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第72話 翠の境界、空を刻む風

「……じゃあ、行ってくるね、フィオナ!」  


 ロアが、村の門の前で大きく手を振った。


 背中には、激闘を経て多くの傷が刻まれた聖葬槌。  

 火焔の要塞を正常化したことで、周囲を覆っていた不自然な熱波は完全に消え去り、村にはかつての穏やかな空気が戻っていた。


「死なないでよ、ラグ。あんたの新しい剣、私が世界中から探し出してやるんだから」  


 フィオナが、少し赤くなった目でラグを睨みつける。


「へっ、楽しみにしてるぜ。……今度は、俺様が溶かされるくらいじゃ折れねえ、最高の相棒を頼むわ」  


 ラグは、腰の空っぽな鞘を叩いて笑った。剣はない。  


 代わりに彼の背には、フィオナが村の鍛冶屋に無理を言って打たせた、急造の分厚い鋼鉄板が背負われている。剣を捨てた今の彼にとって、それは以前の大剣よりも似合っているように見えた。


 ラグの背筋はかつてないほど真っ直ぐに伸び、その瞳には盾としての揺るぎない覚悟が宿っていた。


「さあ、出発だ。……シオン、次の方角は?」


「北西だ。ここから約20キロ先、標高5000メートルに位置する浮遊岩礁地帯――そこに翠風の塔の基点がある」 


 シオンのホログラムが、空中。青い地図を展開した。


 一行は村を離れ、険しい山道を下り、透明感のある風が吹き抜ける草原へと足を踏み入れた。  


 進むにつれ、周囲の景色が少しずつ変貌していく。地面から浮き上がり、空中で静止したままの巨大な岩石。  右から吹いてきたかと思えば、次の瞬間には真下から突き上げてくる気まぐれな風。


「……気持ち悪い。空気が、めちゃくちゃに混ざってる」  


 ノエルが、不快そうに眉をひそめた。彼女は杖の先を風にかざし、精霊魔法の術者ならではの鋭い感性で理の歪みを読み取っていた。


「ノエル、大丈夫?」


「……ええ。ただ……ここに来てから、魔力の流れが変なの。まるで、誰かが空の上で巨大なミキサーを回してるみたい。……それに、なんだか少し……懐かしいような、嫌な予感がするの」


 ノエルの言葉は、風の音にかき消されるように途切れた。彼女のルーツは、かつてこの空の領域にあったとされる古い民にあるという説がある。

 シオンもナハトも、そのデータについては沈黙を守ったままだ。


 一行が、巨大な浮遊岩がアーチのように重なり合う翠の境界へと差し掛かった、その時だった。


「っ、危ない!!」  ナハトが、反射的にロアの襟首を掴んで後方へと引き寄せた。


 シュンッ――!!


 目に見えない何かが、ロアが今しがた歩こうとした直近の空間を通り抜けた。

 直後、地面に生えていた丈夫な低木が、まるで鋭利な剃刀で撫でられたかのように、音もなく上下に泣き別れて倒れた。


「……風の、刃……?」  ロアが目を見開く。


「……正解だ。物理的な風ではない。空間の座標データが細長く剥離し、触れたものを強制的に切断する断裂レイスと呼ばれるバグだ」  


 シオンが、周囲の空間を赤くスキャンした。そこらじゅうに、透明な、けれど確実に命を奪う死の糸が張り巡らされている。


「お、おい、待てよ。こんなのがそこら中にあるのか!? 剣もない俺が先頭を歩いたら、一瞬でぶつ切りにされちまうぞ!」  


 ラグが、冷や汗を流しながら足を止めた。


「……ラグ、お前の出番だ。先程言ったはずだ。お前の肉体そのものを盾にするのではなく、今度は空気そのものを盾にする方法をな」


「……空気、だと?」


「ノエル。……お前の魔力で、一時的に周囲の気圧を固定しろ。……ラグ、貴様はその高圧の空気の壁を、力任せに前へと押し流。そうすれば、剥離した断層を一時的に押し退けて道を作れる」


「……ハッ。相変わらず、無茶苦茶な注文だぜ」  


 ラグが、ニヤリと笑って拳を突き合わせた。


「分かったわ、やってみる……! ラグ、行くわよ!」


「おう! こい、お嬢様!!」


 武器を失った戦士と、秘密を抱える魔術師。  

 二人の連携による、天空の塔への過酷な挑戦が幕を開けた。


(第72話 終わり)


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