第85話 深淵の核、喪失の記録
ノエルが放つ翡翠の旋風が記録体たちを縫い止め、ロアの聖葬槌が一体ずつ、慎重に、しかし確実にバグだけを抜き取っていく。
ラグは巨大な盾を掲げ、不規則に飛来する記録体の攻撃をすべて叩き落としていた。
「はぁ、はぁ……これで、最後の……一体!」
ロアの呼吸は激しく乱れ、意識は朦朧としていた。 それでも、最後の一体まで、彼は消去のコマンドを一度も使わなかった。
パシィィィィッ!
最後の一体が修復停止し、乳白色の空間に、耳が痛くなるほどの静寂が訪れる。
「……やったね、ロア! 全部、壊さずに済んだよ!」
ノエルが駆け寄り、崩れ落ちるようなロアの身体を支える。
「ふぅ……シオン、これで……」
ロアが安堵の息をつこうとした、その時だった。
「……警告。高次元エネルギー反応、接……」
ピピッ……ガガッ……!
シオンの声が、凄まじいノイズと共に途切れた。ホログラムの像が完全に停止し、少年の輪郭がガタガタと歪み始める。
「シオン!? どうしたんだ、シオン!!」
1秒。 2秒。
デジタルな存在にとって、永遠に等しい思考停止時間。その空白を埋めるように、ナハトが音もなく動いた。
彼女の指先から、無数の紫の糸――緊急バイパス・コードが弾き出される。
「……システム防御、ナハトへ移行。……排除プロセス、開始」
ナハトの背中の翼が、鋭利な刃のように逆立つ。彼女は停止したシオンの前に立ち塞がり、冷徹なまでの「拒絶」を前方の霧へと向けた。
クシャッ……!!!
霧の奥から、空間そのものが握りつぶされるような音が響いた。
ゆっくりと、その巨体が現れる。 人の形をしていない。 無数の光の粒子が、巨大な球体へと収束し、内部で激しく渦巻いている。
ブォン……ブォン……!
その球体から心臓の鼓動のような、重苦しい波動が押し寄せる。
「……あれが、核記録体」
ノエルが、顔を青ざめさせる。その球体からは、かつてないほどの悲しみと絶望が、ノイズ混じりの念波となって脳内に響き渡る。
「……ここには、世界の喪失が……詰まっている。……不必要なデータとして、剥ぎ取られた……無数の人々の、……死と、痛みの記録」
再起動したシオンの声。 それは恐怖に震えているのではなく、あまりに巨大な情報の洪水に押し潰されそうになっている、か細い響き。
「こんな……たくさんの悲しい気持ちが、ここに入ってるの?」
ロアの聖葬槌が、鉛のように重くなる。 核心に近づくたびに、世界の重みが少年の細い肩にのしかかる。
「……違う! これは、……ゴミなんかじゃない……!!」
ロアが、苦悶の表情で咆哮した。
「これは……全部、本物の、悲しみなんだ……ッ!」
奔流のような悲しみの中、ロアは見た。かつて死に際に、自分に向けて優しく笑い、すべてを託してくれたガレンの笑顔を。
ガレンは、この世界の剥離を食い止めるため、自分自身もまた剥離の一部となっていったのではないか。
「爺ちゃん……僕、頑張るよ……!」
ロアは震える手で、聖葬槌を強く握り直した。
目の前の悲しみを、消去するのではなく、どうやって掃除すべきか。 少年の正解のない戦いが、今、幕を開ける。
(第85話 終わり)




