第92話 凍れる特異点、遺された設計図
「……寒い。……今までの、どんな凍土よりも。」
ノエルが、自らの腕を抱きしめて震えた。アーカイブ・コリドーの突き当たりに現れたのは、光さえも吸い込むような漆黒の扉。
そこを抜けた先に広がるのは、時間が完全に「0」で固定された、永遠の寂静に満ちた小部屋だった。
そこには、かつて誰かがいた確かな証拠があった。 部屋の隅に置かれた、古びた、けれど丁寧に手入れされた木製の作業台。
その上には、数冊のノートと、使い古された小さな金槌。
「……これ、爺ちゃんの、お仕事机だ……」
ロアが、吸い寄せられるように作業台へと歩み寄った。机の上には、最後に書き残されたと思われる一枚の羊皮紙。 震えるような、けれど力強い文字で、こう記されていた。
「ロアへ。これを見ているということは、お前はお掃除を最後までやり遂げたんだな。……誇りに思うよ。」
「爺ちゃん……」
パシィッ……。
ロアの瞳から溢れた涙が、床に届く前にクリスタルとなって固まる。
「……だが、ロア。お掃除屋として、お前に伝えておかなければならない真実がある。……お前が直してきたこの世界は、……本当の意味での世界ではないんだ。」
シオンの半透明なホログラムが、ロアの肩越しに手紙を覗き込んだ。
「……演算開始。……不可能な記述を検知。……ガレンは、この世界を実験用のサンドボックス(砂場)と定義している。」
「……砂場? 僕たちが生きてきた場所が、ただの遊び場だって言うの……?」
「……違う。……ガレンの真意は、その先にある。」
シオンが、希薄化した指先で机の下にある不自然な影を指し示した。そこには、床の理が剥離し、向こう側の景色――星々が渦巻く、果てしない外側の深淵が見える小さな穴が開いていた。
「……この世界は、上位階層のバグを吸収し、浄化するために作られたフィルターのようなものだ。……バグが出るのは、この世界が壊れているからじゃない。……上位を壊さないために、この世界がすべての汚れを引き受けてくれているだけなんだ。」
「……そんなの、あんまりだよ。……じゃあ、僕が直しても直しても、また不具合が湧いてくるのは……」
「……ああ。……外の理が歪む限り、この世界に安息はない。……だからガレンは、この特異点を通って、汚れの根本――上位階層を直接お掃除しに行ったんだ。」
ロアは作業台に置かれた、爺ちゃんの金槌をそっと握りしめた。 驚くほどに温かい、使い込まれた木の感触。
「……そっか。……だったら、僕も行くよ。……爺ちゃんが外で一人でお掃除してるなら、僕も手伝わなきゃ。」
ロアの決意。 それは、この箱庭を飛び出し、世界の真のルールを掃除するという、人智を超えた新たな旅の始まりだった。
「……ロア。……その旅路には、僕も同行しよう。……僕の光が、尽きるその時まで。」
シオンが、幽かなエコーでロアに応えた。
しかし、その背後でナハトだけが、シオンのシステムログに刻まれた損壊率が、ついに「92%」に達している事実を、瞳に映していた。
(第92話 終わり)




