36、あの涙が本物なら
”クロード殿下自身の意思で返してもらわないと意味がない”、あの二人にはそう伝えたものの具体的にどうするのかまでは決めていなかった。
もう一度話をする? けれど、殿下自身の考え方が変わらない限り、何を伝えたところで同じ気もする。
(……どうしたものか)
リゼリアは小さく息を吐いた。
でも――あの時のクロード殿下は泣いていた。
”信じられない”そう口にした瞬間、初めて何かが届いたような気がしたのだ。
クロード殿下のしたことは最低だ。許せないと思う。
人生で一番辛かったあの時、殿下に救われたと思っていた。魔力を失い、婚約を破棄され、居場所を失った私に手を差し伸べてくれた人。
そう信じていた。
だけど違った。
そもそもの原因はクロード殿下自身だったのだ。
ひどい裏切りだ。それは今でも変わらない。
王宮での日々も、確かに息苦しかった。
愛だと言われても信じられない。今だって簡単に受け入れられるはずがない。
だけど――殿下は本気だったのかもしれない、とも考えてしまう。
あの人は、本当にあれを愛だと信じていたのかもしれない。
私を苦しめていることにも気づかないまま。
あの涙が嘘でないのなら……。
もし、私の言葉が少しでも届いていたのなら。
殿下は自分自身の意思で、魔力を返してくれるのかもしれない。
許したわけじゃない。信じたわけでもない。
だけど――。
あの涙が偽物ではないのなら。私の言葉が、ほんの少しでも届いていたのなら。
最後くらいは、殿下自身が答えを選んでくれるのかもしれない。
そんなことを思ってしまった。
――コンコン。
その時、部屋にノックの音が鳴り響く。
部屋に入ってきた人物は、エドワード殿下だった。
「クロードが、もう一度君と話をしたいそうだ。もちろん私も同席する」
殿下の表情は険しい。
ちょうど、今後どうすべきかについて考えていたのだ。
私は息をひとつ吐き、真っ直ぐに殿下の目を見つめた。
「――よろしくお願いします」
***
クロード殿下と再び話をするため、エドワード殿下と共に応接室へ入る。
クロード殿下はソファに座っていた。
昨日のような感情的な様子はない。ただ静かに、こちらを待っていた。
私は向かいのソファへ腰を下ろす。
短い沈黙が落ちた。やがてクロード殿下が口を開く。
「もう顔も見たくないと思うが……今日は来てもらえてありがとう」
その言葉にリゼリアは目を見開いた。正直、殿下からそんな言葉を聞けると思ってはいなかったからだ。
「いえ。それで、話とはなんでしょうか」
クロード殿下はわずかに視線を伏せる。そして静かに言った。
「…………君に、魔力を返そうと思う」
その言葉のあと、殿下は自嘲するように小さく首を振った。
「いや……違うな。返さなければならない。それが俺の責任だ」
「殿下……」
それ以上、クロード殿下は何も言わなかった。
エドワード殿下もまた壁際で腕を組んだまま、静かに見守っている。
やがてクロード殿下が手をかざした。
次の瞬間、身体の奥へ温かな力が流れ込んでくる。
「あ……」
懐かしい感覚だった。無くしていたと思っていた――私の魔力だった。
それが身体の隅々へと満ちていく。指先まで魔力が巡る感覚に、思わず息を呑んだ。
(戻ってきた……)
ずっと失われていた――私自身の一部。温かな流れは途切れることなく続いていく。
そして、ふと顔を上げた。
目に映ったのは、クロード殿下の姿だった。殿下は何も言わず、静かに魔力が戻っていく様子を見ていた。
その表情には喜びはない。ただ静かだったのだ。
(……クロード殿下)
やがて温かな流れが止まる。
クロード殿下はゆっくりと手を下ろした。
「……すまなかった」
それだけを残して立ち上がる。振り返ることなく、そのまま部屋を後にした。
扉が閉まる音だけが静かに響く。
応接室には私とエドワード殿下だけが残された。
しばらく誰も口を開かなかった。長い沈黙のあと、私は静かに頭を下げる。
「……この場を設けてくださって、ありがとうございました」
「……ああ」
エドワード殿下は短く答えた。そして少し間を置いて続ける。
「それと……準備が整うまで王宮で好きに過ごしていい」
「ありがとうございます。なるべく早く出ますわ」
そう答えながら、自分の胸元へそっと手を当てた。
魔力は戻った。思っていたよりも、ずっとあっさりと。
けれど私は理解していた。
クロード殿下にとって、この選択がどれほど重いものだったのか。
昨日まで、何を伝えても届かないと思っていた。
けれど、少しだけ。ほんの少しだけ、言葉は届いたのかもしれない。
許したわけではない。
信じたわけでもない。
それでも。
最後に自分の意思で答えを選んだことだけは、きっと本当だったのだろう。
きっと……この言葉を殿下に伝えることはない。
もう、その必要もないのだから。
リゼリアは静かに目を伏せていた。




