第56話 沈黙の村と、剥がれ落ちた音
その村に入った瞬間、ロアは耳元で世界が遮断されたような奇妙な圧迫感を覚えた。
風に揺れる洗濯物、走り回る猫、井戸端で身振り手振りを交わす村人たち。視覚情報は確かに動いているのに、そこには一切の音がなかった。はためく布の音も、鳴き声も、そして人々の話し声さえも。
「……気持ち悪い。……自分の足音も、心臓の音も、全部どこかに吸い込まれてるみたい」
ノエルが、自分の喉に手を当てて呟く。しかし、彼女が発したはずの言葉は、唇を離れた瞬間に薄い光の文字列となって空中に現れ、そのまま力なく地面へと剥がれ落ちた。
「……ナハト、これって……」
「……解析完了。……この領域一帯の音響付与プロトコルが物理的に切断され、実体化(テクスチャ化)しています。……簡単に言えば、音という属性が物として世界から剥がれ落ちている状態です」
ナハトが、地面に落ちて点滅している ……気持ち悪いという文字を無機質に見つめる。
「……信じがたい。……かつての管理権限下であれば、このような低次なエラーは即座に自動修復されていたはず。……地上の記述強度は、私の想像以上に脆弱だ」
シオンは不機嫌そうに鼻を鳴らそうとしたが、その「フン」という鼻鳴らしさえも、足元に虚しく転がる一文字に変わった。
一行が村の広場へ進むと、そこには異様な光景が広がっていた。白装束を纏った男が、巨大な透明な水晶を天に掲げ、跪く村人たちへ向けて何かを熱弁している。声は聞こえない。だが、男の口からは絶え間なく光輝く文字が溢れ出し、それが村人たちの頭上で聖なる静止、無音の救済という形を成して静止していた。
「……あいつ、何してるの?」 ロアが怪訝そうに呟く。
「……あれは理の巡礼者の司教か。……奴が持つ水晶が、周囲から剥がれた音のパケットを吸い取っている。……静寂を奇跡に見せかけ、人々の『声』というデータを管理しているのだな」
シオンの冷徹な指摘。
司教が一行に気づき、水晶を掲げた手をこちらへ向けた。すると、空中を漂っていた無数の無音の文字が鋭い刃へと変質し、一行を威嚇するように取り囲む。
「……掃除の邪魔しないでよ。……それ、村のみんなの大事な音だろ?」
ロアが聖葬槌を肩に担ぎ、一歩前に踏み出した。司教は声なき罵声を浴びせ
(足元には大量の不敬、異端という文字が散らばる)
手にした水晶を輝かせる。文字の刃がロアへと一斉に襲いかかるが、ロアはそれを避ける代わりに、槌を静かに地面へと振り下ろした。
――ドバキィィィィィン……ッ!!!!
聖なる衝撃波が広場を駆け抜ける。それは破壊の衝撃ではなく、世界に接着剤を塗布するかのような、優しくも強固な修復の波動。
「……みんな、もう声を我慢しなくていいんだよ。……ほら、返してあげる!」
槌から放たれた黄金の燐光が、地面に落ちていた文字たちに触れた。その瞬間、文字は実体から現象(音響)へと還元され、爆発的な音の洪水となって村に帰還した。
「……う、わぁぁぁぁ! 聞こえる! 俺の声だ!」
「聞こえるわ! お父さん、私の声が届いてる!?」
歓声、泣き声、風の音、鳥の囀り。一瞬にして色彩を取り戻したかのような音の氾濫に、司教は驚愕し、手にした水晶にヒビが入る。
「……シオンの静止は、世界を守るためのものだったけど……あんたのは、ただの泥棒じゃんか!」
ロアの厳しい視線に、司教は文字ではなく、紛れもない恐怖の叫びを漏らして逃げ出した。
「……ふん。……私とあのような俗物を同列に語るとは、不愉快だな、修復者」
シオンはそっぽを向いたが、村人たちの笑顔の中を歩くロアの背中を、どこか眩しそうに見つめていた。
音を取り戻した村に、本当の平和が戻る。だが、司教が遺した水晶の欠片からは、まだ見ぬ巨大な組織――理の巡礼者の不気味な気配が漂っていた。
(第56話 終わり)




