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第82話 凍れる深淵、時を刻まぬ大地の門

 吐き出す息が、空気に触れた瞬間に数片の氷晶となって零れ落ちた。


 極北。見渡す限り、白と蒼だけの世界。


 かつては広大な tundra(凍土)と呼ばれたはずのこの場所は、今や剥離の浸食により、物理的な寒ささえも定義を超えていた。  マイナス50度。


 その体感温度は、もはや皮膚を刺す刺激ではなく、魂そのものを凍結させようとするシステムの拒絶に近い。


「……寒い、なんてレベルじゃないわね。魔力の循環が……遅れてる」  


 ノエルが、吐息の白さに顔を顰めながら、防寒外套の襟をきつく締めた。  


 彼女の指先にある翡翠の結晶が、周囲の凍りついた理に反発するように、幽かな熱を帯びて明滅している。


「……ラグ、大丈夫? 足元、滑りやすいみたいだよ」  


 ロアが、雪を噛みしめるようにして歩みを進める。 彼の背負う聖葬槌は、この極寒の中でも不思議と冷たくならなかった。


 むしろ、地底から響く微かな鼓動に呼応するように、僅かに重みを増している。


「けっ、余計な心配だ。……俺様の鋼の筋肉は、氷点下なんて屁とも思わねえよ」  


 そう強がるラグだったが、その吐息は荒く、背負った不格好な盾が震える風を受けてゴロゴロと鳴っていた。


 彼の周囲だけ、雪が踏み固められる音ではなく、金属が氷を削るような硬い音が響いている。理の崩壊は、音の解像度さえも歪め始めていた。


「……停止しろ。……目的地は、その10メートル先だ」


 シオンのホログラムが、吹雪の中に青白く浮き上がった。


 その姿は天空にいた時よりも不確かなものになっており、風に吹かれるたびにデジタルなノイズが走る。


 その刹那、ナハトの胸の演算パネルの数値列が、一瞬だけ外側に漏れ出た。 雑音に紛れて消える直前に、一行だけ読めた。ステータス:稼働残余:22%ノイズが地読んで消え、一行の誰もそれに気づかなかった。


「……10メートル? でも、前には何もないよ?」


 ロアが足を止める。目の前にあるのは、ただ平坦な氷の原野。


   だが、シオンが指し示したその場所だけ、奇妙な違和感があった。


 雪が降っているのに、その場所だけ雪が積もらないのだ。  空から舞い落ちる結晶は、地上数センチの高さで不自然に霧散し、そのまま空虚へと吸い込まれていく。


「……視覚的なカモフラージュではない。……そこは時間の定義が0に固定された、永久欠番の座標だ」


 シオンが淡々と告げる。


「……ここが、地ノ重枢への垂直通路。……世界の記録が、ゴミとして捨てられる場所……深淵への大門だ」


 シオンが極小のアクセスコードを空中に描くと、何もないはずの氷原が、音もなく左右に割れた。


 現れたのは、磨き上げられた黒い墓標のような、底の見えない巨大な縦穴。その縁からは、世界の色彩をすべて吸い込んだような、底知れぬ影が溢れ出している。


 ズウゥゥゥゥゥゥ……ン……。


 穴の奥底から、低い、地鳴りのような音が響いてきた。それは機械の駆動音にも、誰かの嘆きにも聞こえる、不気味な旋律。


「……これ、降りなきゃいけないの?」  


 ノエルが、縦穴の淵から身を乗り出し、恐怖に身を震わせる。下から吹き上がってくる風には、これまでのバグとは違う、腐敗した記憶の匂いが混じっていた。


「……行くよ。……僕たちの旅を、ここで終わらせるために」


 ロアが聖葬槌の柄を強く握りしめる。 爺ちゃんは言っていた。 本当に大切なものは、いつも一番不快で、一番深い場所に隠されていると。


 ロアは迷わず、漆黒の深淵へとその身を投じた。


(第82話 終わり)


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