第2話 「父との朝餉」
父は語らぬ男である。語らぬまま、その朝、はじめて、娘を名で呼んだ。
釜の湯が、もう、冷めている。
夜籠千弦の指が、それをたしかめる。指の腹に伝わってくる温は、人の体温よりほんの少しだけ高く、それから、すっと、こちらの手のひらに吸い取られて消えた。湯気は釜の口を半分ほど撫でて、あとは、朝の障子の光のなかへほどけていた。
父・夜籠真澄が、台所の奥で、塩を量っている。その背中の張り。
藍鼠の作務衣の肩のあたりが、こちらに対してわずかにこわばっている。腕の動きそのものは、いつもの真澄のそれであった。木の塩匙を、塩壺のなかへ静かに沈めて、ひと掬い、ふた掬い。掬うたびに、塩の白が、白木の俎板のうえに、薄くひと撫で落ちる。
千弦は、襷を握り直した。
握り直してから、ふと、自分の指が、ほんのわずかにためらっているのに気がついた。
◆
台所の板間は、まだ、夜籠の宮の春の終わりの夜気を引きずっている。
竈の前の煤の壁が、朝の障子越しの光に、ぼうっと輪郭を浮かべている。竈の口からは、もうひと炎、生きた火が、ささやかに揺れていた。鯵が、串に刺さって、そのささやかな火の脇に、二尾、寝かせてある。皮目に塩がふたつまみ置かれている。
味噌の甕の蓋が、半分、外されている。
その脇に、青菜が、洗われたばかりの水滴をまだまとっている。
朝餉の支度の、ほとんどが、すでに終わっていた。
千弦が起きてくるよりも、ずっと早くに。
「お父さま」
千弦の声は、いつもの、控えめな、薄い灯明の芯のような声であった。
真澄は、振り返らない。
塩匙を、もうひと掬い、塩壺のなかへ沈める。沈めてから、ようやくひと拍を置いて、首だけを、ほんのわずかにこちらへ傾けた。傾けたが、目までは寄こさない。
「いい」
そのひと言だけが、台所の板間の冷えのうえに、ぽとり、と落ちた。
「お手伝いを」
「いい」
二度目の「いい」のほうが、いくらか低かった。
千弦は、襷をほどく。
ほどくときの絹糸の擦れる小さな音が、自分の耳の内側だけで、いつもよりながく聞こえた。
◆
居間の卓は、漆塗りの古いものであった。
漆の表面に、千弦のころから知っている小さな疵が、四つほどある。そのひとつは、千弦が五つの年の春に、櫛の角をぶつけて作ってしまった疵であった。父も母も、それを叱らなかった、ということだけを、千弦はおぼえている。
膳が、ふたつ、置かれた。
向かい合わせ、ではない。
斜め、でもない。
父の膳と、千弦の膳と、ちょうど卓の対角の角に、それぞれ、ひとつずつ。十七年、この家で、二人だけで朝餉を取るときの、いつもの置きかたであった。
鯵の塩焼きが、皿のうえで、ほんのわずかに、まだ息をしている。
ひと息に焼き上げられた皮目の、銀の鱗の縁が、橙の焼け色のなかで、灯明のようにところどころ揺れて見える。青菜は、湯がいた青がまだ濃いまま、白い小鉢のうえに寄せられている。味噌汁は、温まり直して、湯気をまっすぐに立てている。白米は、釜の底のあたりからよそわれたらしく、ひと粒ひと粒の艶が丁寧であった。
父・真澄は、膳の前に座した。
座してから、箸を、まだ取らない。
ふと、窓の外を見た。
窓の外には、宮の庭の桜の枝が、ひと枝、半分だけ見えている。昨夜まで散っていた花弁の、ほとんどがもう枝には残らず、薄紅の影だけが、地のうえに、まだ、ぼんやりとひと撫で散らばっていた。
真澄の視線は、その薄紅のうえに、ひと拍、停まった。
ひと拍――ほんのひと呼吸の長さ。
しかし、その停まりの長さを、千弦の耳は、たしかに聴いた。
◆
「いただこう」
ようやく、父が、箸を取った。
「いただきます」
千弦も、箸を取る。
二人のあいだに、まず、味噌汁の椀の蓋を、それぞれ外す、その擦れの音が、ふた撫で続いた。
味噌の香が、立つ。
宮の味噌は、夜籠の家門が古くから自分のところで仕込むものであった。色がやや濃く、塩の角がほどよく丸まり、奥のほうに、ほんのり、白椿の蕾に似た青いような香りがある。千弦は、その香を、子のころから、迷わず「お父さまの味噌」と呼んでしまう。
味噌汁の最初のひと啜りで、台所の冷えと、昨夜の祭夜の余韻が、千弦の身体の奥のほうへ、ようやくひとつ、降りてゆく感触があった。
鯵の塩焼きの、皮目のいちばん厚いところに、箸を入れる。
ほろり、と、白い身がほどける。
身のなかの油が、ほんのひと滴、皿のうえに落ちて、それが、橙の焼け色のなかで、ひとつ、星のように瞬いた。
千弦は、ふと、左の手首の内側を、袖の下から感じてしまう。
桜花のかたちの印は、いまは、薄く眠っている。
眠っているが、まだ、消えてはいない。
それは、今朝、目覚めたときからずっと、千弦の身体の内側でうっすらと続いている、低い水音のような感覚であった。
◆
「千弦」
ふいに、父が名を呼んだ。
千弦の手の、箸が、ひと撫で、止まった。
父は、十七年のあいだ、千弦のことを「お前」と呼んできた。「お前、湯を運べ」「お前、灯明を換えよ」――そうやって、すべての朝と夜を、「お前」のひと言で名指してきた、その同じ口で、いま、はっきりと、千弦、と。
「は」
千弦は、自分の声が、わずかに上ずるのを聴いた。
父は、こちらを見ない。
味噌汁の椀の縁を、親指の腹で、ひと撫でしている。撫でながら、視線はまだ、窓のほうの、桜の薄紅の影のあたりに預けたままであった。
「昨夜、お前の母さまの夢を見た」
ことばは、ゆっくりと来た。
ゆっくりと、しかし、用意されていた、というふうではなかった。むしろ、いま、この朝餉の卓のうえで、はじめて、自分の口から出てくるのを、父自身も、わずかに戸惑っているような、そういう声であった。
「桜緒さまの」
千弦は、自分の口で、母の名をなぞる。
桜緒。
写し絵のなかに、ひと度だけ、見たことのある人の名。実物の母を、千弦は、自分の記憶のなかにはほとんど持たない。母が、千弦が乳離れする前に、世を辞してしまったからである。
「夢のなかで、桜緒さまは、お前の母さまは、組紐を結んでおられた」
「組紐、ですか」
「うむ。あれは、桜緒さまの母さまから、桜緒さまの手にわたってきた、南の手筋の結びだ」
千弦の手のなかの箸が、ふたたび、ひと撫で、止まった。
◆
南、というひと言を、父・真澄の口から聴いた、その一瞬。
千弦の身体のなかの、いつもの呼吸が、ひとつずれる。
南方の話を、父はしない。
それは、千弦が、子のころから自然と知っていたことであった。母の里のことを、母方の祖母のことを、父が自分から口にしたためしは、これまでなかった。雛継老が、ふと、桜緒の名を出すと、父は、聞こえぬふりで、ほかの話に折り曲げる――そういう人であった。
その人が、いま、自分から、「南の手筋の結び」と言った。
「桜緒さまは、わしに、その結びを、教えてくださった」
「お父さまに」
「うむ」
父は、ほんのわずかに、口許をゆるめる。
ゆるめる、というよりは、ほどけてしまった、というほうが近かった。年を経た布地の縫い目が、ある日、ひと撫でで、ふっとほどけてしまうように。
「わしの不器用な指で、何度も、何度も。桜緒さまは、ほんとうに、根気よくお笑いになってな」
ことばのあいだに、笑いは、ない。
しかし、笑いの輪郭のようなものが、父の声の底の、低いところで、わずかに、ふた撫で揺れた。
千弦は、その揺れを聴いた。
聴いて、何故か、自分の喉の奥のあたりが、ほんの一瞬、塩のような薄い辛さに満ちた。
「桜緒さまの母さまの、その向こうから、組紐は、ずっと、女の手の指から、女の手の指へと、伝わってきた、と」
「は」
「桜緒さまは、それを、わしにも、お前にも、いつかは教えたかったのだろう」
「お父さまにも」
「うむ」
父は、味噌汁の椀の縁を、もう一度、親指の腹で撫でた。
撫でて、それから、ようやく、椀の縁から指を離した。
◆
「お前の旅を、止める権利を、わしは持っておらん」
ことばは、つよくない。
つよくはないが、揺れもまたない。
それは、父が、昨夜の祭夜のあいだ、上座で坐したまま、ひと言も発さずに最後まで聴き終えた、その沈黙の、続きのことばであった。
「お父さま」
「影鶴さまが、月港まで、お前を連れてゆかれる。月港の、その先までは、わしには見えぬ」
「は」
「見えぬが」
父は、はじめて、こちらへ目を寄越した。
寄越して、しかし、すぐに、視線は、また、桜の薄紅のほうへ戻ってしまう。
「見えぬが、お前の行くべきところは、お前の母さまの、その向こうの、誰かのところだ。わしには、それだけが、わかる」
千弦の手のなかの、ほどけた鯵の白い身が、皿のうえで、ひとつ、冷たくなってゆく気配があった。
「お父さまは」
声が、出にくかった。
「お父さまは、私が、月港のその先へ、行くことを、お望みなのですか」
父は、答えない。
答えない、ということが、十七年のあいだ、父の答えかたの、ひとつの作法であった。望む、とも、望まぬ、とも、父は言わぬ。その代わりに、父は味噌汁をひと啜りした。啜って、椀を、丁寧に、膳のうえに戻した。
椀の底が、膳の漆に当たる音はささやかであった。
ささやかであったが、それは、いまの千弦の問いへの、父なりの答えであるように聴こえた。
◆
朝餉が、終わった。
「ごちそうさま」
千弦は、頭を下げる。
「うむ」
父も、ひと頷きで答える。
膳を片づける段になって、はじめて、父は、椀と皿とを、千弦のほうへ、すっと押し出した。押し出してから、無言で、自分の坐から立ち上がる。立ち上がるときの、藍鼠の作務衣の裾が、ふた撫で揺れた。
「あとは、頼む」
「は」
父は、台所のほうへは、もう入ってこない。
居間から廊下へ、廊下から奥の間へと、足音は、ゆっくりと、しかし迷うことなく遠ざかってゆく。
千弦は、膳の前に、ひとり残された。
残されてから、ようやく、自分の息を、ひと撫で、長く吐く。
吐いた息のなかに、ほんのひと滴、味噌の香が、まだ混じっていた。
◆
茶碗を洗うあいだ、千弦の手の動きは、いつもよりもすこし強かった。
水を、釜から汲んで、桶へ。桶の水で、茶碗の口を、ひと撫で。糠袋で、椀の内側を、ふた撫で。すすぎ水を、もうひと汲み。
ひと撫でごとに、千弦は、湯気と水の冷えとを、左右の手のひらで、交互に感じる。
桜花のかたちの印が、組紐に隠されていない、いつもの素の手首のあたりで、湯気にあたって、薄く、ふた拍、温かくなった。
「お前は」
ふいに、背中越しに、父の声が来た。
千弦の手が、椀の上で、ひと撫で、止まる。
父は、台所の入口の、敷居のところに立っていた。立って、しかし、こちらへは入ってこない。敷居の手前のところで、ただ、声だけをこちらへ送り寄越している。
「お前は、お前の母さまの顔をしている」
それだけが、来た。
来て、それから、父の足音は、もう、台所の入口の敷居から離れて、奥の間のほうへ戻ってゆく。
千弦は、振り返らない。
振り返れない、というほうが近かった。
手のなかの茶碗の口に、湯気が、ひと撫で、立つ。立った湯気が、千弦の頬の、ちょうど目の下あたりに、ふた撫で降りてきた。
降りてきた湯気のなかに、千弦は、自分の頬のうえに、はじめてひとすじだけ、滲んだものを感じた。
◆
茶碗の口を、もうひと撫で、強く、糠袋で、千弦は撫でた。
撫でたあとで、その茶碗の縁に、自分の指の力が、いつもの十七年ぶんの千弦の力よりも、ほんの少しだけ強く入っていたことに気づく。
気づいて、千弦は、ようやく、茶碗を、桶の水のなかへ、ゆっくり、ひと沈めした。
沈めた水のなかで、湯気は、もう立たない。
立たないが、千弦の手のひらの内側には、ついさっき、椀の口から立った湯気の、ひと撫でぶんの温が、まだ薄く残っている。
その温のなかに、千弦は、ほんの一拍だけ、自分が見たことのない母の指の温を錯覚してしまう。
錯覚は、ほどなく消えた。
消えたが、消えたあとに、桶の水の表面に、ひと撫で、波が立った。
立った波は、自分の手で立てた波であった。
しかし――千弦の耳の、ずっと奥のところでは、その波が、誰か、別の人の指先によって立てられたような、そういう低い音が、ふたつ続いて聴こえた、ような気がする。
◆
桜の薄紅の影は、もう、庭のうえから、ほとんど消えていた。
朝の障子の光が、台所の板間のうえに、ほんの少しだけ傾いて伸び始めている。
千弦は、桶の水のなかから、茶碗を、ひとつずつ上げてゆく。
上げた茶碗を、白布のうえに伏せて置いてゆく。
伏せた茶碗の縁から、水滴が、ふた粒、白布のうえへ落ちた。
落ちた水滴のかたちは、桜花のかたちには似ていなかった。
似てはいなかったが――千弦の左の手首の内側で、絹の袂の下の、桜花の印が、いまの父のことばの余韻のなかで、たしかにふた拍、薄く温かくなった。
温かくなって、すぐに、また、いつもの薄い眠りのほうへ、しずかに降りてゆく。
千弦は、白布のうえの、伏せた茶碗を、しばらく見ていた。
見ていて、ふと、自分の、いまの呼吸のうえに、母の名が、ひとつ、薄く乗っているのを感じた。
桜緒。
その名を、千弦は声には出さなかった。
出さなかったが――声に出さなかったということ自体が、いまの千弦の、母へのはじめての名乗りであるような、そういう気がした。
◆
奥の間のほうから、父が立ち上がる気配が、低く、ひと撫で、伝わってくる。
ひと撫でで、それも、また、しずまった。
夜籠の宮の母屋の、春の終わりの朝は、こうして、ふた撫で、深くなる。
千弦は、襷を、もう一度結び直した。
結び直した襷の絹糸の擦れの音は、ついさっき、台所の入口のところでためらった、あの一瞬の襷のほどけかたとは、もう違っていた。
違っていたが、何が違うのか、千弦自身にも、まだはっきりとはわからない。
わからないままで――千弦は、白布のうえの茶碗の、伏せられた口に、もうひと撫で、目を落とす。
落とした目のうえで、朝の障子越しの光が、千弦の睫毛の縁を、ほんの一瞬、橙のなかで、銀のようにひと撫でした。




