第77話 黒き剥離、定義を喰らう意志
「なんだ、そのノイズは?」
ゼフィロスの眉が、初めて不機嫌そうに歪んだ。
ロアの握る聖葬槌。その亀裂から漏れ出している黒い光は、光というよりは虚無の塊のようだった。 それは周囲の翡翠の風を吸い込み、ゼフィロスが定義した距離という概念そのものを、ボロボロと崩していく。
「……ロア! やめろ、それ以上はそのコードを解放するな!」
シオンが、悲鳴に近い警告を発する。
「……それは聖葬槌のバックアップ・プログラムではない。……ガレンが封印した、世界の剥離そのものの力だ。……制御できなければ、お前の自我まで消去される……ッ!!」
「……いいんだ、シオン。……ノエルが、泣いてるから」
ロアの瞳から、光が消えていた。代わりに、その瞳孔は槌と同じ黒いノイズで塗りつぶされている。
「……爺ちゃんが言ってた。どうしても直せないものがあったら、一度全部、まっさらにしてしまえって」
「……狂ったか、剥離者よ」
ゼフィロスが翡翠の翼を羽ばたかせ、再び距離をリセットしようとした。彼にとって、ロアは1000メートル先にいる存在に固定されたはずだった。
だが。
ズズ、ズズ……ッ!!
ロアが一歩を踏み出した。それはゼフィロスの演算を無視し、本来なら数百歩かけなければ届かないはずの虚空を、まるで薄い紙を破るように直進してきた。
「……何ッ!? 移動座標が読み取れん……!?」
「……掃除、してあげる!」
ロアが、頭上から聖葬槌を振り下ろす。黒いノイズを纏った一撃が、ゼフィロスが張った質量ゼロの防御障壁に接触した。
パリンッ――!!
それは、ガラスが砕けるような脆い音だった。絶対に壊れないはずの管理者の理が、ロアの黒い光に触れた端から定義を失い、意味を持たないただの塵へと変わっていく。
「……ぐ、ぉっ!? 私の……私の完璧な空間が……拒絶されているだと!?」
ゼフィロスが、翡翠の翼を盾にして後退する。翼の数枚が黒いノイズに蝕まれ、一瞬で石炭のように黒ずんで崩れ落ちた。
「ロ、ロア……!?」
ケージの中から見守っていたノエルが、その尋常ならざるロアの姿に息を呑んだ。
今のロアからは、いつもの温かな掃除屋さんの気配がしない。ただ、世界の汚れを削ぎ落とすためだけに研ぎ澄まされた、無慈悲な刃のような冷徹さだけが漂っていた。
「……ノエル。……今、助けるから」
ロアの声は、地底から響くようなノイズ混じりの低音になっていた。
彼はそのまま、ノエルを閉じ込めている捕獲ケージへと、ゆっくりと歩み寄る。 その一歩ごとに、翠風の塔の床が剥離し、翠色の光が黒く塗りつぶされていく。
「……ナハト! 計算を回せ! このままではロアが、塔のルートサーバーそのものを物理的に破壊してしまう!」
「……演算不能。……ロアの出力、定義限界を突破。……修復者の枠を、超脱したと推測」
ロアの黒い手が、捕獲ケージの格子に触れた。管理者しか開けられないはずの光の柵が、ロアの意志一つで存在しないものとして掻き消える。
「……ロア、もういいわ……! もう、やめて!!」
自由になったノエルが、ロアのその冷たい手を、必死に両手で握りしめた。
「……そんな悲しい光、使っちゃダメ!! あたしが、あたしがなんとかするから……ロアは、笑っててよ!!」
ノエルの涙が、ロアの黒く染まった手に落ちた。
その瞬間。
爆発しそうだった黒いノイズが、ノエルの温もりに触れて、わずかにその勢いを弱めた。
(第77話 終わり)




