第116話 雨鳴りの街角、記憶なき少女
降り続く青い雨は、石畳に落ちるたびに、オルゴールのような微かな旋律を奏でている。美しくも物悲しいメロディが響く「常雨の都」は、どこまでも冷たく、そして静かだった。
「……じめじめして気分が塞ぐぜ。殴り合える敵でもいりゃ気も紛れるんだがな」
ラグが大剣を肩に担ぎ直し、湿った空気を鬱陶しそうに吐き出す。立ち並ぶゴシック様式の建築物はどれも精巧だったが、そこに「人」の気配は全くない。稼働し続けるガス灯のような薄青い光だけが、無人の街路をぼんやりと照らしていた。
「でも、音はとても綺麗……。すごく悲しいけど、優しい歌みたい」
ノエルが空を仰ぎ、頬に落ちる青い雫をそっと拭う。ロアは想奏槌をしっかりと握りしめて歩いていた。中央書架でインストールされた新パッチ『想奏槌』の微かな温もりが、この冷たい雨の中では唯一の救いのように感じられた。
『――あー、あー。聞こえるか、お前ら』
その時、ロアの腰につけた通信端末――ルカくん2号・改から、わずかにノイズ混じりのルカの声が響いた。
「ルカ! 通信、繋がったんだね!」
『おおよ。階層を跨いだから少してこずったが、お前らの持ってるその新しいパッチが、強力なビーコン代わりになってるみたいだ。……だが、なんだその場所は。こっちのモニターじゃ、環境データが全部「悲哀」の感情値で振り切れてやがるぞ』
「ここは第12観測区……人々の『悲しみ』を抽出するために作られた実験都市らしいんだ」
『……悪趣味なシステムだぜ。気をつけろよ、ロア。感情データが偏りすぎてる場所には、それを餌にする特異なバグが湧きやすい。……ッ、言ってるそばからだ! お前らの現在地から三ブロック先の広場で、高密度のエラー反応が出た!』
「誰かいるの!?」
『ああ、生存者……いや、この世界の「存在」だ。だが、かなりヤバい状況みたいだぞ!』
ルカの警告に応じ、アルゴスがいち早く雨の中を駆け出した。 ロアたちもそれに続き、水たまりを蹴立てて迷路のような路地を抜ける。
開けた円形広場に出たロアたちは、そこで信じられない光景を目にした。
中央にある崩れかけた噴水の縁に、一人の少女が腰掛けていた。 銀糸のような長い髪に、白いドレス。だが、彼女の左腕から下と、ドレスの裾はひどく欠落し、古いテレビのブロックノイズのように「チカチカ」と半透明に明滅している。
そして彼女の瞳からは、大粒の青い涙が絶え間なくこぼれ落ちていた。
「……欠損の進行がひどい。存在の定義が『剥がれ』かかっているぞ!」
アルゴスが鋭く叫ぶ。 少女の周囲には、彼女の流す「悲しみの涙」を啜ろうとするように、コールタールのような黒い不定形の怪物――環境バグの群れが群がっていた。
「あいつら、女の子を……! ラグ、アルゴスさん!」
「任せなッ!!」
ラグの剛剣が一閃し、アルゴスの放つ雷撃が黒い怪物を薙ぎ払う。 だが、手応えがない。物理攻撃も雷も、泥水のようにドロリと解けて、すぐにまた元の不定形へと戻ってしまう。
「チッ、水みてえな身体しやがって! 俺の剣じゃ斬れねえ!」
「下がって、二人とも! ――『想奏槌』!!」
ロアが二人の前に飛び出し、極彩色の光を放つハンマーを大地に叩きつけた。
ズォォォォォォォォォンッ!!!!!
それは破壊ではなく、「共鳴」だった。ガレンの残した「温かな想い」のエネルギーが波紋となって広がり、黒い怪物たちに直撃する。 悲しみに寄り憑くバグたちは、反発する強いエコーの光に耐えきれず、次々とガラスのように甲高い音を立てて砕け散り、光の粒子となって消滅した。
「すごい……一撃で全部綺麗にしちゃった」
ノエルが驚きの声を上げる中、ロアは息を吐き、噴水の縁に座る少女へとゆっくり近づいた。
バグが消え去っても、少女はまだ泣いていた。空虚な瞳から、ただ機械的に青い涙を流し続けている。
「……大丈夫? 怪我は、これ以上ひどくなってない?」
ロアがしゃがみ込み、視線を合わせて優しく問いかける。 少女は焦点の合わない目をロアに向け、ノイズ混じりの、途切れ途切れの音声で答えた。
「……ワタシは……第12観測ユニット……名称、『リン』……」
「リン。君は、ここで何をしていたの? なんで泣いているの?」
ロアの問いに、リンは首を小さく横に振った。彼女の半透明な左腕が、不快な電子音を立てて激しく明滅する。
「……ワカラナイ。……バグに、『記憶』を喰ワレタ。……ワタシが、ナゼ、誰ノタメニ記録ヲシテイタノカ……ゼンブ、失クシタ……」
リンの目から、再び大粒の滴が零れ落ちる。
「……残ッテイルノハ、『悲シイ』トイウ感情ダケ。……ダカラ、ワタシハ、泣キ続ケルコトシカ、デキナイ……」
何のために悲しんでいるのかも分からないまま、永遠に泣き続けることを強いられた存在。 それが、この上位世界の残酷なバグの正体だった。
「……そんなの、悲しすぎるよ」
ロアは、自分の胸元で微かに脈打つ「想奏槌」を握り直し、リンの冷たい右手を両手でそっと包み込んだ。
「大丈夫だよ、リン。君の失くしたもの、僕たちが絶対に『お掃除』して、取り戻してあげるから」
その言葉に、リンの無機質な瞳が、ほんの少しだけ揺らいだ気がした。雨鳴りの音が響く冷たい都で、ロアたちの次なる戦いが、静かに幕を開けた。
(第116話 終わり)




