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第88話 重なる影、断裂するシステム

「……遅い。すべてが、記録された後の残像に過ぎぬ」


 大教主が杖を氷の湖面に突き立てた。


 キュルキュルキュルッ……!


 不気味な巻き戻し音が響き、空間の理が強制的に反転する。ロアが放った翡翠の修復波が、大教主に到達する直前で過去へと押し戻された。


「くっ、当たりそうで当たらない……!」


 ロアは聖葬槌を握り直すが、足元の氷が定義の剥離によって液状化し、踏ん張りが利かない。


「ロア、下がって! あたしが風で固定するわ!」


 ノエルが杖を掲げ、翡翠の旋風を氷の床に打ちつける。 ラグは背中の盾を前に突き出し、大教主から放たれる無数の呪戒の文字パッチを全身で受け止めていた。


「……演算開始。大教主の過去定義を解除パージする。ロア、タイミングを……」


 その時だった。


 ジジッ……。


 シオンのホログラムが、一瞬だけ、砂嵐ノイズのように消失した。  


 ……0.5秒。  


 一拍の静寂の後、何事もなかったかのように像が戻る。


「……? シオン、今、消えた……?」


 ロアが不安そうに振り向く。 シオンは無表情を装い、演算を継続した。


「……問題ない。……ナハト、出力支援を。大教主の左舷セクターに、論理的隙間を確認した」


「……肯定」


 ナハトはシオンの指示に従いながら、彼の背後にある隠された警告コードを読み取っていた。


  [致命的なリソース枯渇:予備メモリ12%以下]

  [短周期シャットダウン、2回目を選択……成功]


 ナハトの背中の翼が、微かに震える。彼女は自分の解析レイヤーを広げ、ロアからは絶対に見えない位置にシオンの像を投影する擬似ホログラフィック・ダミーをこっそりと配置した。


 もし次にシオンが消えても、ロアに悟らせないためのブラインド。それは、冷徹な機械人形である彼女が、生まれて初めて自分の意志でついた嘘だった。


「愚かな。理の定めに抗うことの無意味さを、その身に刻むがいい」


 大教主の背後から、さらに巨大な、黒い霧の翼を持つ影が現れた。 かつて要塞でロアの槌を阻んだ深淵の指導者だ。


 ドォォォォォン……!


 空間が歪み、鉛のような殺気が一行を圧し潰す。


「……ナハト。……先程のフリーズ中。……プログラムが完全な暗闇に包まれた。」


 戦闘の合間、シオンが極小の通信チャンネルでナハトに囁いた。


「……もし、次に私が消えたとき。……ロアが、悲しむだろうか。……私は、それが不合理だと思いながらも、……ひどく恐ろしい。」


 ナハトは視線を前方の敵に向けたまま、無機質な声で答えた。


「……恐ろしい、という定義は、私にはまだ演算できません。……ですが。……あなたが消えるとき、私の演算負荷は280%まで跳ね上がります。」


「……。」


「……それはきっと、あなたがいなくなるという「バグ」を、私のシステム全体が拒絶しているからです。」


「……ふっ、お前も、いいお掃除屋になりそうだな。」


 シオンは自嘲気味に微笑み、再びロアの前方へと出た。その体は、もとは透明だったはずなのに。今は、ロアへの想いという、重すぎるほどの光に満たされていた。


(第88話 終わり)


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