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最後の星巫女ですが、失われた星音を復活させます  作者: 如月 慶
第1部 1章:運命の幕開け

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第2話 「父との朝餉」

 父は語らぬ男である。語らぬまま、その朝、はじめて、娘を名で呼んだ。


 釜の湯が、もう、冷めている。


 夜籠(よごもり)千弦(ちづる)の指が、それをたしかめる。指の腹に伝わってくる温は、人の体温よりほんの少しだけ高く、それから、すっと、こちらの手のひらに吸い取られて消えた。湯気は釜の口を半分ほど撫でて、あとは、朝の障子の光のなかへほどけていた。


 父・夜籠(よごもり)真澄(ますみ)が、台所の奥で、塩を量っている。その背中の張り。


 藍鼠(あいねず)の作務衣の肩のあたりが、こちらに対してわずかにこわばっている。腕の動きそのものは、いつもの真澄(ますみ)のそれであった。木の塩匙(しおさじ)を、塩壺のなかへ静かに沈めて、ひと掬い、ふた掬い。掬うたびに、塩の白が、白木の俎板(まないた)のうえに、薄くひと撫で落ちる。


 千弦(ちづる)は、(たすき)を握り直した。


 握り直してから、ふと、自分の指が、ほんのわずかにためらっているのに気がついた。



 台所の板間は、まだ、夜籠(よごもり)の宮の春の終わりの夜気を引きずっている。


 (かまど)の前の(すす)の壁が、朝の障子越しの光に、ぼうっと輪郭を浮かべている。(かまど)の口からは、もうひと炎、生きた火が、ささやかに揺れていた。(あじ)が、串に刺さって、そのささやかな火の脇に、二尾、寝かせてある。皮目に塩がふたつまみ置かれている。


 味噌の(かめ)の蓋が、半分、外されている。


 その脇に、青菜が、洗われたばかりの水滴をまだまとっている。


 朝餉(あさげ)の支度の、ほとんどが、すでに終わっていた。


 千弦(ちづる)が起きてくるよりも、ずっと早くに。


「お父さま」


 千弦(ちづる)の声は、いつもの、控えめな、薄い灯明の芯のような声であった。


 真澄(ますみ)は、振り返らない。


 塩匙(しおさじ)を、もうひと掬い、塩壺のなかへ沈める。沈めてから、ようやくひと拍を置いて、首だけを、ほんのわずかにこちらへ傾けた。傾けたが、目までは寄こさない。


「いい」


 そのひと言だけが、台所の板間の冷えのうえに、ぽとり、と落ちた。


「お手伝いを」


「いい」


 二度目の「いい」のほうが、いくらか低かった。


 千弦(ちづる)は、(たすき)をほどく。


 ほどくときの絹糸の擦れる小さな音が、自分の耳の内側だけで、いつもよりながく聞こえた。



 居間の卓は、漆塗りの古いものであった。


 漆の表面に、千弦(ちづる)のころから知っている小さな(きず)が、四つほどある。そのひとつは、千弦(ちづる)が五つの年の春に、櫛の角をぶつけて作ってしまった(きず)であった。父も母も、それを叱らなかった、ということだけを、千弦(ちづる)はおぼえている。


 膳が、ふたつ、置かれた。


 向かい合わせ、ではない。


 斜め、でもない。


 父の膳と、千弦(ちづる)の膳と、ちょうど卓の対角の角に、それぞれ、ひとつずつ。十七年、この家で、二人だけで朝餉(あさげ)を取るときの、いつもの置きかたであった。


 (あじ)の塩焼きが、皿のうえで、ほんのわずかに、まだ息をしている。


 ひと息に焼き上げられた皮目の、銀の鱗の縁が、橙の焼け色のなかで、灯明のようにところどころ揺れて見える。青菜は、湯がいた青がまだ濃いまま、白い小鉢のうえに寄せられている。味噌汁は、温まり直して、湯気をまっすぐに立てている。白米は、釜の底のあたりからよそわれたらしく、ひと粒ひと粒の(つや)が丁寧であった。


 父・真澄(ますみ)は、膳の前に座した。


 座してから、箸を、まだ取らない。


 ふと、窓の外を見た。


 窓の外には、宮の庭の桜の枝が、ひと枝、半分だけ見えている。昨夜まで散っていた花弁の、ほとんどがもう枝には残らず、薄紅の影だけが、地のうえに、まだ、ぼんやりとひと撫で散らばっていた。


 真澄(ますみ)の視線は、その薄紅のうえに、ひと拍、停まった。


 ひと拍――ほんのひと呼吸の長さ。


 しかし、その停まりの長さを、千弦(ちづる)の耳は、たしかに聴いた。



「いただこう」


 ようやく、父が、箸を取った。


「いただきます」


 千弦(ちづる)も、箸を取る。


 二人のあいだに、まず、味噌汁の椀の蓋を、それぞれ外す、その擦れの音が、ふた撫で続いた。


 味噌の香が、立つ。


 宮の味噌は、夜籠(よごもり)の家門が古くから自分のところで仕込むものであった。色がやや濃く、塩の角がほどよく丸まり、奥のほうに、ほんのり、白椿の(つぼみ)に似た青いような香りがある。千弦(ちづる)は、その香を、子のころから、迷わず「お父さまの味噌」と呼んでしまう。


 味噌汁の最初のひと(すす)りで、台所の冷えと、昨夜の祭夜の余韻が、千弦(ちづる)の身体の奥のほうへ、ようやくひとつ、降りてゆく感触があった。


 (あじ)の塩焼きの、皮目のいちばん厚いところに、箸を入れる。


 ほろり、と、白い身がほどける。


 身のなかの油が、ほんのひと滴、皿のうえに落ちて、それが、橙の焼け色のなかで、ひとつ、星のように瞬いた。


 千弦(ちづる)は、ふと、左の手首の内側を、袖の下から感じてしまう。


 桜花のかたちの印は、いまは、薄く眠っている。


 眠っているが、まだ、消えてはいない。


 それは、今朝、目覚めたときからずっと、千弦(ちづる)の身体の内側でうっすらと続いている、低い水音のような感覚であった。



千弦(ちづる)


 ふいに、父が名を呼んだ。


 千弦(ちづる)の手の、箸が、ひと撫で、止まった。


 父は、十七年のあいだ、千弦(ちづる)のことを「お前」と呼んできた。「お前、湯を運べ」「お前、灯明を換えよ」――そうやって、すべての朝と夜を、「お前」のひと言で名指してきた、その同じ口で、いま、はっきりと、千弦(ちづる)、と。


「は」


 千弦(ちづる)は、自分の声が、わずかに上ずるのを聴いた。


 父は、こちらを見ない。


 味噌汁の椀の縁を、親指の腹で、ひと撫でしている。撫でながら、視線はまだ、窓のほうの、桜の薄紅の影のあたりに預けたままであった。


「昨夜、お前の母さまの夢を見た」


 ことばは、ゆっくりと来た。


 ゆっくりと、しかし、用意されていた、というふうではなかった。むしろ、いま、この朝餉(あさげ)の卓のうえで、はじめて、自分の口から出てくるのを、父自身も、わずかに戸惑っているような、そういう声であった。


桜緒(さくらお)さまの」


 千弦(ちづる)は、自分の口で、母の名をなぞる。


 桜緒(さくらお)


 写し絵のなかに、ひと度だけ、見たことのある人の名。実物の母を、千弦(ちづる)は、自分の記憶のなかにはほとんど持たない。母が、千弦(ちづる)が乳離れする前に、世を辞してしまったからである。


「夢のなかで、桜緒(さくらお)さまは、お前の母さまは、組紐を結んでおられた」


「組紐、ですか」


「うむ。あれは、桜緒(さくらお)さまの母さまから、桜緒(さくらお)さまの手にわたってきた、南の手筋(てすじ)の結びだ」


 千弦(ちづる)の手のなかの箸が、ふたたび、ひと撫で、止まった。



 南、というひと言を、父・真澄(ますみ)の口から聴いた、その一瞬。


 千弦(ちづる)の身体のなかの、いつもの呼吸が、ひとつずれる。


 南方の話を、父はしない。


 それは、千弦(ちづる)が、子のころから自然と知っていたことであった。母の里のことを、母方の祖母のことを、父が自分から口にしたためしは、これまでなかった。雛継老(ひなつぎろう)が、ふと、桜緒(さくらお)の名を出すと、父は、聞こえぬふりで、ほかの話に折り曲げる――そういう人であった。


 その人が、いま、自分から、「南の手筋(てすじ)の結び」と言った。


桜緒(さくらお)さまは、わしに、その結びを、教えてくださった」


「お父さまに」


「うむ」


 父は、ほんのわずかに、口許をゆるめる。


 ゆるめる、というよりは、ほどけてしまった、というほうが近かった。年を経た布地の縫い目が、ある日、ひと撫でで、ふっとほどけてしまうように。


「わしの不器用な指で、何度も、何度も。桜緒(さくらお)さまは、ほんとうに、根気よくお笑いになってな」


 ことばのあいだに、笑いは、ない。


 しかし、笑いの輪郭のようなものが、父の声の底の、低いところで、わずかに、ふた撫で揺れた。


 千弦(ちづる)は、その揺れを聴いた。


 聴いて、何故か、自分の喉の奥のあたりが、ほんの一瞬、塩のような薄い辛さに満ちた。


桜緒(さくらお)さまの母さまの、その向こうから、組紐は、ずっと、女の手の指から、女の手の指へと、伝わってきた、と」


「は」


桜緒(さくらお)さまは、それを、わしにも、お前にも、いつかは教えたかったのだろう」


「お父さまにも」


「うむ」


 父は、味噌汁の椀の縁を、もう一度、親指の腹で撫でた。


 撫でて、それから、ようやく、椀の縁から指を離した。



「お前の旅を、止める権利を、わしは持っておらん」


 ことばは、つよくない。


 つよくはないが、揺れもまたない。


 それは、父が、昨夜の祭夜のあいだ、上座で坐したまま、ひと言も発さずに最後まで聴き終えた、その沈黙の、続きのことばであった。


「お父さま」


影鶴(かげづる)さまが、月港(つきみなと)まで、お前を連れてゆかれる。月港(つきみなと)の、その先までは、わしには見えぬ」


「は」


「見えぬが」


 父は、はじめて、こちらへ目を寄越した。


 寄越して、しかし、すぐに、視線は、また、桜の薄紅のほうへ戻ってしまう。


「見えぬが、お前の行くべきところは、お前の母さまの、その向こうの、誰かのところだ。わしには、それだけが、わかる」


 千弦(ちづる)の手のなかの、ほどけた(あじ)の白い身が、皿のうえで、ひとつ、冷たくなってゆく気配があった。


「お父さまは」


 声が、出にくかった。


「お父さまは、私が、月港(つきみなと)のその先へ、行くことを、お望みなのですか」


 父は、答えない。


 答えない、ということが、十七年のあいだ、父の答えかたの、ひとつの作法であった。望む、とも、望まぬ、とも、父は言わぬ。その代わりに、父は味噌汁をひと(すす)りした。(すす)って、椀を、丁寧に、膳のうえに戻した。


 椀の底が、膳の漆に当たる音はささやかであった。


 ささやかであったが、それは、いまの千弦(ちづる)の問いへの、父なりの答えであるように聴こえた。



 朝餉(あさげ)が、終わった。


「ごちそうさま」


 千弦(ちづる)は、頭を下げる。


「うむ」


 父も、ひと頷きで答える。


 膳を片づける段になって、はじめて、父は、椀と皿とを、千弦(ちづる)のほうへ、すっと押し出した。押し出してから、無言で、自分の坐から立ち上がる。立ち上がるときの、藍鼠(あいねず)の作務衣の裾が、ふた撫で揺れた。


「あとは、頼む」


「は」


 父は、台所のほうへは、もう入ってこない。


 居間から廊下へ、廊下から奥の間へと、足音は、ゆっくりと、しかし迷うことなく遠ざかってゆく。


 千弦(ちづる)は、膳の前に、ひとり残された。


 残されてから、ようやく、自分の息を、ひと撫で、長く吐く。


 吐いた息のなかに、ほんのひと滴、味噌の香が、まだ混じっていた。



 茶碗を洗うあいだ、千弦(ちづる)の手の動きは、いつもよりもすこし強かった。


 水を、釜から汲んで、桶へ。桶の水で、茶碗の口を、ひと撫で。糠袋(ぬかぶくろ)で、椀の内側を、ふた撫で。すすぎ水を、もうひと汲み。


 ひと撫でごとに、千弦(ちづる)は、湯気と水の冷えとを、左右の手のひらで、交互に感じる。


 桜花のかたちの印が、組紐に隠されていない、いつもの素の手首のあたりで、湯気にあたって、薄く、ふた拍、温かくなった。


「お前は」


 ふいに、背中越しに、父の声が来た。


 千弦(ちづる)の手が、椀の上で、ひと撫で、止まる。


 父は、台所の入口の、敷居のところに立っていた。立って、しかし、こちらへは入ってこない。敷居の手前のところで、ただ、声だけをこちらへ送り寄越している。


「お前は、お前の母さまの顔をしている」


 それだけが、来た。


 来て、それから、父の足音は、もう、台所の入口の敷居から離れて、奥の間のほうへ戻ってゆく。


 千弦(ちづる)は、振り返らない。


 振り返れない、というほうが近かった。


 手のなかの茶碗の口に、湯気が、ひと撫で、立つ。立った湯気が、千弦(ちづる)の頬の、ちょうど目の下あたりに、ふた撫で降りてきた。


 降りてきた湯気のなかに、千弦(ちづる)は、自分の頬のうえに、はじめてひとすじだけ、滲んだものを感じた。



 茶碗の口を、もうひと撫で、強く、糠袋(ぬかぶくろ)で、千弦(ちづる)は撫でた。


 撫でたあとで、その茶碗の縁に、自分の指の力が、いつもの十七年ぶんの千弦(ちづる)の力よりも、ほんの少しだけ強く入っていたことに気づく。


 気づいて、千弦(ちづる)は、ようやく、茶碗を、桶の水のなかへ、ゆっくり、ひと沈めした。


 沈めた水のなかで、湯気は、もう立たない。


 立たないが、千弦(ちづる)の手のひらの内側には、ついさっき、椀の口から立った湯気の、ひと撫でぶんの温が、まだ薄く残っている。


 その温のなかに、千弦(ちづる)は、ほんの一拍だけ、自分が見たことのない母の指の温を錯覚してしまう。


 錯覚は、ほどなく消えた。


 消えたが、消えたあとに、桶の水の表面に、ひと撫で、波が立った。


 立った波は、自分の手で立てた波であった。


 しかし――千弦(ちづる)の耳の、ずっと奥のところでは、その波が、誰か、別の人の指先によって立てられたような、そういう低い音が、ふたつ続いて聴こえた、ような気がする。



 桜の薄紅の影は、もう、庭のうえから、ほとんど消えていた。


 朝の障子の光が、台所の板間のうえに、ほんの少しだけ傾いて伸び始めている。


 千弦(ちづる)は、桶の水のなかから、茶碗を、ひとつずつ上げてゆく。


 上げた茶碗を、白布のうえに伏せて置いてゆく。


 伏せた茶碗の縁から、水滴が、ふた粒、白布のうえへ落ちた。


 落ちた水滴のかたちは、桜花のかたちには似ていなかった。


 似てはいなかったが――千弦(ちづる)の左の手首の内側で、絹の袂の下の、桜花の印が、いまの父のことばの余韻のなかで、たしかにふた拍、薄く温かくなった。


 温かくなって、すぐに、また、いつもの薄い眠りのほうへ、しずかに降りてゆく。


 千弦(ちづる)は、白布のうえの、伏せた茶碗を、しばらく見ていた。


 見ていて、ふと、自分の、いまの呼吸のうえに、母の名が、ひとつ、薄く乗っているのを感じた。


 桜緒(さくらお)


 その名を、千弦(ちづる)は声には出さなかった。


 出さなかったが――声に出さなかったということ自体が、いまの千弦(ちづる)の、母へのはじめての名乗りであるような、そういう気がした。



 奥の間のほうから、父が立ち上がる気配が、低く、ひと撫で、伝わってくる。


 ひと撫でで、それも、また、しずまった。


 夜籠(よごもり)の宮の母屋の、春の終わりの朝は、こうして、ふた撫で、深くなる。


 千弦(ちづる)は、(たすき)を、もう一度結び直した。


 結び直した(たすき)の絹糸の擦れの音は、ついさっき、台所の入口のところでためらった、あの一瞬の(たすき)のほどけかたとは、もう違っていた。


 違っていたが、何が違うのか、千弦(ちづる)自身にも、まだはっきりとはわからない。


 わからないままで――千弦(ちづる)は、白布のうえの茶碗の、伏せられた口に、もうひと撫で、目を落とす。


 落とした目のうえで、朝の障子越しの光が、千弦(ちづる)の睫毛の縁を、ほんの一瞬、橙のなかで、銀のようにひと撫でした。

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