第117話 空白のデータ、直せない傷
降りやまない冷たい雨を避けるため、ロアたちはリンを連れて、近くにあった古教会のエントランスへと身を寄せた。 天井のステンドグラスからは薄青い光が差し込み、祭壇の周囲にはひび割れた石柱が並んでいる。
「少しは落ち着いたかい?」
ノエルが、身を縮めるリンの肩に自分の持っていた上着をふわりと掛けた。リンは無機質な瞳で上着を見つめ、やがて小さく頷いた。相変わらず左腕から下はブロックノイズのように粗く明滅し、目からは無意識に青い涙がツバ・ツバとこぼれ続けている。
「……温カサ、検知。……アリガトウゴザイマス」
「礼には及ばねえよ。だが、これからどうすっかだな」
ラグが外の雨模様を睨みながら頭を掻く。アルゴスは教会の入り口に立ち、剣に手を添えて周囲の警戒を怠らない。
『――おい、こっちの解析が終わったぜ。……だが、こいつは嫌な結果だぞ』
腰のルカくん2号・改から聞こえるルカの声は、いつになく重苦しかった。
「ルカ、リンの体のノイズ……なんとかなりそう?」
『……ロア。結論から言う。お前のそのハンマーでも、そいつの「記憶」は直せねえ』
「え……?」
ロアの目が大きく見開かれた。今まで、どれほど酷いバグでも、ガレンの残した想奏槌の力で「汚れ」を剥がし、元の形に戻してきた。この階層に来てからも、直せないものなどないと思っていた。
『あのな、お前のやってる「お掃除」ってのは、要するに「不純物を取り除いて、元の綺麗な状態に戻す」ことだろ?』
「うん、そうだよ」
『だがな、そのリンって子の「記憶領域」は、バグに汚染されてるんじゃない。……完全に「白紙」にされてるんだ。ディレクトリごと、綺麗さっぱり物理削除されてやがる』
ルカの言葉に、場が静まり返る。ノエルが息を呑み、リンの震える肩を抱き寄せた。
『消えたデータは、いくら表面を磨いても戻ってこねえ。壊れた花瓶の欠片が一つも残ってねえ状態だ。……お前がいくら「綺麗に」したところで、もう元には戻らねえんだよ』
「……そんな……」
ロアは強く唇を噛み、想奏槌を見つめた。 試しに、槌の柄の先でリンの明滅する左腕に軽く触れてみる。ガレンの『想奏槌』の光が暖かく広がり、一瞬だけ腕の輪郭がはっきりとするものの、すぐにまたノイズに飲まれて消えかかってしまった。
「……存在の定義そのものが欠落している。穴の空いた器に水を注いでも、こぼれ落ちるだけだということか」
アルゴスが苦渋に満ちた声で呟いた。
「……ハイ。……ワタシの存在確率は、現在12パーセントを推移。……間モナク、初期化モデキナイママ、無ニ還リマス」
リン自身が、感情のない平坦な声で己の死を宣告した。記憶も、目的も分からないまま。ただ「悲しい」という空っぽの感情だけを残して、消え去る運命。
「……ふざけんな。そんな悲しい終わり方があるかよ」
ラグが壁を鈍く殴りつけ、石の破片がパラパラと落ちた。
「……うん、諦めない。どうにかして新しい『欠片』を作る方法が……」
ロアが顔を上げようとしたその時だった。
ズズズズズズズ……ッ!!
教会の外、広場の水たまりが一斉に波立ち、激しい地鳴りが響き渡った。アルゴスが即座に剣を抜く。
「……敵襲だ。しかも尋常な数ではない!」
入り口から外を覗くと、雨の中、先ほどリンを襲っていた泥のような化け物――「悲哀のバグ」たちが、何十、何百という単位で蠢きながら、教会を取り囲むように集結してきていた。その群れの奥には、周囲の雨を吸い上げて巨大化した、塔のような高さの「特大の絶望」がそびえ立っている。
「ちぃっ! この子の『消えかけの不安定なデータ』に寄り集まってきやがったか!」
「ラグ、文句は後! 来るよ!」
ノエルが杖を構え、即座に防壁の魔法陣を展開する。
「……ワタシヲ、置イテ、逃ゲテ。……ワタシハ、直ラナイ、不良品……だから」
リンがうつむき、力なくロアの服の裾を引いた。だが、ロアはそれを優しく振り解き、力強く想奏槌を握りしめた。
「不良品なんかじゃないよ。君はまだ、何も始まってないだけだ」
ロアは振り返り、教会の外へと迫る黒い大群を見据えた。直せない傷があるという絶望。喪失の無力感。だが、それでも目の前の理不尽を見過ごすわけにはいかなかった。
「……今はまだ、直す方法が分からない。でも、君を消滅させやしない。……いっちょ、お掃除に行くぞッ!!」
ロアが先陣を切って、雨の降る死地へと飛び出していった。
(第117話 終わり)




