つ前に出席した友人の結婚式に合わせて買って、それ以来、年に一度か二度、こういう日にだけ引っ張り出される。だから足が慣れない。慣れないまま、私は年に何度か、この靴で人の幸福を祝いに行く。

 招待状が届いたのは三か月前だった。厚い封筒を開けると、金色の文字で二人の名前が印刷されていた。私はその場で出席に丸をつけた。

 迷ったのは、祝う気持ちがなかったからではない。結婚式へ行くたび、自分の現在地を説明しなければならないことに疲れていた。

 仕事は順調。恋人はいない。結婚の予定もない。地元へ帰る予定もない。

 事実を並べるだけで、どこか言い訳のように聞こえる。だから私は、「今は仕事が楽しいから」と一文を足した。楽しいかどうかを考える前に口から出る、便利な蓋だった。

 式の一週間前、母から電話があった。

「真紀ちゃんから聞いたけど、また結婚式なんだって?」

「真帆も、いい人はいないの」

 母の声には責める響きはなかった。それでも私は、ドレスをクローゼットから出しながら苛立った。

「いない。いたら言うよ」

「怒らなくてもいいでしょう。お母さんはただ――」

「分かってる。心配なんでしょ」

 会話を先回りして終わらせ、私は電話を切った。

 ベッドの上に広げたドレスには、前回のクリーニングのタグがついたままだった。タグを外し、背中のファスナーを上げる。鏡の前で身体をひねると、ウエストが少しきつかった。

 三年前なら食事を減らしただろう。今回は、補正下着を買うか、別のドレスを借りるか、しばらく考えた。

 結局、何もしなかった。息を浅くすれば着られる。そう判断した自分に、仕事の進め方とよく似た癖を見た。根本を変えるより、不快さに慣れるほうを選ぶ。

 当日の朝、鏡の前で笑顔を作った。口角を上げ、目元の力を抜く。写真に残る顔としては十分だった。

 玄関で八センチのヒールを履いた瞬間、右足の小指に痛みが走った。絆創膏を一枚貼り、予備をクラッチバッグへ入れた。

 痛くなることを知りながら履く靴。聞かれることを知りながら向かう場所。私はそれを、大人の付き合いと呼んでドアを閉めた。

 今日は、大学のサークル仲間だった恵梨香の結婚式だ。

 恵梨香も私と同じように地方から上京し、今は誰もが知る大手ネット広告企業で働いている。相手は外資系コンサルに勤める同い年の男性だという。この街が推奨する「正解のゴール」を、絵に描いたようなカップルだった。

 会場は、明治神宮にほど近い高級ゲストハウス。

 エントランスを抜けると、洗練された香水の匂いと、シャンパングラスの触れ合う繊細な音が満ちていた。

「真帆! 久しぶり!」

 声をかけてきたのは、同じテーブルの友人たちだ。皆、美容室で完璧にセットされた髪と、トレンドを押さえたドレスに身を包んでいる。

 席次表には、友人たちの肩書きが小さく添えられていた。大手広告会社、弁護士事務所、出版社、外資系メーカー。私の名前の下にも「ルミナス・アパレル」と印刷されている。

 名前だけでは足りず、所属がなければ紹介できないように並んだ文字を見て、私は名札を首から下げたまま休日へ来た気分になった。

 乾杯の前、新郎側の男性から名刺を渡された。披露宴で名刺を出すことに驚いたが、周囲は自然に受け取っている。

「アパレルの販促なんですね。インフルエンサーマーケティングとか?」

「はい、最近はほとんど」

「楽しそうだなあ。華やかな仕事ですよね」

 披露宴が始まる前から、私たちは互いのパッケージだけを交換していた。

 披露宴が始まると、照明が落ち、感動的な音楽とともにムービーが流れた。

 幼少期の写真、上京したての初々しい姿、そして二人が出会い、東京の夜景をバックにプロポーズされる瞬間。

「幸せです」という字幕とともに、恵梨香が涙を拭う。

 周囲の友人たちも「よかったね」「綺麗だね」と口々に言い、ハンカチを目に当てている。

 私も、たぶん同じ顔をしていたと思う。それは演技ではなかった。恵梨香が幸せそうなのは本当に嬉しかった。ただ、その嬉しさと同時に、まったく別の計算が頭の中で動いていた。

 ご祝儀に三万円。美容院代に六千円。ドレスのクリーニングに三千円。ストッキングに五百円。

 この「幸福の祝福」を維持するために、私の手取りの何分の一かが、一日で消えていく。

(……この三万円があれば、地元のあの蕎麦屋に、何回行けるだろう)

 不意にそんな思考が頭をよぎり、自分の世俗さに嫌気が差した。

 と同時に、その計算をしている自分に、少しだけ驚いてもいた。三年前の私なら、金額のことなど考えもしなかった。祝儀の額は、その場にいる資格の入場料で、私は喜んで払っていた。何かが、確実に変わってきている。

 お色直しをした恵梨香が、テーブルを回ってくる。彼女の左手の薬指で、窓から差す光を反射して、ダイヤモンドが眩しく光った。

「真帆も、いい人いないの? アプリとかやってるんでしょ」

 シャンパンで少し頬を赤くした恵梨香が、悪気のない笑みを向ける。

「うーん、なかなかね。今は仕事が忙しくて」

 いつもの便利な逃げ言葉を口にする。

「でもさ、二十七ってけっこうボーダーだよ。東京でいい人捕まえるなら、今が一番の売り時なんだから。うちの旦那の後輩、紹介しようか」

 売り時。

 その言葉が、耳の奥で嫌な音を立てて響いた。

 恵梨香に悪意はない。彼女は本気で私を心配し、本気で私に幸せになってほしいと思っている。だからこそ、彼女がその単語を何の躊躇もなく使えることが、この街のルールの深さを表していた。

 もし今、私が全部投げ出して地元に帰ると言ったら、彼女たちはどんな顔をするだろう。きっと、同情と、「競争から脱落した者」への微かな安堵の混じった、複雑な微笑みを浮かべるに違いない。

「ありがとう。考えとく」

 私は笑って、そう答えた。恵梨香は満足そうに頷いて、次のテーブルへ移っていった。ドレスの裾が床を滑る音が、絨毯に吸われていく。

 お手洗いでストッキングを直していると、同じテーブルだった美沙が入ってきた。彼女は鏡の前でイヤリングを外し、赤くなった耳たぶを指で押さえた。

「私、来月大阪へ転勤するんだ」

「そうなの?」

「うん。付き合ってた人には、それなら終わりにしようって言われた。三年付き合ったのに、結論は五分だった」

 美沙は泣かなかった。代わりに、外したイヤリングをハンカチで丁寧に包んだ。

「恵梨香は幸せそうでよかった。でも、今日はちょっと眩しいね」

 私たちは鏡越しに目を合わせた。祝う気持ちと、自分の人生への不安は、同じ胸の中にあっても互いを打ち消さない。そのことを口にしなくても、美沙には伝わっている気がした。

「大阪、行くんだよね」

「行く。仕事、やってみたいから」

 美沙がイヤリングをバッグへしまう。その横顔は、披露宴会場の誰よりも静かで、誰よりも自分の足で立っているように見えた。

 披露宴が終わり、引き出物の大きな紙袋を提げて会場を出る。

 夕暮れの表参道は、まだ多くの人で賑わっていた。

 二次会へ向かう友人たちの輪から「ちょっと体調が悪くて」と嘘をついて離れ、私は一人、駅への道を選んだ。嘘をつくとき、私の声はいつも少しだけ明るくなる。自分でも気持ちが悪い癖だ。

 歩道橋の上で立ち止まり、下を流れる車のライトを見つめた。

 赤いテールランプが、血管を流れる血球のように、途切れることなく続いていく。

 この中のどれだけの人が、心から「今、私はここにいたい」と思ってハンドルを握っているのだろう。

 恵梨香が手に入れたのは、確かに美しい幸福のパッケージだった。

 この街で誰かに認められ、居場所を確保するための、ひとつの完璧な回答。

 でも、もし私がそのパッケージを手に入れたとしても、心の奥にある「ここではないどこか」への渇きは、消えるのだろうか。

 誰かいい人と出会って、結婚して、子どもを産んで。

 それが、私の人生を「正解」にする唯一の手段なのだろうか。

 もしそうなら、私は何のためにあの山を越えて、九年間もここで戦ってきたのだろう。

 駅の階段の手前で、私はドラッグストアへ入った。携帯用のフラットシューズが千九百八十円で売られていた。買えば今すぐ楽になれる。

 箱を手に取ったまま、私は鏡に映るドレス姿を見た。足元だけが柔らかな靴になれば、全体の均衡が崩れるように思えた。

 誰が見るのだろう。もう披露宴は終わっている。友人たちは二次会へ行き、駅の人々は私の靴など覚えない。

 それでも私は箱を棚へ戻した。痛みに耐えるほうが、選んだ服装を最後まで保つより簡単だった。

 店を出て十歩ほど歩き、私は引き返した。フラットシューズを買い、レジ袋を提げて再び外へ出る。履き替える勇気はまだなくても、選択肢を持っているだけで呼吸が少し楽になった。

 バッグの中でスマートフォンが震えた。

 通知には、地元のローカルニュースのヘッドライン。

『市内で、女性たちが主役のマルシェが開催されました』

 サムネイルには、飾らない笑顔で野菜を売る女性たちの姿があった。

 彼女たちの靴は、たぶんヒールではない。土をしっかり踏むための、実用的なスニーカーか長靴だろう。

 そう思った瞬間、それもまた私の勝手な物語だ、という声が頭の中で同時に鳴った。マルシェの写真の裏側で、彼女たちが何を諦めたかを、私は何も知らない。

「……痛いな」

 私は歩道橋の隅で、周りに人がいないのを確かめて、そっとヒールを脱いだ。

 ストッキング越しに伝わるコンクリートの冷たさが、皮肉にも、今日一日で一番私を冷静にさせてくれた。

 足の裏全体が、地面に触れている。この感覚を、私はどれくらい忘れていたのだろう。

 誰かの決めた幸福のテンプレートに、自分を無理やり押し込めるのは、もう限界だった。

 恵梨香の結婚式は素晴らしかった。心からそう思う。でも、それは私の物語ではない。それだけのことだ。

 三十秒だけそうしていた。

 通り過ぎた大学生らしき二人組が、ちらりと私を見て、何も言わずに歩いていった。この街は、こういうときだけは優しい。

 買ったばかりのフラットシューズへ履き替えるため、私は駅の化粧室に入った。個室でストッキングを脱ぐと、踵の皮が赤く剥けていた。

 水道で濡らしたハンカチを当て、絆創膏を貼る。鏡の前に並ぶ女性たちは、口紅を直し、髪を整え、またそれぞれの場所へ戻っていく。隣の女性はスニーカーから高いヒールへ履き替えていた。これから夜の仕事へ向かうのかもしれない。

 脱ぐ人と、履く人。同じ時刻に、同じ鏡の前で、逆の準備をしている。

 私は黒いフラットシューズに足を入れた。ドレスとは少し合わなかった。けれど、駅の床を踏んだとき、痛みで狭くなっていた視界が戻った。

 ホームで電車を待ちながら、恵梨香から届いた写真を見た。ケーキ入刀の瞬間、彼女は本当に嬉しそうに笑っていた。私はハートの絵文字を一つ返した。

 彼女の幸福を否定しなくても、自分が同じ道を急ぐ必要はない。頭ではずっと分かっていたはずなのに、足の痛みが引いて初めて、その考えが身体へ降りてきた。

 私は再び靴を履き、千代田線の入り口を目指した。階段を降りるたび、喧騒が少しずつ遠ざかっていく。

 自宅に帰れば、また狭いワンルームと、冷えた総菜が待っている。

 けれど胸の中には、これまでとは違う、小さな火のようなものが灯っていた。

「安定」という檻の鍵は、実は最初から私の手の中にあったのかもしれない。

 それを回す勇気があるか、それともこのまま錆びつくのを待つのか。

 地下鉄の窓に映る顔は、披露宴の席にいたときよりも、少しだけマシな表情をしているように見えた。

 膝の上で、引き出物の紙袋が重い。中身は、カタログギフトだった。



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