第83話 記録の奔流、過去が牙を剥く
落ちている、という感覚ではなかった。
ロアの周囲に在るものは速度ではなく、過去だった。
縦穴の壁面から数センチの距離で、ぼうっと発光する文字の奔流が流れている。よく目を凝らせば、それは数字でも暗号でもない。
……誰かの記憶だ。
見知らぬ子どもが笑っている。灰色の街で、誰かが泣いている。燃え盛る野原で、誰かが祈っている。朽ちた建物の陰で、老婆が名前を呼んでいる。断片的な光景が、まるで水底に沈んだ葉のように、ロアの目の前を流れていく。
「……これ、全部……この世界の人のこと?」
ロアが、思わず壁に手を伸ばした。 指先が光の文字に触れる直前、シオンの鋭い警告が飛んだ。
「……触れるな。記録体はこの深淵で量子化されている。……接触した瞬間、お前の記憶もこの壁に溶け込む」
ロアは手を引く。 一行は言葉を失い、ただ落下し続けた。どこまでも、どこまでも。
2分。
体感的にはもっと長い時間に感じられた頃、落下の感覚が止まった。
地面はなかった。ただ、落下速度が0に再定義されたのだ。四人は軽やかに、透明な乳白色の大気の中に浮遊していた。
「ここが……内部か」
ラグが低く呟き、背中の盾を構え直す。そこは空間そのものが白く濁り、上も下も右も左も判然としない「無限の球体」だった。しかし、その霧の中に、等間隔で黒い結晶柱が林立している。
どの柱も、内側から光を宿す六面体の情報体。高さは20メートルを超えるものも在り、その表面には滔々と文字が流れ続けている。
「……記憶の墓場ね」
ノエルが、静かに、しかし揺れる声で呟く。
「……これだけ大量の記録が収められているのに、誰も読む人がいない。ただ積み上がって、腐っていくだけ」
「……正確には腐敗ではない。記録は不死だ。ただ、誰にも参照されないデータは、やがて自分自身の重みに耐えられなくなり、理の歪みを生む。……バグの根源の一つが、ここだ」
シオンがそこまで言いかけ、途切れた。 ホログラムの輪郭線が激しくノイズを纏い、像が一瞬だけ完全に消滅した。
「シオン!?」
「……問題ない。……少し、干渉を受けた。……先を急げ。」
その刹那、誰も気づかなかったことがある。シオンが消滅していた0.8秒の間、ナハトはひとことも話さず、表情も変えなかった。しかし、ナハトの処理帯域がその0.8秒だけ通常の4倍に跳ね上がっていた。
シオンが途切れた分の警戒・スキャン・リソース配分を、黙って肩代わりしていたのだ。ナハト自身はそれを特別なこととも献身とも認識していなかった。ここではまだ。
その少しという言葉が、かえってロアの胸に刺さった。いつものシオンなら、少しなどとは言わない。
エラーを数値で、確率で、言葉で叩き込むように説明する。その彼が少しと誤魔化した時、それがどれほどの事態であるかを、ロアはなんとなく分かり始めていた。
その時だった。
霧の中から、一つの黒い結晶柱が内側から砕け、光の粒子が霧散した。 そしてその粒子が、ゆっくりと人の輪郭を形成していく。
「……あれ」
ノエルが、息を呑む。
現れたのは、一人の少年だった。年の頃はロアとさして変わらない。しかし、服は焦げ落ち、瞳は空ろで、その背中には機能不全に陥った翡翠の翼の残骸が見えた。
「……かつてあの管理者も、子どもだったのかしら?」
ノエルが、低く言う。
だが、少年はノエルを見ていない。 虚ろな瞳が向いているのは、ロアの手の中の、聖葬槌だ。
「始末しろ」
少年の口が動いた瞬間、周囲の霧の中から、無数の人型の光が立ち上がり始めた。 ある者は錆びた武器を持ち、ある者は見慣れたローブを纏い、ある者はかつて一行が旅してきた街の、見知った商人の顔を持っていた。
記録体。損傷した記憶が、本来の記録対象への怨念を形成し、自律的に歩き始めた存在。
「……お掃除、しなきゃいけないんだね」
ロアが、槌を両手で握り直した。その声は硬かったが、手は震えていない。
「……でも、これはお前たちのせいじゃないから。……うまく、直してあげる」
(第83話 終わり)




