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第139話 絶対特異点と世界の澱み

 ギギギギギギギギ……ッ!!


 重々しい扉を抜けた瞬間、全身の皮膚が粟立つような濃密な瘴気がロアたちを包み込んだ。  

 マスターシステム中枢『絶対特異点』。そこは、無機質な機械の部屋などではなかった。見渡す限りの空間が、赤黒いノイズとドロドロに溶けたデータの泥で満たされ、まるで巨大な怪物の胃袋の中に放り込まれたかのような、おぞましい光景が広がっていた。


「うっ……! な、なんだここは……息が、詰まる……ッ!」


 ラグが顔をしかめ、大剣を杖代わりにして片膝をつく。


「大気中のデータ濃度が異常だわ。少しでも魔力障壁を解いたら、瞬きする間に存在を書き換えられて、ドロドロのバグにされちゃう……!」


 ノエルが青ざめた顔で杖を強く握りしめ、必死に結界を維持している。アルゴスもまた、周囲に雷を這わせて瘴気を焼き払っているが、その表情にはかつてないほどの疲労が滲んでいた。


「ロア! 前方を見ろ!」


 アルゴスの鋭い声に、ロアは顔を上げた。


 空間の中心。  天井から降り注ぐ無数の太いケーブル——世界のあらゆる階層からエラーデータを吸い上げる黒い管——が、一つの巨大な繭を作っていた。そして、その繭の中心に、太い杭で張り付けられるようにして宙に浮いている人影があった。


「——じいちゃん!!」


 ロアの叫びが、澱んだ空間に響き渡る。


 ガレンだった。  髪は白く染まりきり、体の大半が赤黒いノイズに侵食されて半透明になっている。  彼に繋がれた無数のケーブルから、絶え間なくどす黒いエラーデータが流し込まれ続けているのだ。


 ピクッ……。


 ロアの声に反応したのか、ガレンがゆっくりと目を開けた。焦点の合わない虚ろな瞳が、やがてロアを捉える。


「……バカ野郎が。来るなと、言っただろうが……」


 かすれた、今にも消え入りそうな声。だが、それは紛れもなく、ロアを育ててくれたガレンの声だった。


「じいちゃん!! 今、助ける!!」


 ドンッ!!


 ロアは足元の泥を蹴り飛ばし、ガレンの元へと一直線に走る。


「やめろッ!!」


 ガレンが、血を吐くような声で叫んだ。


「俺に触れるな! 今の俺は……世界中の致命的なバグの塊だ! 俺をシステムから引き剥がせば、溜まりに溜まったエラーが一気に逆流して、世界そのものが崩壊する! いいから……俺ごと、システムを叩き壊せ!! お前のそのハンマーなら……俺を消せるはずだ!!」


 それは、世界を救うために自らを犠牲にする男の、最期の願いだった。


 だが。


 ガシィィィィィィンッ!!!!


 ロアは立ち止まらなかった。ガレンを縛り付けていた極太のケーブルに、迷うことなく想奏槌ハンマーピッケルをフルスイングで叩き込んだのだ。


「ロ、ア……ッ!?」


 ガレンが驚愕に目を見開く。


「だまって!!」


 ロアは涙目で、でも力強く笑い飛ばした。


「じいちゃんがいなくなる世界なんか、救ったって面白くない!  俺はお掃除屋だ! 家族じいちゃんにこびりついた汚れを落とすのが、俺の一番最初の仕事だろ!!」


 ドガァァァァァァァァァンッ!!!!!


 ロアの想奏槌から、極彩色の光が爆発的に溢れ出した。創造と修復の光が、ガレンを縛り付けていた呪わしいケーブルを次々と叩き割り、データの塵に変えていく。


 ズザザザザァァァァッ!!


 拘束を解かれたガレンの体が、力なく泥の上へと崩れ落ちる。 すかさずノエルとラグが駆け寄り、彼を安全な場所へ引きずり出した。


「やった! ガレンさんの救出に成功——」


 リンが解析結果を報告しようとした、その瞬間だった。


 ピタッ。


 空間のノイズが、唐突に止まった。音響エラーが起きたかのように、世界から一切の音が消え失せた。


「……何だ、この静けさは」


 アルゴスが冷や汗を流しながら周囲を警戒する。


 ガレンが、震える手で中枢の奥を指差した。


「……来るぞ。俺が、抑え込んでいた……世界の澱み……根本的なエラーの集合体が……ッ!」


 ブワァァァァァァァァァァッ!!!!!


 直後、中枢の奥底から、信じられないほどの暴風が吹き荒れた。ガレンという「蓋」を失ったことで、システムが処理しきれずに溜め込んでいた全階層の絶死バグが一気に溢れ出したのだ。


 ドロドロのデータの泥が渦を巻き、天高く立ち昇っていく。それは徐々に形を成し——巨大で、禍々しく、そしてどこか神々しさすら感じさせる「真っ黒な多面体」の姿へと変貌した。


 ズズズズズズズ……ッ。


 その存在が現れただけで、床がひび割れ、ノエルの魔力障壁がガラスのようにミシミシと軋み始めた。  ただそこにあるだけで、周囲のルールを強制的に破壊し続ける、絶対的な「エラー」。


「……こいつが、システムそのもの……世界を壊した、一番のバグ……」


 ラグが、圧倒的なプレッシャーを前にして声を震わせる。


 勝てるのか? 神のようなバグの塊を前に、人間の力が通用するのか?


 そんな絶望的な空気を——ロアが、いつものようにカラッと笑い飛ばした。


「でっかいなぁ! けど、どんなにでかくても、ただの『汚れ』だ!」


 ガキンッ!!


 ロアは想奏槌を強く握り、一番の巨大バグへとまっすぐに突きつけた。


「僕たちが、全部綺麗に掃除してやる!!」


 世界の命運を懸けた、最後の戦いが幕を開けた。


(第139話 終わり)



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