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最後の星巫女ですが、失われた星音を復活させます  作者: 如月 慶
第1部 1章:運命の幕開け

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第1話 「夜籠の祭夜」

 桜の散る音と、銀絃(ぎんげん)のひと震えと――千弦(ちづる)の十七の祭夜は、その二つの音のあいだで、ひとつ、揺らいだ。



 (いと)が、止まる。


 千弦(ちづる)の指は、まだ膝の上の銀絃(ぎんげん)に触れていた。触れたまま、止まっている。胸の奥で、いつもならすぐに次の節を呼び寄せてくるはずの呼吸が、ひとつ、降りてこない。


 拝殿(はいでん)の奥で、誰かが、息を呑んだ。


 舞の最中であった。緋袴(ひばかま)の裾が、踏み出した片足とともに、なお半ばで止まっている。白小袖(しろこそで)(たもと)が、振り上げられた腕の弧の途中で空を抱いたまま、ぴたりと留まっていた。檜の床板を、絹の足袋(たび)の裏がごく薄く押している。その圧の感触だけが、千弦(ちづる)の身体のなかでまだ確かであった。


 絃姫音(いとひめおん)の、最後から二つめの節――三度繰り返したあと、一度だけ高く上げて、低く戻すべき節――その「戻り」が、降りてこない。


 降りてこないというのは、千弦(ちづる)の身体のなかでの感覚であった。指は弦の上にある。(ばち)もまだ握っている。耳は拝殿(はいでん)の闇の奥まで澄ませている。けれども、星のほうから、音の側から、こちらへ向けて手を差し伸べてくる気配が、ふっと、途切れた。


 それは初めての経験ではない。


 ただ――三度目では、ない。


 二度目までは、稽古のなかで、ほんの掠りに、あった。雛継老(ひなつぎろう)が「初手の癖だな」と笑って取り合わなかった、ささやかな遅れであった。


 今宵は、違う。


 今宵、十七の祭夜の、その大事な節で、絃姫(いとひめ)の声が、千弦(ちづる)の指のすぐ向こうで、首をかしげている。



 拝殿(はいでん)の左右には、灯明(とうみょう)が二十、灯っていた。


 ひとつひとつの炎の頭が、わずかに揺れている。揺れたのは、たったいま千弦(ちづる)の節がひとつ抜けたからだ、と千弦(ちづる)は感じる。錯覚かもしれない。けれども、灯明(とうみょう)の影が壁に映す揺らぎが、いつもよりほんの薄く、遅れている。


 正面、上座に坐す父・真澄(ますみ)の影が、灯明(とうみょう)のひとつぶんだけ、長い。


 父は、何も言わない。


 父は、千弦(ちづる)が産まれたときから、語らぬ男だ。今宵もまた語らぬであろう、ということは、千弦(ちづる)には子のころから分かっている。父の沈黙が、いま、拝殿(はいでん)の床板に深くひと色塗り重ねられているのを、千弦(ちづる)は背中で受けとめる。


 右脇に控える師父・影鶴(カゲヅル)は、古笛(こぶえ)を膝に乗せたまま、目を閉じている。


 閉じた瞼の奥で、影鶴(カゲヅル)は何を聴いているのか――それを、千弦(ちづる)は、まだ知らぬ。


 しかし、影鶴(カゲヅル)の薄い唇の端が、ほんのわずかに、上がった。


 笑った、のではない。


「来たな」と、ただ受けとめた、その口許の動きであった。



 舞は、続けねばならぬ。


 千弦(ちづる)は、止めた呼吸をひと撫でして、ふたたび降ろした。


 胸の底のあたりに、夜籠(よごもり)の宮の古い土の冷えがある。その冷えに息をひとつ預け、預けた息に、絃姫音(いとひめおん)の最後から二つめの節を、もう一度、口の奥で唱える。


 絃に、(ばち)が落ちる。


 ひと音。


 それは、稽古で千度も繰り返してきた、いつもの絃姫音(いとひめおん)の、いつもの音であった。


 つもりであった。


 しかし、出てきたそのひと音は――千弦(ちづる)の耳が、まだ聴いたことのない音であった。


 低い。


 低くて、どこか、湿っている。


 絃の鳴る音は、本来、銀の冷たさを帯びる。月光のような透明な硬さがある。今宵のひと音は、そのはずの透明さに、ほんのうっすらと、霧のような翳りが、混ざっていた。


 その霧が、何であるのか――千弦(ちづる)には、分からぬ。


 ただ、霧の向こうから、もうひとつ、別の声が、こちらへ向けて、ひとつ頷いた気配があった。


 千弦(ちづる)の左の手首の内側――生まれたときから、白磁の肌の下に薄く滲んでいる桜花のかたちの印が、絹の袖の下で、ほんの一拍、温まる。


 舞は、止めぬ。


 千弦(ちづる)は止めぬ。指は次の節へ進む。(たもと)は次の弧を描く。緋袴(ひばかま)は次の一歩を踏み出す。けれども、その身体の動きの、ひと節分だけ後ろに――いま、もうひとつの何かが影のようについてきている、そういう感触があった。



 舞い終えて、最後の節を絃から指で離した瞬間、拝殿(はいでん)灯明(とうみょう)は、いっせいに、わずかに、ひと撫で揺れた。


 風が入ったわけではない。


 どの灯明の油皿も、波立ってはいない。揺れたのは、炎の頭のみであった。


 父は動かない。


 影鶴(カゲヅル)は、ようやく目を開け、千弦(ちづる)のほうを、ながく見た。


 その視線の、ながさ、深さ。


 千弦(ちづる)は伏したまま、額を床板にあずけ、自分の呼吸が拝殿(はいでん)の床のうえに薄く湿った輪を作るのを聴いている。汗が首筋の絹の襟を、ひと筋伝った。


「お納め」


 雛継老(ひなつぎろう)の声が、上のほうから降ってきた。


 声は、いつもどおりの平らさであった。


 千弦(ちづる)は、いつもどおりの礼で、銀絃(ぎんげん)を膝の前に据え、(ばち)を絃の上にそっと戻し、両手を畳のうえで重ねる。動作のひとつひとつが、稽古のとおり、滑らかに繋がってゆく。


 繋がってはいる。


 しかし、繋がっている表面のすぐ下で、千弦(ちづる)は自分の身体のなかにまだ残る、あの「霧の音」の余韻を、確かに聴いていた。



 宮司の控えの間で、千弦(ちづる)は装束のまま、ひとりにされた。


 板戸(いたど)の向こうで、父と長老衆(ちょうろうしゅう)影鶴(カゲヅル)が、低い声で何かを話している。声の数だけで、五人と六人の境を行きつ戻りつしている。


 ひとつだけ、はっきり聞き取れた言葉があった。


「やはり、揺らいだか」


 雛継老(ひなつぎろう)の声であった。


 その先は、また低い相槌の交錯のなかへ沈んでいった。


 千弦(ちづる)は、装束の襟を、ほんの少しだけ、指先で正した。直す必要のないところを直した。直しているあいだだけ、自分の指の先がまだ自分のものだという確かさが、戻ってくる。


 板戸(いたど)が、ひと撫で、開いた。


 入ってきたのは、影鶴(カゲヅル)であった。



 影鶴(カゲヅル)は、控えの間の隅、千弦(ちづる)の正面ではなく、少し斜めの位置に、膝をついた。


 正面に来ない、というそのこと自体が、影鶴(カゲヅル)の、千弦(ちづる)への礼であった。


「指は、まだ、震えておるか」


 千弦(ちづる)は、自分の指を、はじめて見た。


 震えてはいない。震えているのは、指ではなく、もっと内側――胸のどこか、あばらの裏のほうだ、ということに、見てはじめて気づく。


「いえ。指は」


「ならば、よい」


 影鶴(カゲヅル)は、それ以上の問いを重ねなかった。


 しばらくのあいだ、二人のあいだに、灯明(とうみょう)の油の弾ける、ごくささやかな音だけがあった。


 千弦(ちづる)は、待った。


 影鶴(カゲヅル)が「よい」と言ったあとに、必ず、もうひとこと、来る。それを、千弦(ちづる)は十年の弟子の年月で、知っている。


「お前の絃姫(いとひめ)は、今宵、もうひとつの音と、頷き合ったな」


 影鶴(カゲヅル)の声は、低かった。


 低くて――しかし、その低さは、千弦(ちづる)を責めるための低さではなかった。床下の、古い水脈に手を当てるときの、ああいう低さだ、と千弦(ちづる)は感じる。


「もうひとつの、音」


 千弦(ちづる)は、影鶴(カゲヅル)の言葉を、ほとんど無意識に、自分の口でなぞっていた。


「うむ」


「それは、どの星の」


「それを、お前に答えてやれぬのが、わしの口惜しさだ」


 影鶴(カゲヅル)の薄い唇が、ようやく笑むかたちになった。


 笑むかたちでありながら、その目の奥は、まったく笑んでいなかった。



「もう、降りてこぬ星が、いくつもある」


 影鶴(カゲヅル)は、視線を、灯明(とうみょう)のほうへ、ゆっくりと移した。


「八十八の星のうち、人の代でいま降りているのは、八十一。残り七つは、もはや地の継ぎ手を持たぬ。沈みきって、声も寄越さぬ」


 千弦(ちづる)は、それを知っている。


 幼い時分、雛継老(ひなつぎろう)の膝の上で、何度も聞かされた話であった。


「だが、沈みきった星のなかにも、まだ、ひと寝入りしているだけの星が、ある」


 これは、知らない話であった。


 千弦(ちづる)は、自分の喉が、ほんのわずかに乾くのを聴いた。


「ひと寝入り、ですか」


「うむ。眠りの底で、まだ夢を見ておる星が、ある」


「その、夢が」


「お前の絃姫(いとひめ)の、今宵のひと節に、ひと撫で頷いたのだ」


 千弦(ちづる)の左の手首が、また、薄く温まる。


 絹の袖の下で、桜花のかたちの印が、いまの影鶴(カゲヅル)の言葉に応えるように染み出してきている――ような気がする。


「私は」


 声が、出にくかった。


「私は、その、眠っている星と、繋がっているのですか」


 影鶴(カゲヅル)は、答えなかった。


 ただ、ながく、千弦(ちづる)の左の手首のあたりに視線をやり、それから、ふいに視線をそらして、灯明(とうみょう)の炎へと戻した。


「お前を、月港(げっこう)まで、わしと一緒に、行かせたい」


 言葉は、唐突であった。


 唐突でありながら、千弦(ちづる)の身体のなかには、すでに、それを受け入れる場所が、ぽつりと、用意されているような感じがあった。


月港(げっこう)、ですか」


月港(げっこう)の、奥に、わしの旧い知り合いが、ひとり、おる」


「その方が」


「お前の今宵のひと節を、聴いてくださる方だ」



 板戸(いたど)の外で、ふた撫で、低い咳。


 雛継老(ひなつぎろう)が、控えの間の前を、ゆっくりと過ぎてゆく音であった。


 影鶴(カゲヅル)は、咳の音を聴いている。


 聴き終えてから、千弦(ちづる)のほうへ、ようやく、まっすぐに向きを変えた。


「祭夜は、終わった」


「はい」


「今宵から、お前は、夜籠(よごもり)千弦(ちづる)であって、夜籠(よごもり)千弦(ちづる)のままでは、おられぬ」


 その意味は、千弦(ちづる)には、まだ半分しか分からない。


 しかし、半分が分からぬということそのものが、いま、自分の身体のなかでたしかに息をひきはじめている――そのことだけは、千弦(ちづる)には、はっきりと分かった。


 影鶴(カゲヅル)は、立ち上がった。


 立ち上がるときの衣擦れの音が、八十路の身体には、いつもより、わずかに固かった。その固さに、千弦(ちづる)は、ふと、影鶴(カゲヅル)の右手の甲のあたりへ、目を遣ってしまう。


 そこには、いつもの、(くぐい)のかたちをした古い火傷の痕が、灯明(とうみょう)の橙のなかで、薄く浮かんでいた。



 控えの間の障子を、ひと開け。


 夜気が、入ってくる。


 春の終わりの夜気は、まだ肌寒く、しかし冬の刃のような硬さは、もう、ない。庭の桜が、最後の花弁を、夜のなかへ、ひとつずつ降ろしている。


 千弦(ちづる)は、ひとり、障子の前に立った。


 装束の白小袖(しろこそで)の袖の、わずかな絹擦れ。


 緋袴(ひばかま)の重み。


 頭の鶴の冠の、銀の留め金が、ひと冷え。


 そのすべてが、いつもどおりの十七の祭夜の身仕舞いであった。


 しかし、左の手首の桜花のかたちの印だけが――今宵、はじめて、自分のものではない、誰か別の人の指先が、内側からひと撫でしてくる、ような感触を、宿していた。


 千弦(ちづる)は、印のうえに、もう片方の手のひらをそっと重ねる。


 重ねた手のひらの下から、応えはなかった。


 応えはなかったが、応えがなかったということ自体が、いまの千弦(ちづる)には、もう、ひとつの応えとして聴こえる。



 庭の桜が、ひと花、肩のあたりに降ってきた。


 落ちる音は、しなかった。


 しかし千弦(ちづる)は、その薄紅のひと枚の、絹の上に降りた瞬間を、たしかに、耳のずっと奥で聴いた。


 聴いたあとで、肩を撫でて、花弁を指の先で受け取る。


 花弁の縁は、夜のなかで、まだ、わずかに温い。


 枝のうえから、つい先ほどまで母樹(ぼじゅ)の脈に繋がっていた温さが、こうして千弦(ちづる)の指の先まで、ひと撫で、降りてきている。


 その温さに――千弦(ちづる)は、なぜか、自分の母の名を思い出した。


 ひと度しか会ったことのない、写し絵のなかの、桜緒(さくらお)という名であった。



 控えの間の奥で、灯明(とうみょう)のひとつが、油の終わりに、ぱちりと爆ぜた。


 千弦(ちづる)は、振り返らない。


 振り返らず、障子の縁に手をかけ、ゆっくりと、ひと閉て、夜気を切り離した。


 切り離された夜気のなかで、桜のひと枚はもう肩から離れて、足元の床板のうえで、薄紅の影をひと拍、宿していた。


 千弦(ちづる)の十七の祭夜は、こうして、終わった。


 終わった、と言うべきかどうか。


 舞は終わった。礼は終わった。父も長老も、それぞれの居間へと退いてゆく気配が、母屋のほうから、低く流れてくる。


 しかし、千弦(ちづる)の身体の内側で、ひとつ、新しく目を開けたものが、ある。


 それは、まだ、名を持たぬ。


 名を持たぬまま、千弦(ちづる)の左の手首の桜花の印の、その薄い紅のなかに、ひと夜のあいだ、息をひそめている。


 千弦(ちづる)は、装束の袖の上から、その印を、もう一度、そっと押さえた。


 押さえた指の下で、印は、応えない。


 応えないままで――けれども、たしかに、そこに、いる。


 夜籠(よごもり)の宮の春の終わりの夜は、まだ、深い。


 桜は、なお、降っている。

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