第1話 「夜籠の祭夜」
桜の散る音と、銀絃のひと震えと――千弦の十七の祭夜は、その二つの音のあいだで、ひとつ、揺らいだ。
◆
絃が、止まる。
千弦の指は、まだ膝の上の銀絃に触れていた。触れたまま、止まっている。胸の奥で、いつもならすぐに次の節を呼び寄せてくるはずの呼吸が、ひとつ、降りてこない。
拝殿の奥で、誰かが、息を呑んだ。
舞の最中であった。緋袴の裾が、踏み出した片足とともに、なお半ばで止まっている。白小袖の袂が、振り上げられた腕の弧の途中で空を抱いたまま、ぴたりと留まっていた。檜の床板を、絹の足袋の裏がごく薄く押している。その圧の感触だけが、千弦の身体のなかでまだ確かであった。
絃姫音の、最後から二つめの節――三度繰り返したあと、一度だけ高く上げて、低く戻すべき節――その「戻り」が、降りてこない。
降りてこないというのは、千弦の身体のなかでの感覚であった。指は弦の上にある。撥もまだ握っている。耳は拝殿の闇の奥まで澄ませている。けれども、星のほうから、音の側から、こちらへ向けて手を差し伸べてくる気配が、ふっと、途切れた。
それは初めての経験ではない。
ただ――三度目では、ない。
二度目までは、稽古のなかで、ほんの掠りに、あった。雛継老が「初手の癖だな」と笑って取り合わなかった、ささやかな遅れであった。
今宵は、違う。
今宵、十七の祭夜の、その大事な節で、絃姫の声が、千弦の指のすぐ向こうで、首をかしげている。
◆
拝殿の左右には、灯明が二十、灯っていた。
ひとつひとつの炎の頭が、わずかに揺れている。揺れたのは、たったいま千弦の節がひとつ抜けたからだ、と千弦は感じる。錯覚かもしれない。けれども、灯明の影が壁に映す揺らぎが、いつもよりほんの薄く、遅れている。
正面、上座に坐す父・真澄の影が、灯明のひとつぶんだけ、長い。
父は、何も言わない。
父は、千弦が産まれたときから、語らぬ男だ。今宵もまた語らぬであろう、ということは、千弦には子のころから分かっている。父の沈黙が、いま、拝殿の床板に深くひと色塗り重ねられているのを、千弦は背中で受けとめる。
右脇に控える師父・影鶴は、古笛を膝に乗せたまま、目を閉じている。
閉じた瞼の奥で、影鶴は何を聴いているのか――それを、千弦は、まだ知らぬ。
しかし、影鶴の薄い唇の端が、ほんのわずかに、上がった。
笑った、のではない。
「来たな」と、ただ受けとめた、その口許の動きであった。
◆
舞は、続けねばならぬ。
千弦は、止めた呼吸をひと撫でして、ふたたび降ろした。
胸の底のあたりに、夜籠の宮の古い土の冷えがある。その冷えに息をひとつ預け、預けた息に、絃姫音の最後から二つめの節を、もう一度、口の奥で唱える。
絃に、撥が落ちる。
ひと音。
それは、稽古で千度も繰り返してきた、いつもの絃姫音の、いつもの音であった。
つもりであった。
しかし、出てきたそのひと音は――千弦の耳が、まだ聴いたことのない音であった。
低い。
低くて、どこか、湿っている。
絃の鳴る音は、本来、銀の冷たさを帯びる。月光のような透明な硬さがある。今宵のひと音は、そのはずの透明さに、ほんのうっすらと、霧のような翳りが、混ざっていた。
その霧が、何であるのか――千弦には、分からぬ。
ただ、霧の向こうから、もうひとつ、別の声が、こちらへ向けて、ひとつ頷いた気配があった。
千弦の左の手首の内側――生まれたときから、白磁の肌の下に薄く滲んでいる桜花のかたちの印が、絹の袖の下で、ほんの一拍、温まる。
舞は、止めぬ。
千弦は止めぬ。指は次の節へ進む。袂は次の弧を描く。緋袴は次の一歩を踏み出す。けれども、その身体の動きの、ひと節分だけ後ろに――いま、もうひとつの何かが影のようについてきている、そういう感触があった。
◆
舞い終えて、最後の節を絃から指で離した瞬間、拝殿の灯明は、いっせいに、わずかに、ひと撫で揺れた。
風が入ったわけではない。
どの灯明の油皿も、波立ってはいない。揺れたのは、炎の頭のみであった。
父は動かない。
影鶴は、ようやく目を開け、千弦のほうを、ながく見た。
その視線の、ながさ、深さ。
千弦は伏したまま、額を床板にあずけ、自分の呼吸が拝殿の床のうえに薄く湿った輪を作るのを聴いている。汗が首筋の絹の襟を、ひと筋伝った。
「お納め」
雛継老の声が、上のほうから降ってきた。
声は、いつもどおりの平らさであった。
千弦は、いつもどおりの礼で、銀絃を膝の前に据え、撥を絃の上にそっと戻し、両手を畳のうえで重ねる。動作のひとつひとつが、稽古のとおり、滑らかに繋がってゆく。
繋がってはいる。
しかし、繋がっている表面のすぐ下で、千弦は自分の身体のなかにまだ残る、あの「霧の音」の余韻を、確かに聴いていた。
◆
宮司の控えの間で、千弦は装束のまま、ひとりにされた。
板戸の向こうで、父と長老衆と影鶴が、低い声で何かを話している。声の数だけで、五人と六人の境を行きつ戻りつしている。
ひとつだけ、はっきり聞き取れた言葉があった。
「やはり、揺らいだか」
雛継老の声であった。
その先は、また低い相槌の交錯のなかへ沈んでいった。
千弦は、装束の襟を、ほんの少しだけ、指先で正した。直す必要のないところを直した。直しているあいだだけ、自分の指の先がまだ自分のものだという確かさが、戻ってくる。
板戸が、ひと撫で、開いた。
入ってきたのは、影鶴であった。
◆
影鶴は、控えの間の隅、千弦の正面ではなく、少し斜めの位置に、膝をついた。
正面に来ない、というそのこと自体が、影鶴の、千弦への礼であった。
「指は、まだ、震えておるか」
千弦は、自分の指を、はじめて見た。
震えてはいない。震えているのは、指ではなく、もっと内側――胸のどこか、あばらの裏のほうだ、ということに、見てはじめて気づく。
「いえ。指は」
「ならば、よい」
影鶴は、それ以上の問いを重ねなかった。
しばらくのあいだ、二人のあいだに、灯明の油の弾ける、ごくささやかな音だけがあった。
千弦は、待った。
影鶴が「よい」と言ったあとに、必ず、もうひとこと、来る。それを、千弦は十年の弟子の年月で、知っている。
「お前の絃姫は、今宵、もうひとつの音と、頷き合ったな」
影鶴の声は、低かった。
低くて――しかし、その低さは、千弦を責めるための低さではなかった。床下の、古い水脈に手を当てるときの、ああいう低さだ、と千弦は感じる。
「もうひとつの、音」
千弦は、影鶴の言葉を、ほとんど無意識に、自分の口でなぞっていた。
「うむ」
「それは、どの星の」
「それを、お前に答えてやれぬのが、わしの口惜しさだ」
影鶴の薄い唇が、ようやく笑むかたちになった。
笑むかたちでありながら、その目の奥は、まったく笑んでいなかった。
◆
「もう、降りてこぬ星が、いくつもある」
影鶴は、視線を、灯明のほうへ、ゆっくりと移した。
「八十八の星のうち、人の代でいま降りているのは、八十一。残り七つは、もはや地の継ぎ手を持たぬ。沈みきって、声も寄越さぬ」
千弦は、それを知っている。
幼い時分、雛継老の膝の上で、何度も聞かされた話であった。
「だが、沈みきった星のなかにも、まだ、ひと寝入りしているだけの星が、ある」
これは、知らない話であった。
千弦は、自分の喉が、ほんのわずかに乾くのを聴いた。
「ひと寝入り、ですか」
「うむ。眠りの底で、まだ夢を見ておる星が、ある」
「その、夢が」
「お前の絃姫の、今宵のひと節に、ひと撫で頷いたのだ」
千弦の左の手首が、また、薄く温まる。
絹の袖の下で、桜花のかたちの印が、いまの影鶴の言葉に応えるように染み出してきている――ような気がする。
「私は」
声が、出にくかった。
「私は、その、眠っている星と、繋がっているのですか」
影鶴は、答えなかった。
ただ、ながく、千弦の左の手首のあたりに視線をやり、それから、ふいに視線をそらして、灯明の炎へと戻した。
「お前を、月港まで、わしと一緒に、行かせたい」
言葉は、唐突であった。
唐突でありながら、千弦の身体のなかには、すでに、それを受け入れる場所が、ぽつりと、用意されているような感じがあった。
「月港、ですか」
「月港の、奥に、わしの旧い知り合いが、ひとり、おる」
「その方が」
「お前の今宵のひと節を、聴いてくださる方だ」
◆
板戸の外で、ふた撫で、低い咳。
雛継老が、控えの間の前を、ゆっくりと過ぎてゆく音であった。
影鶴は、咳の音を聴いている。
聴き終えてから、千弦のほうへ、ようやく、まっすぐに向きを変えた。
「祭夜は、終わった」
「はい」
「今宵から、お前は、夜籠の千弦であって、夜籠の千弦のままでは、おられぬ」
その意味は、千弦には、まだ半分しか分からない。
しかし、半分が分からぬということそのものが、いま、自分の身体のなかでたしかに息をひきはじめている――そのことだけは、千弦には、はっきりと分かった。
影鶴は、立ち上がった。
立ち上がるときの衣擦れの音が、八十路の身体には、いつもより、わずかに固かった。その固さに、千弦は、ふと、影鶴の右手の甲のあたりへ、目を遣ってしまう。
そこには、いつもの、鵠のかたちをした古い火傷の痕が、灯明の橙のなかで、薄く浮かんでいた。
◆
控えの間の障子を、ひと開け。
夜気が、入ってくる。
春の終わりの夜気は、まだ肌寒く、しかし冬の刃のような硬さは、もう、ない。庭の桜が、最後の花弁を、夜のなかへ、ひとつずつ降ろしている。
千弦は、ひとり、障子の前に立った。
装束の白小袖の袖の、わずかな絹擦れ。
緋袴の重み。
頭の鶴の冠の、銀の留め金が、ひと冷え。
そのすべてが、いつもどおりの十七の祭夜の身仕舞いであった。
しかし、左の手首の桜花のかたちの印だけが――今宵、はじめて、自分のものではない、誰か別の人の指先が、内側からひと撫でしてくる、ような感触を、宿していた。
千弦は、印のうえに、もう片方の手のひらをそっと重ねる。
重ねた手のひらの下から、応えはなかった。
応えはなかったが、応えがなかったということ自体が、いまの千弦には、もう、ひとつの応えとして聴こえる。
◆
庭の桜が、ひと花、肩のあたりに降ってきた。
落ちる音は、しなかった。
しかし千弦は、その薄紅のひと枚の、絹の上に降りた瞬間を、たしかに、耳のずっと奥で聴いた。
聴いたあとで、肩を撫でて、花弁を指の先で受け取る。
花弁の縁は、夜のなかで、まだ、わずかに温い。
枝のうえから、つい先ほどまで母樹の脈に繋がっていた温さが、こうして千弦の指の先まで、ひと撫で、降りてきている。
その温さに――千弦は、なぜか、自分の母の名を思い出した。
ひと度しか会ったことのない、写し絵のなかの、桜緒という名であった。
◆
控えの間の奥で、灯明のひとつが、油の終わりに、ぱちりと爆ぜた。
千弦は、振り返らない。
振り返らず、障子の縁に手をかけ、ゆっくりと、ひと閉て、夜気を切り離した。
切り離された夜気のなかで、桜のひと枚はもう肩から離れて、足元の床板のうえで、薄紅の影をひと拍、宿していた。
千弦の十七の祭夜は、こうして、終わった。
終わった、と言うべきかどうか。
舞は終わった。礼は終わった。父も長老も、それぞれの居間へと退いてゆく気配が、母屋のほうから、低く流れてくる。
しかし、千弦の身体の内側で、ひとつ、新しく目を開けたものが、ある。
それは、まだ、名を持たぬ。
名を持たぬまま、千弦の左の手首の桜花の印の、その薄い紅のなかに、ひと夜のあいだ、息をひそめている。
千弦は、装束の袖の上から、その印を、もう一度、そっと押さえた。
押さえた指の下で、印は、応えない。
応えないままで――けれども、たしかに、そこに、いる。
夜籠の宮の春の終わりの夜は、まだ、深い。
桜は、なお、降っている。




