第89話 身代わりの盾、震える指先
「無駄な抵抗だ。このアーカイブごと、お前たちの存在記録を抹消する」
大教主が杖を掲げると、氷の湖面が真っ黒なインクに染まり始めた。
アーカイブ・ワイプ。
世界の記憶そのものを強制消去し、真っ白な無へと回帰させる、理の巡礼者の絶対禁忌。
「させないよ! ここは、爺ちゃんも大切にしてた場所なんだ!!」
ロアが聖葬槌を振り下ろし、黒い波を翡翠の光で押し止める。 だが、その光はかつてないほどに細く、震えていた。
その隙を、深淵の指導者が逃さなかった。黒い霧の翼が、後方で演算支援を行っていたナハトへと殺到する。
「……ッ!? ターゲット、私……?」
ナハトの紫の瞳が、驚愕に剥かれた。
指導者が放ったのは、[概念汚染コード:自己崩壊]。
機械人形の魂とも言える基本プログラムを内側から腐敗させ、操り人形へと変える、最悪のハッキング・ウイルス。
「ナハト、回避しろ!!」
シオンが叫ぶ。 だが、ナハトの演算速度では、指導者の放つ多重パッチを完全に防ぎ切ることはできない。
ドス黒い影の糸が、ナハトの胸元へ突き刺さろうとした、その時――。
シュン……ッ!!!!
翡翠の光を纏ったシオンが、閃光となってナハトの前に割り込んだ。
バチバチバリィィィィィッッ!!!!
ナハトに届くはずだった黒い糸は、すべて、シオンのホログラムがその身で受け止めていた。
「……っ、あ、あ、がぁぁぁぁぁっ……!!」
シオンの悲鳴が、激しいノイズとなって回廊に反響する。翡翠色の美しい像が、瞬く間にドス黒い影に侵食され、ガタガタと不規則に折れ曲がっていく。
「シオン!!」
ロアが叫び、駆け寄ろうとするが、大教主の放つ重圧バグがそれを許さない。
「……くる、な……っ。……ナハト、システムを、……切り離せ……!」
シオンは自らの演算リソースを限界まで燃焼させ、自身の中に流れ込む汚染コードを強引に中和(掃除)していく。それは、自らの存在そのものを燃料にして炎を消し止めるような、あまりにも無謀な行為。
[アラート:演算リソース使用率、92%を突破]
[警告:メイン・ロジックに不可逆的な損傷を確認]
数秒後。
黒い霧は霧散し、ナハトは無傷で立ち尽くしていた。
目の前には、膝を突いて肩で荒い息をつくシオン。
「シオン……なぜ、私を……」
ナハトが震える指でシオンの肩に触れようとした。 その時。
ガタ、ガタガタガタ……。
シオンの、ホログラムの指先が。 止めることのできない、激しい震えに襲われているのを、彼女は見てしまった。
ただの映像であるはずの彼の手が、恐怖に怯える人間のように、救いを求めるように、揺れていた。
「……礼は、必要ないと言っただろう……。……これが、僕の最適解……だ」
シオンは無理やり笑おうとした。 だが、その顔半分はノイズで崩れ、戻らなくなっていた。
ナハトの演算回路に、ある一つの残酷な結論が弾き出された。シオンは今、彼女を守るために、自らの明日をすべて使い果たしたのだ。
一時的なパッチと蔑まれたプログラムは、今、神に抗うための熱い命をその身に宿していた。
(第89話 終わり)




