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第一章第一行
一八八七年、明治二十年、神初瀬川の川霧がまだ冬を名残らせていた夜明け前のことである。
栃木県神初瀬村――山あいのその集落のはずれに、黒塀をめぐらしたひと際大きな屋敷があった。瓦には露が凍りつき、軒先から垂れた氷柱が月光を返して青白く光っていた。屋敷の内には、緊張と祈りの気配が張りつめている。産声を待つ女たちが、囲炉裏の火を囲んで口を噤んでいた。
「野十兵衛さま、男の子でございます」
その声が広間に響いた瞬間、当主・天城野十兵衛は短く息を吐いた。深山の令嬢である妻・不恵の産室の障子がわずかに開き、産婆の手に包まれた赤子が、ひときわ澄んだ泣き声をあげていた。その泣き声は、どこか金属を打つように張りがあり、誰もが一瞬、息を呑んだという。
「逞しく、そして穆やかに育てよ――」
野十兵衛は、煤けた天井を見上げながらそう言い、静かに名を授けた。
天城逞穆――。
その名が記された時、屋敷の外では夜明けの風が走り抜け、神初瀬川の氷がぱきりと音を立てて割れた。
村人はのちに語る。あの朝、東の空に龍雲が立ち昇ったと。
それが、のちに世界の覇権を掴む男の最初の兆しであった。




