第87話 理の天秤、揺らぐ定義の端で
氷の湖面を滑るように進む一行の前に、巨大な「天秤」の影が降臨した。
それは無数の浮遊する文字盤が複雑に組み合わさった、荘厳な玉座。 その上に鎮座するのは、純白の法衣を纏った老人。
理の巡礼者の最高指導者――大教主。
「……記録の深淵を汚す者よ。これ以上の侵入は、世界への冒涜である」
ゴゴゴゴゴ……!
大教主の声と共に、空間そのものが震えるような重圧が押し寄せる。
「……冒涜? 違うよ。僕たちは、ここを掃除しに来たんだ」
ロアが、聖葬槌を真っ直ぐに突きつけた。
「ここにあるたくさんの悲しいバグを直して、みんながまた笑える世界にしたいんだ!」
「……浅はかな、修復者の末裔よ」
大教主が、憐れむように目を細める。
「お前がお掃除と呼ぶ行為は、本来あるべき崩壊の記録さえも塗りつぶす不敬である。変化というノイズを、我らは認めない。世界は等しく、死を記録されるべきなのだ」
大教主の視線が、シオンを射抜く。
「……管理者の残滓よ。ガレンが遺した、一時的な応急処置。……いつまでも、自分が世界の主であるかのように振る舞うのは、滑稽だとは思わぬか?」
「……ッ。」
シオンのホログラムが、一瞬、激しい赤色に染まった。
「……パッチだと? ……一時的な処置だと、貴様は言ったか……!」
シオンの声が、不気味なほど低い―― 唸るような地響きを立てる。
「……ならば、貴様らの信じる記録という死骸の山は何だ。変化を拒み、ただ積み上がるだけのゴミの集積に、何の価値があるッ!!!」
バリィィィィィィン……ッ!!!!
シオンの怒りの出力が、システムの許容範囲を超えて周囲の氷を粉砕した。
「……シオン……?」
ロアが、驚愕してシオンを見上げた。生まれて初めて見る、本気で怒り狂うシオンの姿。
怒り。それは計算式には存在しない、最大のエラー(バグ)。けれど、今のシオンは誰よりも人間らしく、ロアの背負ってきた掃除屋としての誇りを、たった一人で守ろうとしていた。
そんな喧騒の陰で、ナハトの紫の視線が、乱れるシオンのステータスログをじっと見つめていた。
[警告:異常な感情定義エラーが発生中]
[ログ:……シオン。あなたが叫ぶとき、世界の演算効率が、初めて心拍に似た波形を描いています。……記録します。この、美しくも論理に反するバグを。]
ナハトの胸元で。 0.02%の上昇を示していた効率が、さらに加速し始める。
「……フン。これ以上の議論は不要か」
大教主が手を挙げると、アーカイブの氷の床から、巨大な鎖のバグが幾重にも湧き出し、一行の退路を断った。
「……お掃除を始めさせてもらうよ、大教主!!」
ロアが、翡翠色に輝く聖葬槌を天高く振り上げた。
(第87話 終わり)




