第81話 残響の空、地の底に眠る鼓動
翡翠の光が遠ざかり、雲海を抜けると、そこには深く沈んだ黄昏が広がっていた。
浮遊岩の端に腰を下ろし、ロアは眼下に広がる大地を眺めていた。
標高3000メートル。
風の理が正常化されたことで、かつての断裂という名の牙は消え、今はただ、穏やかで冷たい大気がロアの頬を撫でている。
だが、そこから見える景色は、決して美しいと言えるものではなかった。夕闇に溶けゆく地平線。そのあちこちに、ぽっかりと空いた穴がある。
ある場所は灰色のノイズに塗りつぶされ、ある場所は空気が静止して色が抜け落ちている。
高い場所から見下ろすことで、世界の剥離がどれほど広範囲に、そして根深く進行しているかが、残酷なほど鮮明に浮かび上がっていた。
「……パズルの、足りないピースみたいだね」
ロアがぽつりと呟いた。 膝の上で休ませている聖葬槌に、そっと指を這わせる。
ノエルが修復してくれた翡翠の継ぎ目は、周囲の青色と溶け合い、新しい命の脈動を伝えてくる。 けれど、あの暴走の瞬間に感じた、魂を逆なでするような冷たいノイズの感覚が、指先に薄くこびりついている気がして、ロアは小さく身震いした。
「……寒いの、ロア?」 隣に、気配もなくノエルが座った。
「ううん、大丈夫。……ただ、少しだけ、世界の重さを思い出しただけ」
「……そうね。あたしたちが直したあとに、また別のところが壊れていく。……追いかけっこみたい」
ノエルが膝を抱え、遠くの街の灯を見守る。
彼女の指先には、あの戦いで折れた杖の代わりに、管理者の領域で手に入れた純結晶の結晶片が握られていた。
彼女はもう、既存の理に従う魔術師ではない。失われた翼の記憶を抱え、自分自身の意思を空気に刻む共鳴者へと変わっていた。
「――おーい! いつまで黄昏てやがんだ。そろそろ飯の支度ができたぜ!」
岩の陰から、ラグが大きな声を張り上げた。
彼はナハトが即席で作った、厚い鋼鉄の板に革紐を巻き付けただけの不格好な盾を背負っていた。
剣を捨てた今の彼にとって、それは以前の大剣よりも似合っているように見えた。
「今行くよ、ラグ!」
ロアが立ち上がり、ノエルに手を貸す。
二人の手が触れ合った瞬間、言葉にならない温かな感触が交換される。
それは、プログラムとしての結合でも、管理者としての共鳴でもない。ただ、同じ道を歩んできた者同士の、静かな信頼の証だった。
下方の中継点――火焔の要塞の北端にある野営地では、ナハトが火を熾していた。シオンのホログラムが、火明かりに照らされて幽かに揺れている。
「……ロア、ノエル。休息はこれで最後だ」
シオンの声が、夜の帳と共に重く響いた。 「……目的地をセットした。北の大地、極寒の永久凍土の直下に眠る、最後のメイン・ノード……地ノ重枢。……そこはこの世界の、すべての記録と時間が蓄積される場所だ」
「記録と、時間……?」
「ああ。……そこを正常化すれば、世界の剥離を根本的に止めることができる。……だが。それと同時に、隠されてきた真実がすべて剥き出しになるだろう」
シオンの光が、チカチカと不規則に瞬いた。 まるで行き先を躊躇するように。あるいは、自分自身の終わりを記録の海に見出しているかのように。
「……いいよ、シオン。……爺ちゃんのことも、この世界のことも。僕は全部知りたい。……その上で、全部お掃除したいんだ」
ロアの迷いのない言葉に、シオンは一瞬だけ沈黙し、そして以前よりも少しだけ優しく光を灯した。
その瞬間だけ、ホログラムの輪郭が微かに散った。頭の先から自然に崩れ、指先が幼子の手のように透けて見えた。
次の瞬間には、何事もなかったかのように元に戻っている。ロアはそれに気づかなかった。ナハトこそがタイミングよく目を細め、何を言うこともなく灯を2回、スキャンするだけだった。
「……分かった。……行こう、ロア。……地ノ底で、すべてを終わらせるために」
極北の空に、一筋の流れ星が走った。
それが消え去る先には、地を穿つような巨大な闇の裂け目――世界の心臓へと続く入り口が待ち構えていた。
(第81話 終わり)




