第65話 逃走、あるいは崩壊の序曲
「ラグ!!」
ロアの悲鳴が、泡立つマグマの荒野に虚しく響いた。
愛用の黒き大剣は、半分から上がドロドロに溶け落ち、見る影もない鉄の塊と化して地面に突き刺さっている。 ラグは、黒焦げになった右腕を抑え、荒い息を吐きながら後方へと吹き飛んでいた。
「ククク……無駄だと言っただろう。俺の領域に触れるすべての運動エネルギーは、熱として消費される。剣だろうが、肉体だろうがな」
溶岩の身体を持つ使徒が、悠然と歩みを進める。彼が一歩踏み出すたびに、周囲10メートル以内の大地がドロリと液体へと還っていく。
「ラグ、退がれ! 今のそいつには指一本触れることもできん!」
シオンが空間を走査しながら、鋭い警告を飛ばす。
「ノエル、広域の冷却フィールドだ!効果は薄いだろうが、ロアとラグを逃がすための3秒を稼げ!」
「わ、わかってる! 氷河の嘆き(アイス・ディメンション)!!」
ノエルが悲鳴に近い詠唱を放ち、杖の先から猛烈な吹雪を噴出させた。
数千度の熱波と極低温の魔力が激突し、周囲に視界を遮るほどの白煙が爆発的に広がる。
「……姑息な真似を」
使徒が不快そうに手を振ると、白煙は瞬時に熱風に焼き払われた。
だが、そのわずかな隙を突き、ラグはノエルに抱えられ、ロアはナハトに強制的に腕を引かれて、荒野の岩陰へと飛び込んでいた。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……っ、あぁぁぁぁぁっ!!」
岩山の影、わずかに地熱が低い場所に辿り着くと、ラグが堪えきれない苦鳴を上げた。 右手の革手袋は皮膚と癒着して焦げ付いており、肉が焼ける嫌な匂いが立ち上っている。
「ラグ、動いちゃダメ! すぐに直すから!!」
ロアが必死の形相で聖葬槌をラグの右腕に掲げた。
青い光が傷口を覆い、バグった因果を無理やり書き換え、数秒後には焼けた皮膚が元の健康な色へと戻っていく。
「……ふぅ。……助かったぜ、ロア」
ラグが震える手で、再生したばかりの自分の拳を見つめた。 痛みは消えた。傷跡一つない。だが――その表情は、かつてないほど暗く沈んでいた。
「……剣が、ねえ。俺の、命の次くらいに大事な大剣が……」
傭兵時代から何度も手入れし、自分の身体の一部のように使い込んできた武器。それが、戦いにもならず「溶かされた」という事実は、物理の力を信じてきたラグのプライドを無残に粉砕していた。
「……生体反応、依然として混乱状態。周辺温度、上昇を継続。滞在限界まで、あと5分」
ナハトが無感情に現状を報告する。
「ラグ、元気出して! またお掃除して直せばいいよ!」
ロアを元気づけようとするロアだが、シオンがそれを厳しい顔で遮った。
「甘いぞ、ロア。今の奴の「溶解」の理は、物理接触そのものを否定している。お前の槌が届く前に、お前の腕ごと溶かされるのが目に見えている」
「でも……!」
「ロア」
震える声でラグが割って入った。彼は膝を抱えるように座り込み、地面を睨みつけていた。
「……あいつの言った通りだ。俺、ビビっちまった。自分が溶かされるのを、初めてまともに意識しちまったんだ……。この怖さは、スラムで飢え死にしそうだった時より、ずっと重い」
豪傑のラグが漏らした、初めての本音。
それを聞いたノエルが、かけるべき言葉を失い、自らの手のひらをギュッと握りしめる。
重苦しい沈黙が、熱風と共に一行を包む。 そんな中、ロアだけが何とか場を和ませようと、無理に笑顔を作って言った。
「だ、大丈夫だよ! ほら、このお掃除が終わったら、みんなで僕と爺ちゃんの山小屋に行こう? 美味しいごはんを食べてさ、暖かいベッドで寝れば、きっと元気になるよ! 爺ちゃんなら、ラグのために新しいもっとかっこいい剣を見つけてくれるかもしれないし!」
ロアの屈託のない、幼さすら残る無邪気な一言。
だが、その言葉を聞いた瞬間。 シオンとナハトが、一瞬だけ視線を交わし、深い沈痛の影を落とした。
「…………」
「…………」
ロアは知らない。シオンが手に入れた『ゼニスの管理ログ』に基づけば、あの山小屋のあった座標は、もう数ヶ月も前に完全な「消失領域」として登録されていることを。そこにガレン爺さんがいる可能性はおろか、山そのものが物理的に存在しなくなっているという真実を。
「……そうだな。……早く帰るためにも、まずはここを生き延びねばならん」
シオンが無理に感情を押し殺した声で、話を切り換えた。
「ラグ、立ち上がれ。武器がないなら、作ればいい。ロア、お前の槌にもう一つ仕掛けを施す必要がある」
「……仕掛け?」
「ああ。物理接触が無理なら、物理を超えた理で戦うしかない。これから撤退しつつ、俺の演算の全てを使って、奴を叩くための「パッチ」の設計に入る」
絶望の真っ只中、ロアだけが「帰る家がある」と信じて前を見ている。 その光景が、今は何よりも残酷で、そして何よりも強い希望のように見えた。
背後からは、着実に大地を溶かしながら迫る熱気が、すぐそこまで近づいていた。
(第65話 終わり)




