43、静寂の森①
「ひえ〜! ここが静寂の森だね!? なかなかいい雰囲気だね〜!」
ユアンが森を見上げながら感嘆の声を上げる。
私とユアンは、地図に記された場所――静寂の森の入り口へと辿り着いていた。
名の通り、辺りは不気味なほど静まり返っている。
風が吹いているはずなのに木々はほとんど揺れず、森の奥からは鳥の鳴き声ひとつ聞こえない。
ひんやりとした空気が肌を撫で、思わず身震いした。
「……ユアンが喋ると、緊張感がなくなるわ」
「どうせなら楽しい方がいいじゃないか〜」
「……まあ、それもそうね」
思わず小さく笑う。その笑顔だけで、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
「行きましょう」
「うん!」
二人は顔を見合わせ、小さく頷く。
そして、念のため、私たちはそれぞれ転移用のスクロールを懐へしまった。
初めて訪れる場所へは転移できない。けれど、一度でも足を踏み入れた場所なら瞬時に戻ることができる。
万が一の時は、迷わず引き返す。
そう確認し合い、私たちは静寂の森へ足を踏み入れた。
***
静寂の森は、長い年月、人が足を踏み入れていないのだろう。
道と呼べるものはなく、生い茂る草木が行く手を遮る。足元にはぬかるみが広がり、少し気を抜けば足を取られそうだった。
時折、崖のように切り立った場所もあり、一歩一歩慎重に進まなければならない。
「うわっ……!」
突然、ユアンが小さく声を上げた。
「どうしたの?」
「いや、ちょっとびっくりして」
視線の先を追うと、苔むした石碑が木々の間にひっそりと立っていた。
長い年月を感じさせる古びた石碑だ。
「何か書いてあるわね……」
リゼリアは表面を手で払う。
すると、苔の下から文字が現れた。
「『――聖域につき、立ち入り禁止』……?」
「聖域?」
ユアンが首を傾げる。
「こんな場所に?」
その時だった。
「……あれ?」
ユアンが石碑の端へ手を伸ばす。
「どうしたの?」
「ここ、見て」
指差した先には、石が抉られたような傷跡が残っていた。
まるで刃物ではなく、何か強い力で削り取られたような跡だった。
リゼリアはそっと指先を近づける。
「……魔力を感じる」
「やっぱり?」
「ええ。それも、そんなに古くないわ」
二人は思わず顔を見合わせた。
こんな場所に、最近誰かが来ている。その事実だけで、胸が高鳴る。
「……行きましょう」
リゼリアは静かに言った。
(ユーリがいるかもしれない……)
ユアンも真剣な表情で頷き、二人は石碑の先へと足を踏み入れた。
***
「……本当に、気味が悪いくらい静かね」
「ね〜。お化けでも出てきそうだよ〜」
「……ユアンは案外平気そうね」
「そう〜?」
そんな他愛ない会話を交わしながら、二人は森の奥へと進んでいく。
けれど――静かすぎた。
鳥のさえずりも、虫の羽音もない。木々が揺れているはずなのに、葉擦れの音すら聞こえない。
森に入ってからそれなりの時間が経つというのに、生き物の姿を一度も見ていなかった。
(……こんなこと、あるの?)
その時、不意にユアンが足を止めた。
「ねえ、リーゼ」
「どうしたの?」
「さっきから思ってたんだけど……この辺、なんだか息がしづらくない?」
「え……?」
言われて初めて、自分の呼吸へ意識を向ける。
確かに、少しだけ胸が重い。深く息を吸っても、どこか肺が満たされないような感覚があった。
「……言われてみれば」
「気のせいかな」
ユアンは苦笑して再び歩き出す。リゼリアもその後に続いた。
けれど、森の奥へ進めば進むほど、その違和感は少しずつ大きくなっていく。
まるで目には見えない何かが、身体全体へ重くのしかかってくるようだった。
(……違う)
これは空気が薄いんじゃない。見えない何かが、この森全体を覆っている。
そんな圧力だった。
呼吸をするたび胸が重くなり、足も少しずつ鈍くなる。
すると、隣から荒い息遣いが聞こえた。
「……ユアン?」
振り向いた瞬間、リゼリアの表情が変わる。
「……っ!」
ユアンの顔は青白く、額には大量の汗が滲んでいた。肩で息をしながら、それでも無理に笑おうとしている。
「あはは……ごめん。ちょっと苦しいかも」
「ちょっとじゃないでしょう!」
「でも……まだ歩けるから」
その声には、いつもの軽さがなかった。息をするだけで精一杯なのが伝わってくる。
リゼリア自身も苦しい。けれど、ユアンの方が明らかに症状は重かった。
「ねえ、ユアン」
リゼリアは真っ直ぐにユアンを見つめる。
「あなたは戻って」
「……え?」
「これ以上進んだら危険よ」
「でも、リーゼ一人じゃ――」
「私は大丈夫。ここまで一緒に来てくれて、本当にありがとう」
その言葉に、ユアンは何か言い返そうと口を開く。けれど、その前にリゼリアが静かに続けた。
「あなたのおかげで、ここまで来られたの」
「……」
「だから、今度は私のお願いを聞いて」
リゼリアは懐から転移用スクロールを取り出し、ユアンへ握らせる。
「帰って」
「でも……」
ユアンはスクロールを見つめたまま動かない。
「私は必ず帰る」
その言葉だけは、迷いなく言えた。
「だから、信じて待っていて」
ユアンはしばらく俯いていた。やがて小さく息を吐き、覚悟を決めたように顔を上げる。
「……約束だよ」
その瞳は真っ直ぐだった。
「ユリスと一緒に、絶対帰ってきて」
「ええ。約束するわ」
リゼリアも真っ直ぐ見返す。ユアンはようやく小さく笑った。
「……じゃあ、行ってらっしゃい」
次の瞬間、スクロールが淡く輝き、ユアンの姿は光に包まれて消えた。
静寂が戻る。先ほどまで隣にいた気配が、嘘のようになくなっていた。
「…………ここからは一人ね」
胸は苦しい。足も重い。
それでも、引き返すという選択肢だけはなかった。
(待っていて、ユーリ)
確証なんてない。
それでも、心だけは確信していた。
――あなたは、この先にいるって。




