54、逃げていたのは俺だった(sideユーリ)
リゼリアの涙が、頭から離れない。
スクロールを使って俺の前から消えようとした彼女に、思わず手を伸ばした。
けれど、その手が掴んだのは虚しい空気だけだった。
スクロールは、一度訪れた場所にしか使えない。
リゼリアはきっと、ギルドへ向かったのだろう。
魔法を使えば、今すぐ迎えに行ける。
捕まえて、ちゃんと話がしたい。
そう思い、魔法を発動しかけた、その時だった。
腕が、ぴたりと止まる。
――俺は今、何をしようとした?
反射的に追いかけようとした。
だが。
(……リゼリアは、それを望んでいるのか)
――期待させるようなこと言わないでよ!
あの叫びが、何度も頭の中で繰り返される。
今のまま会いに行っても、きっと彼女は俺を拒絶する。
(……だめだ)
このままじゃいけない。
彼女が何を求めていたのか。俺はそれを理解しなければならない。
無意識に拳を握り締める。
そして、落ち着かない気持ちのまま、部屋中を歩き回った。
ふと視界に入ったのは、テーブルに残されたマグカップだった。
飲みかけのホットミルク。
彼女が読みかけの小説。
壁に掛けられたエプロン。
どれも、今ではすっかり当たり前になっていたものだった。
(……いつからだ)
俺は、いつからこれを当たり前だと思うようになった?
最初は、自分のためだった。
リゼリアをこの家へ連れてきたのも、彼女の魔力を調べれば、自分の体質について何か手掛かりが掴めるかもしれない――そう考えたからだ。
本当に、それだけだった。
なのに。
いつの間にか、彼女との生活は俺の日常になっていた。
朝になれば顔を合わせ、くだらないことで言い合う。そして一緒に食卓を囲む。
そんな毎日を、俺は自然と受け入れていた。
今思えば、おかしかった。
リゼリアがクロードの奴を信じようとした時。
王宮へ戻ると言い出した時。
俺はなんであんなに苛ついていたんだろうな。
彼女が決めたことだ。止める資格なんて、俺にはない。
そう思って送り出した。
……それでも。
どうしても気になった。
必要もないのに、魔法を使って王宮まで追いかけた。
必要もないのに、手を出すつもりもなく、ただ遠くから見守った。
一度帰ったはずなのに、また様子を見に行ってしまった。
自分でも理解できない行動だった。
(こんなこと、面倒なはずなんだが……)
面倒事は嫌いだ。
人付き合いも得意じゃない。
魔力を喰う体質になってからは、誰とも深く関わらないように生きてきた。
触れれば迷惑をかける。魔力を喰い尽くせば、命に関わる。だから一人でいい。
そう思ってきた。
……思っていたはずだった。
彼女が魔力を取り戻した時。
俺は悟った。
このままじゃいけない。
このまま一緒にいれば、俺は彼女の魔力を喰い尽くしてしまう。
だから離れることにした。
魔法塔を去った時と同じだ。一人でいることには慣れている。
何の問題もない。そう思っていた。
そして、王宮を出る彼女を見送りに行った。
最後くらいは顔を見ておこう。
それだけのつもりだった。そう思っていたのに。
「一緒に帰りましょう?」
「待ってるわよ」
たった、それだけの言葉。
彼女にとっては何気ない一言だったのだろう。
なのに、妙に胸に残った。
もう会えなくなるかもしれない。
そう伝えようと思った。だが、言えなかった。
言いたくない、と。そう思ってしまった。
結局、何も言えずにスクロールだけを渡して「またな」と笑った。
もう会うつもりはなかった。
……それなのに。
彼女の生活が気になった。俺の家は人里離れている。移動だけでも苦労する。
だからスクロールを大量に用意した。
それでも、いつか尽きる。
だから鉢合わせしないよう時間を見計らい、定期的に家へ戻っては新しいスクロールを置いていった。
今思えば、どうしてそこまでしたんだろう。
(……心配だったんだ)
会うつもりはない。離れると決めた。それでも、彼女のことだけは、いつも頭の片隅にあった。
世界樹のありかは見つけていた。あとは結界を突破すればいいだけだ。
体質さえ治れば。
もう誰かを傷つけずに済む。
そう思っていた。だが、いつしか理由は一つ増えていた。
もし治せたなら。もう一度、リゼリアの隣で笑えるかもしれない。
そんなことを考えていた。
世界樹の前で、彼女が現れた時。
最初は帰らせようとした。
危険だからじゃない。俺自身が、一番危険だったからだ。
それなのに。
「なんでよ……なんであなたは、そんなに苦しそうなのよ……!」
泣きながら怒る彼女を見て、気づけば全部話していた。
「……俺は、魔力を喰うんだよ」
言うつもりなんてなかった。誰にも話したことのない秘密だった。
それでも彼女は逃げなかった
「ねえ……ユーリ。私、行ってみる」
「私も一緒に挑戦する」
巻き込みたくなかった。
危険な目に遭わせたくなかった。
でも、彼女は一歩も引く様子はない。一度決めたら引かない人間だ。そんなことは一緒に暮らしているうちに十分理解していた。
もう、俺の頭の中は、彼女を守ることしか考えられなくなっていた。
世界樹が門を開いた時、ようやく理解した。
――他者のために願う者のみ、門は開かれる。
俺はずっと、自分のためだけに願っていた。
けれど、あの時は違った。
彼女を守りたい。
その願いだけで立っていた。
だから門は開いたのだ。
……ああ、リゼリアのおかげだって。
そう自覚した時、心臓が妙に騒がしくなった。
そして、世界樹の前で、彼女は泣きながら怒っていた。
「どうして何も言ってくれなかったの!? 一人で全部抱え込んで! そんなに頼りなかった!? 言えなかったの……? 少しくらい信頼関係が築けていたと思っていたのは……私だけだったの!?」
その涙が、どうしようもなく綺麗だった。
だから思わず口をついて出た。
「俺、お前のこと……好きみたいだ」
口に出して驚いた。自分でも、本当によく分からなかったのだ。
だから誤魔化した。
「……いや、やっぱ分からねえ」
「好きなのかもしれねえし、違うのかもしれねえ」
違う。
分からなかったんじゃない。分からないことにしていた。
答えを出すのが、怖かっただけだ。
そして今日、彼女は泣いた。
「期待させるようなこと言わないで!」
(……そうか)
俺は、あの時から彼女を傷つけていたんだ。
「…………くそ」
自分の無責任さに、奥歯を噛み締める。
俺は答えを出さなかったんじゃない。
答えを出さないことで、リゼリアを傷つけたんだ。
逃げているのは、リゼリアじゃない。
――俺だった。
俺はゆっくりと目を閉じる。そして、小さく息を吐いた。
なら、もう逃げない。
次に会った時じゃない。
俺から会いに行く。
今度こそ、自分の気持ちを伝えるために。




