表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最後の星巫女ですが、失われた星音を復活させます  作者: 如月 慶
第1部 1章:運命の幕開け

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/5

プロローグ「五百年 遅れの子」

 春の終わりの夜、夜籠(よごもり)(みや)境内(けいだい)に、ひとりの老女が立っていた。

 誰も、その姿を、見てはいなかった。


 白椿(しろつばき)の樹の下に、ふと、老女が立っている。


 足音は、なかった。

 砂利の一粒さえ鳴かぬまま、ただそこに立っていたのである。

 古い社の裏手、年経た白椿(しろつばき)の、まだ咲き残った夜更けの花の下――いつから、と問う者がない。

 問う者の目に、その姿が映らなかったからである。


 春の終わりであった。

 夜気はなお肌寒く、桜の名残が暗がりの土のうえに薄紅の屑となって積もっている。

 白椿(しろつばき)の花は、そのうえにいっそう、白い。

 母屋(おもや)のほうで、提灯(ちょうちん)のひとつふたつが橙色に揺れていた。

 風がひとたび、ながく梢を撫でる。

 白椿(しろつばき)の葉から、雫がひとつ、老女の肩のあたりに落ちた。


 老女は、身じろぎもしない。


 濃藍の被衣(かづき)を深く被り、顔の半ばは闇に沈んでいる。

 袖の縁から覗くのは、節の高い痩せた指であった。

 指先には、薄く淡い藤色の漆が塗られていた跡が、年月に削がれて、爪の根あたりにわずかに残るばかりである。

 もはやどの家門(かもん)意匠(いしょう)にも属さぬ、忘れられた色。


 産屋(うぶや)は、白椿(しろつばき)の樹から五間(ごけん)ほど離れた、低い茅葺き(かやぶき)の離れにある。


 戸口には、夜籠(よごもり)(みや)の白い注連(しめ)結界(けっかい)として二重に張られていた。

 穢れ(けがれ)を払うため、(みや)の女たちは母屋(おもや)に控え、男たちは表参道(おもてさんどう)のほうで焚き火(たきび)を焚いている。

 注連(しめ)の白、桜の名残の薄紅、白椿(しろつばき)の白――境内(けいだい)の闇のなかで、三つの白だけがしずかに息をしていた。


 そのとき、産屋(うぶや)のなかから、赤子の泣き声が、ひとつ、上がった。


 たった、ひとつである。


 長くは、続かなかった。


 泣き声は、糸の切れる音に似て、ふっつりと止んだ。

 産屋(うぶや)の内側から、母の低く泣くような息が漏れる。

 男たちのうちのひとりが、遠く焚き火(たきび)のほうで何ごとかを叫んでいる。

 母屋(おもや)では、年嵩(としかさ)の女がながく、ながく、息を吐く気配があった。


 老女は、それを、聴いた。


 屋根越しに、である。

 茅葺き(かやぶき)の厚みを隔て、注連(しめ)の張りを隔てて、その耳は、赤子の声の、ただ一度のひと節を受け取ったのである。


 唇が、ようやく、動いた。


「ようやく、降りてきた」


 低い、岩の底のような声であった。


 風がもう一度、白椿(しろつばき)の樹を撫でる。

 花弁が一枚、揺れて、しかし、まだ落ちない。


 老女はゆるりと、被衣(かづき)の下から、片の手を出した。

 手のひらは節立ち、しかし驚くほど白い。

 その手を、産屋(うぶや)の屋根のほうへ、ひとたび、かざす。

 指のあいだから、何かを、見るのでもなく、聴くのでもなく、確かめるように。


 確かめたのは――左の手首の、印であった。


 産屋(うぶや)のなかで、まだ湯の温もりに包まれている赤子の、まだ襁褓(むつき)にも届かぬ細い手首――その内側、白磁のような肌の下に、いま、淡く、桜花(おうか)のかたちの印が滲み出している。

 誰の目にも、まだ見えてはいない。

 母の目にすら、まだ気づかれてはいない。


 しかし、老女には見えた。

 屋根越しに、注連(しめ)越しに、暗がり越しに、見えた。


「ようやく、降りてきた」


 同じ言葉が、二度、繰り返される。


 二度目のほうが、わずかに、低かった。



 提灯(ちょうちん)の橙は、なお母屋(おもや)で揺れている。


 老女は、被衣(かづき)の下から、もう片の手を(ふところ)の奥へ差し入れた。


 取り出されたのは、一片の、白椿(しろつばき)の花であった。


 朝に手折られたものでもなく、夕べに摘まれたものでもない。

 花弁の張りも、葉のつやも、たったいま樹から離れたばかりのように生きている。

 にもかかわらず、その花は、彼女の(ふところ)から、出てきた――出てきた瞬間を、誰も見ていない。


 老女はそれを、白椿(しろつばき)の樹の根のあたり、湿った土のうえへ、そっと置く。


 置く所作には、礼があった。


 地に置かれた花は、すでに散ったほかの花弁のあいだに紛れ、しかし、その一輪だけが、形を保っている。

 月の光が雲の縁から薄く差し、その白の極まりを、ひとはけ、照らした。


 老女はもう、屋根のほうを見ていない。


 かわりに、ずっと遠い夜空の――星々のさらに奥、空の、空の、何もない場所を、見つめている。


 ひとつ、息を吐く。


 息は、白くは見えなかった。

 春の終わりの夜気には、まだ、息が白く立ちのぼるほどの冷えはない。

 けれども、息の出た先の、暗がりの一点が、わずかに、揺らいだ。

 波紋に似て、ほどけかけた糸にも似て。


 その揺らぎのなかで、老女は、口をひらいた。


「この子は、五百年、遅れてきた」


 声は、誰にも届かぬはずの低さであった。


 風はもう、樹を撫でていない。

 雫はもう、葉から落ちなかった。

 境内(けいだい)の三つの白――注連(しめ)と、桜の名残と、白椿(しろつばき)――そのすべてが、束の間、息をひそめた。


 老女は、それきり、何も語らなかった。



 夜は、なお深い。


 産屋(うぶや)のなかで、母の泣くような息は、いつしか安堵の息にうつろっていた。

 赤子は、母の腕のなかで、ふたたび眠っている。


 母は、腕のなかの娘の、左の手首を、まだ、見てはいない。


 その夜のうちは、まだ、見えるはずがなかった。


 老女は、白椿(しろつばき)の樹 dominanceすぐ脇に立っていた、その姿勢のまま、徐々に、闇のなかへほどけていった。

 被衣(かづき)濃藍(こいあい)が夜気と境を失い、痩せた指が白椿(しろつばき)の白へと吸われ、やがて、輪郭そのものが、誰の目にも残らぬ薄さになる。


 いつ、立ち去ったのか。


 それを、(みや)の誰も知らぬ。


 ただ、その夜のもう少し後、参道の焚き火(たきび)の番をしていた若い神人(じにん)が、ふと白椿(しろつばき)の樹のほうへ目を遣ったとき、樹の下に誰の姿もなかったということだけは、はっきりと覚えていた。


 風がもう一度、ながく梢を撫でた。


 このたびは、雫は落ちなかった。



 朝が、来た。


 境内(けいだい)には、いつもどおりの春の朝の光が、薄く垂れている。

 桜の名残の薄紅は、夜のあいだに、さらに散り敷いた。

 白椿(しろつばき)の樹は、夜のうちに、いくつかの花を地へ返し、しかし、なお枝の高みに、咲き残った花を、しずかに掲げている。


 (みや)の女たちが、産屋(うぶや)の戸口へ、白湯と、若布の汁と、塩を盛った膳を捧げに来た。

 戸口に立った最初の女が、はっと、足を止める。


 戸口の、敷石(しきいし)のうえ。


 一輪、白椿(しろつばき)の花が、そこに置かれていた。


 夜のうちには、なかったはずの花である。


 母屋(おもや)のほうから、宮司(ぐうじ)――まだ若い、夜籠(よごもり) 真澄(ますみ)の父――が、ゆっくりと歩いてくる。

 花を見、戸口を見、それから、白椿(しろつばき)の樹のほうを、ながく見つめた。


「どなた、が」


 宮司(ぐうじ)は、低く問うた。


 問うた相手は、いない。


 (みや)の女たちは、互いに顔を見合わせ、誰も、答えなかった。


 宮司(ぐうじ)は、しばらく立ち尽くしてから、ようやく、戸口の花の脇に、片膝をついた。


 膝の下で、敷石(しきいし)が、ちりりと鳴る。


 花には、触れなかった。


 かわりに、花のすぐ脇の敷石(しきいし)に、両の手のひらをしずかにつけ、額を軽く伏せた。


 祝詞(のりと)は、唱えなかった。


 ただ、ながく、伏していた。


 戸口の奥――産屋(うぶや)のなかで、生まれたばかりの赤子が、いま一度、ごく小さな、寝言のような声を漏らした。


 戸口の脇の白椿(しろつばき)は、朝の光のなかで、なお白い。


 宮司(ぐうじ)は、伏したまま、低く、息を吐いた。


「……ようこそ、おいでくださいました」


 その言葉を、誰に向けて言ったのか――宮司(ぐうじ)は、後の世にも、説き明かしはしなかった。


 (みや)の女たちのうち、年嵩(としかさ)のひとりが、合掌して、ただ深く頭を垂れた。


 風が、白椿(しろつばき)の樹を、また、撫でていた。



 夜籠(よごもり)(みや)の十七代目――この朝に生まれた赤子の名は、まだ、付いていない。


 名は、七夜(しちや)まで、付かぬ。

 それが、夜籠(よごもり)の家の、古いしきたりである。


 赤子は、まだ、母の乳の温もりのなかで、眠っている。


 その左の手首の内側、白磁の肌の下に、桜花(おうか)のかたちの薄い印が、しずかに、しかし確かに、根を下ろしていた。


 母は、その朝、はじめてそれを見つけた。


 母は、何も言わなかった。


 ただ、ひとたび、深く、ながく、息を吐いた。


 その息が、産屋(うぶや)の薄い障子越しに、外の、白椿(しろつばき)の樹のほうへ、まっすぐに、流れていく。


 樹はすでに、ただの一本の、年経た白椿(しろつばき)に、戻っていた。


 風が、また、ながく、ながく、梢を撫でていく。


 雫は、もう、落ちなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ