プロローグ「五百年 遅れの子」
春の終わりの夜、夜籠の宮の境内に、ひとりの老女が立っていた。
誰も、その姿を、見てはいなかった。
白椿の樹の下に、ふと、老女が立っている。
足音は、なかった。
砂利の一粒さえ鳴かぬまま、ただそこに立っていたのである。
古い社の裏手、年経た白椿の、まだ咲き残った夜更けの花の下――いつから、と問う者がない。
問う者の目に、その姿が映らなかったからである。
春の終わりであった。
夜気はなお肌寒く、桜の名残が暗がりの土のうえに薄紅の屑となって積もっている。
白椿の花は、そのうえにいっそう、白い。
母屋のほうで、提灯のひとつふたつが橙色に揺れていた。
風がひとたび、ながく梢を撫でる。
白椿の葉から、雫がひとつ、老女の肩のあたりに落ちた。
老女は、身じろぎもしない。
濃藍の被衣を深く被り、顔の半ばは闇に沈んでいる。
袖の縁から覗くのは、節の高い痩せた指であった。
指先には、薄く淡い藤色の漆が塗られていた跡が、年月に削がれて、爪の根あたりにわずかに残るばかりである。
もはやどの家門の意匠にも属さぬ、忘れられた色。
産屋は、白椿の樹から五間ほど離れた、低い茅葺きの離れにある。
戸口には、夜籠の宮の白い注連が結界として二重に張られていた。
穢れを払うため、宮の女たちは母屋に控え、男たちは表参道のほうで焚き火を焚いている。
注連の白、桜の名残の薄紅、白椿の白――境内の闇のなかで、三つの白だけがしずかに息をしていた。
そのとき、産屋のなかから、赤子の泣き声が、ひとつ、上がった。
たった、ひとつである。
長くは、続かなかった。
泣き声は、糸の切れる音に似て、ふっつりと止んだ。
産屋の内側から、母の低く泣くような息が漏れる。
男たちのうちのひとりが、遠く焚き火のほうで何ごとかを叫んでいる。
母屋では、年嵩の女がながく、ながく、息を吐く気配があった。
老女は、それを、聴いた。
屋根越しに、である。
茅葺きの厚みを隔て、注連の張りを隔てて、その耳は、赤子の声の、ただ一度のひと節を受け取ったのである。
唇が、ようやく、動いた。
「ようやく、降りてきた」
低い、岩の底のような声であった。
風がもう一度、白椿の樹を撫でる。
花弁が一枚、揺れて、しかし、まだ落ちない。
老女はゆるりと、被衣の下から、片の手を出した。
手のひらは節立ち、しかし驚くほど白い。
その手を、産屋の屋根のほうへ、ひとたび、かざす。
指のあいだから、何かを、見るのでもなく、聴くのでもなく、確かめるように。
確かめたのは――左の手首の、印であった。
産屋のなかで、まだ湯の温もりに包まれている赤子の、まだ襁褓にも届かぬ細い手首――その内側、白磁のような肌の下に、いま、淡く、桜花のかたちの印が滲み出している。
誰の目にも、まだ見えてはいない。
母の目にすら、まだ気づかれてはいない。
しかし、老女には見えた。
屋根越しに、注連越しに、暗がり越しに、見えた。
「ようやく、降りてきた」
同じ言葉が、二度、繰り返される。
二度目のほうが、わずかに、低かった。
◆
提灯の橙は、なお母屋で揺れている。
老女は、被衣の下から、もう片の手を懐の奥へ差し入れた。
取り出されたのは、一片の、白椿の花であった。
朝に手折られたものでもなく、夕べに摘まれたものでもない。
花弁の張りも、葉のつやも、たったいま樹から離れたばかりのように生きている。
にもかかわらず、その花は、彼女の懐から、出てきた――出てきた瞬間を、誰も見ていない。
老女はそれを、白椿の樹の根のあたり、湿った土のうえへ、そっと置く。
置く所作には、礼があった。
地に置かれた花は、すでに散ったほかの花弁のあいだに紛れ、しかし、その一輪だけが、形を保っている。
月の光が雲の縁から薄く差し、その白の極まりを、ひとはけ、照らした。
老女はもう、屋根のほうを見ていない。
かわりに、ずっと遠い夜空の――星々のさらに奥、空の、空の、何もない場所を、見つめている。
ひとつ、息を吐く。
息は、白くは見えなかった。
春の終わりの夜気には、まだ、息が白く立ちのぼるほどの冷えはない。
けれども、息の出た先の、暗がりの一点が、わずかに、揺らいだ。
波紋に似て、ほどけかけた糸にも似て。
その揺らぎのなかで、老女は、口をひらいた。
「この子は、五百年、遅れてきた」
声は、誰にも届かぬはずの低さであった。
風はもう、樹を撫でていない。
雫はもう、葉から落ちなかった。
境内の三つの白――注連と、桜の名残と、白椿――そのすべてが、束の間、息をひそめた。
老女は、それきり、何も語らなかった。
◆
夜は、なお深い。
産屋のなかで、母の泣くような息は、いつしか安堵の息にうつろっていた。
赤子は、母の腕のなかで、ふたたび眠っている。
母は、腕のなかの娘の、左の手首を、まだ、見てはいない。
その夜のうちは、まだ、見えるはずがなかった。
老女は、白椿の樹 dominanceすぐ脇に立っていた、その姿勢のまま、徐々に、闇のなかへほどけていった。
被衣の濃藍が夜気と境を失い、痩せた指が白椿の白へと吸われ、やがて、輪郭そのものが、誰の目にも残らぬ薄さになる。
いつ、立ち去ったのか。
それを、宮の誰も知らぬ。
ただ、その夜のもう少し後、参道の焚き火の番をしていた若い神人が、ふと白椿の樹のほうへ目を遣ったとき、樹の下に誰の姿もなかったということだけは、はっきりと覚えていた。
風がもう一度、ながく梢を撫でた。
このたびは、雫は落ちなかった。
◆
朝が、来た。
境内には、いつもどおりの春の朝の光が、薄く垂れている。
桜の名残の薄紅は、夜のあいだに、さらに散り敷いた。
白椿の樹は、夜のうちに、いくつかの花を地へ返し、しかし、なお枝の高みに、咲き残った花を、しずかに掲げている。
宮の女たちが、産屋の戸口へ、白湯と、若布の汁と、塩を盛った膳を捧げに来た。
戸口に立った最初の女が、はっと、足を止める。
戸口の、敷石のうえ。
一輪、白椿の花が、そこに置かれていた。
夜のうちには、なかったはずの花である。
母屋のほうから、宮司――まだ若い、夜籠 真澄の父――が、ゆっくりと歩いてくる。
花を見、戸口を見、それから、白椿の樹のほうを、ながく見つめた。
「どなた、が」
宮司は、低く問うた。
問うた相手は、いない。
宮の女たちは、互いに顔を見合わせ、誰も、答えなかった。
宮司は、しばらく立ち尽くしてから、ようやく、戸口の花の脇に、片膝をついた。
膝の下で、敷石が、ちりりと鳴る。
花には、触れなかった。
かわりに、花のすぐ脇の敷石に、両の手のひらをしずかにつけ、額を軽く伏せた。
祝詞は、唱えなかった。
ただ、ながく、伏していた。
戸口の奥――産屋のなかで、生まれたばかりの赤子が、いま一度、ごく小さな、寝言のような声を漏らした。
戸口の脇の白椿は、朝の光のなかで、なお白い。
宮司は、伏したまま、低く、息を吐いた。
「……ようこそ、おいでくださいました」
その言葉を、誰に向けて言ったのか――宮司は、後の世にも、説き明かしはしなかった。
宮の女たちのうち、年嵩のひとりが、合掌して、ただ深く頭を垂れた。
風が、白椿の樹を、また、撫でていた。
◆
夜籠の宮の十七代目――この朝に生まれた赤子の名は、まだ、付いていない。
名は、七夜まで、付かぬ。
それが、夜籠の家の、古いしきたりである。
赤子は、まだ、母の乳の温もりのなかで、眠っている。
その左の手首の内側、白磁の肌の下に、桜花のかたちの薄い印が、しずかに、しかし確かに、根を下ろしていた。
母は、その朝、はじめてそれを見つけた。
母は、何も言わなかった。
ただ、ひとたび、深く、ながく、息を吐いた。
その息が、産屋の薄い障子越しに、外の、白椿の樹のほうへ、まっすぐに、流れていく。
樹はすでに、ただの一本の、年経た白椿に、戻っていた。
風が、また、ながく、ながく、梢を撫でていく。
雫は、もう、落ちなかった。




