第三章 名前のない歯車
千代田線のラッシュに揉まれ、駅の階段を駆け上がっただけで、肺の奥がちりちりと焼けるように痛む。デスクに座り、パソコンの電源を入れる。起動するまでの数十秒、黒い画面に映り込む自分の顔は、行き先を失った遭難者のようだった。
ルミナス・アパレルは、二十代後半から三十代の女性をターゲットにした中堅ブランドだ。今の私の肩書きは、販促企画部のシニア・アソシエイト。聞こえはいいが、実態は膨大なデータの整理と、外部業者との調整と、部長の思いつきを形にするための緩衝材である。
「長谷川さん、例のサマー・キャンペーンの進捗、どうなってる」
背後から聞こえた声は、いつもより少し掠れていた。佐久間は片手で腰を押さえ、もう一方の手に薬局の袋を提げていた。私と目が合うと、袋を資料の陰へ滑らせた。
「はい。主要なインフルエンサーへのギフティング商品の発送と、SNS広告の入稿はすべて完了しています。明日のローンチを待つだけです」
「そうか。今回は社長も期待してるからな。ミスは許されないぞ」
佐久間はそれだけ言うと、私の返事を待たずに会議室へ消えていった。
隣のデスクに座る派遣社員の佐藤さんに、ふと目をやった。私より三歳年下で、いつも淡々と仕事をこなす。彼女の契約は六ヶ月ごとの更新で、その更新可否を決める会議に、私は毎回オブザーバーとして出席している。そのことを、彼女は知っているのだろうか。
「長谷川さん、顔色悪いですよ。大丈夫ですか」
「あはは、ちょっと寝不足なだけ。大丈夫、明日が本番だから」
無理に作った笑顔が、頬に張り付くような感覚があった。
ローンチ前日の昼、佐藤さんが商品一覧を持ってきた。
「長谷川さん、インフルエンサー向けの案内に、限定色のサイズ展開が入っていません」
私は画面と紙を見比べた。制作会社から届いた最終データでは、一行だけ欠けていた。
「投稿前に差し替えをお願いしたほうがいいですよね」
時計は午後一時を回っていた。修正を頼めば、全素材の納品が遅れるかもしれない。私は一瞬、「このままでも大きな問題にはならない」と考えた。
けれど、限定色を目当てにした客が誤ったサイズを選べば、問い合わせは店舗へ集中する。私は制作会社へ電話をかけた。
「二時半までに直します」と担当者は答えたが、声には露骨な苛立ちが混じっていた。
通話を終えると、佐藤さんが「すみません」と言った。
「どうして佐藤さんが謝るの」
「私がもっと早く見つけていれば」
その言葉は、私が何年も自分に言い続けてきたものと同じだった。
「見つけた人が謝る必要はないよ。助かった」
口にしてみると、ひどく簡単な言葉だった。なぜ自分には一度も言えなかったのだろうと思った。
差し替えデータが届いたのは午後二時二十七分。佐藤さんと二人で確認し、私は送信ボタンを押した。小さな危機は、報告書には記録されないまま消えた。
私は安堵した。けれど同時に、佐藤さんがいなければ見落としていたという事実が、胸のどこかに残った。それを感謝として受け取るか、自分の不足として恐れるか、まだ決められなかった。
その日の午後、最終確認の会議中に、視界が急にぐらりと歪んだ。
耳の奥でキーンという高い音が鳴り、佐久間の声が、水底から聞こえてくるように遠のいていく。手元の資料の文字が、意味を持たない模様に変わった。
肩を揺すられて、私は自分が机に突っ伏していたことに気づいた。
冷や汗が背中を伝う。総務から借りた体温計が示したのは、三十八度五分だった。
「長谷川、今日はもう帰れ。明日のローンチは佐藤さんと俺で対応する」
佐久間の声には、私への心配よりも、予定が狂うことへの苛立ちが滲んでいた。
「すみません……明日、大事な日なのに……」
「いいから。君がいなくても、仕事は回るようにできている。それが組織だ」
その言葉は、優しさの皮を被った宣告だった。
たぶん彼は、本当に励ましたつもりだったのだと思う。それが余計にたちが悪い。
ふらつく足でタクシーに乗り込み、帰宅してベッドに潜り込んだ。
スニーカーで来ればよかった、と熱の中でぼんやり思った。パンプスを脱ぐのに、玄関で二分かかった。
帰宅後、近所の内科へ電話をして受診した。感染症の検査は陰性だった。医師は「疲労で抵抗力が落ちたのでしょう」と言い、三日分の薬を処方し、十分に眠るよう勧めた。
睡眠は処方箋どおりには手に入らなかった。目を閉じると、限定色の案内、配信時刻、未返信のメールが順番に浮かんだ。私は夜中に二度、社内チャットを開いた。
二度目には、佐藤さんからメッセージが入っていた。
『明日の確認項目、共有フォルダにまとめました。返信不要です』
返信不要、と書かれているのに、私は『お願いします』と打ち、消した。任せることと、見捨てることの区別がつかなくなっていた。
翌朝。キャンペーン開始時刻の午前十時。
全身の倦怠感と戦いながら、震える手で社内チャットを開くと、そこには報告が飛び交っていた。
〈インフルエンサーの投稿、すべて確認しました。初速のリーチ数は過去最高です!〉
〈佐久間部長、佐藤さん、フォローありがとうございました。完璧なスタートです〉
佐藤さんからは、個別にメッセージが届いていた。
『長谷川さんが準備してくれた資料、すごく分かりやすかったです。おかげで私でもスムーズに代行できました。ゆっくり休んでくださいね』
私は画面を消し、布団を頭までかぶった。
涙は出なかった。ただ、胸の真ん中に穴が開いて、そこを空虚な風が通り抜けていくような感覚だけがあった。
布団の中で、私は自分が何に傷ついているのかを整理しようとした。
佐藤さんに嫉妬しているのではない。彼女は誠実に、私の残した手順どおりに仕事をしただけだ。佐久間を恨んでいるのでもない。彼は組織として正しい判断をしただけだ。
誰も間違っていない。誰も悪くない。それなのに、私だけがここで、天井のシミを数えている。
悪人が誰もいない場所で不幸になるのは、たぶん、一番出口の見えにくい不幸だった。
三週間、心血を注いだ仕事。私がいなければ成立しないと、どこかで信じたかったプロジェクト。
実際には、私が熱を出して倒れた翌日、別の誰かがボタンを押し、何事もなかったように、しかも「完璧」に遂行された。
夕方、少し熱が下がった私は、部屋着の上にカーディガンを羽織り、近くの公園まで歩いた。
遊具もない、住宅街の隙間のような小さな公園だ。ベンチに座って、沈んでいく夕日を眺める。
家路を急ぐ会社員や、スーパーの袋を提げた女性が、私の前を通り過ぎていく。誰も、私が今日一日寝込んでいたことも、職場で自分が「不要」であることを突きつけられたことも知らない。知る必要もない。
足元を見ると、履き潰したスニーカーのつま先が、砂で白く汚れていた。この靴で会社に行ったことは、一度もない。
スマートフォンを開き、いつものアカウントを覗いてみる。
地方でパンを焼く女性、農業に精を出す同世代。
「あなたの焼いたパンが食べたい」
「あなたが育てた野菜だから買いたい」
そんなふうに、「個」として求められる場所が、あの山々の向こうにはあるのだろうか。
それとも、それは私の勝手な幻想なのだろうか。
夜の風が、火照った頬に冷たく当たった。
私は自分の手のひらを見つめた。爪の脇にささくれができている。この手で、私は今まで何を掴んできたのだろう。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。母からのLINEだった。
『体調どう? 無理しないでね』
昨日、真紀に既読だけつけて返さなかったから、真紀が母に何か言ったのかもしれない。私は初めて、その日のうちに返信を打った。
『大丈夫。ちょっと熱出しただけ』
嘘ではない。ただ、本当のことでもなかった。
「……私の居場所は、ここじゃないのかもしれない」
初めて、その予感が確信に近い重さを持って、心の底に着地した。
まだ答えは見えない。けれど明日、会社へ行くときの感覚が、昨日までとは違うものになることだけは分かっていた。
空には、都会の光に掻き消されそうな、頼りない月が浮かんでいた。
私は、自分の名前が印字された社員証をポケットの奥にしまい、一歩、重い足を踏み出した。
熱が下がり、三日ぶりに出社した朝、私の椅子は前と同じ位置にあった。机上の書類も、マグカップも、触れられていないように見えた。
けれど共有フォルダを開くと、キャンペーンの運用記録には佐藤さんの名前で新しいシートが増えていた。投稿時刻、初速、問い合わせ、対応内容。私が用意した書式より簡潔で、必要な情報へすぐたどり着ける。
「このシート、見やすいね」
私が言うと、佐藤さんは立ち上がりかけた。
「勝手に変えてすみません。緊急のとき、項目が多いと入力が追いつかなくて」
「謝らなくていい。次からこれを使おう」
口ではそう言いながら、自分の書式が更新されたことに、小さな痛みが走った。改善を歓迎することと、自分のやり方が古くなったと認めることは、同じ動作ではなかった。
午後の振り返り会議で、佐久間は目標達成率を読み上げた。役員から届いた礼のメールも紹介された。私が休んだことには触れず、佐藤さんの名前にも触れなかった。
「今回の成功要因は、事前準備と当日の柔軟な対応だ。次回もこの水準で頼む」
成功要因という言葉の中へ、人の名前が溶けていく。
会議後、私は議事録の担当者欄に、自分と佐藤さんの名前を並べて入力した。誰かに評価してもらうためというより、起きたことを起きたとおり残したかった。
その夜、母へ電話をした。体調を崩したことは伏せたまま、「最近、ちょっと疲れてる」とだけ言った。
母は「帰ってくれば」とは言わなかった。
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
レンジの中に残したままの総菜を思い出した。
「夏になったら、三日でもいいから帰っておいで。何か決めるためじゃなくて、寝に来ればいいから」
私は返事をせず、冷蔵庫の扉に額を当てた。何かを決めなければ帰れないと思っていたのは、私だけだったのかもしれない。
翌週、出社すると、私の机の端に一枚の付箋があった。佐藤さんの字で、『先に整えてくださったから、迷わず動けました』と書かれていた。
私はその紙を手帳へ挟んだ。会社の記録には残らない一行だったが、消してしまう気にはなれなかった。




