第113話 色褪せない断章
巨大な真鍮の扉が重い音を立てて開くと、そこにはこれまでの無機質な書架とは全く異なる光景が広がっていた。 図書館の中枢――。そこは、上下左右が反転したような球体状の巨大空間で、中心部には巨大な光の柱が、心臓の鼓動のように脈動しながらそびえ立っていた。
「……すげぇな。ここは、全部のデータが『生きてる』みたいだ。」
ラグが圧倒されたように呟いた。 光の柱の周囲には、数千、数万もの瓶が重力に縛られず、螺旋を描くように浮かんでいる。 それら一つ一つが、廃棄区画で見つけたものとは比較にならないほど強烈な光を放ち、空間全体を極彩色のオーロラのように彩っていた。
「ロア。……あそこだ。あそこに、他とは明らかに異質なデータ群がある。」
アルゴスが光の柱の根元付近を指し示した。そこには、上位階層の厳しいセキュリティによって幾重にも「ロック」された、一際大きな黒い石箱が置かれている。
「……うん。……呼んでる。誰かが、僕を呼んでる気がするんだ。」
ロアは吸い寄せられるように、その箱へと歩み寄った。彼が聖葬槌の柄に触れると、槌に宿る「透明な石」が共鳴するように白銀の光を放った。
パキィィィィィィィンッ!
幾重にも張り巡らされた保護回路が、ガラスを割るような音と共に砕け散る。箱が開き、中から現れたのは、一つの記録瓶だった。だが、その中身は灰色ではない。夕焼けのような橙色と、深い森のような緑色が混ざり合った、ひどく複雑で、けれど温かい色彩が渦巻いていた。
「これ……。」
ロアが震える手でその瓶に触れた、その瞬間だった。
『――よお、ロア。元気でやってるか?』
聞き覚えのある、しわがれた、けれど力強い声が頭の中に直接響いた。
「じいちゃん!?」
ロアの視界が歪み、一瞬にして光景が切り替わる。そこは、どこかの居酒屋のような……いや、若い頃のガレンが、まだこの「世界の外」で戦っていた頃の記憶の断片だった。
『……ここにあるのは、俺がこの世界で見捨てられなかった「バグ」だ。……仕事としては、とっくに消去したはずの想いだがな。……掃除をしてると、どうしても手が止まる瞬間がある。……誰かの未練、誰かの祈り。……完璧な世界を作るには邪魔なものだが、それこそが、その人間が「そこにいた」という唯一の証明なんだ。』
記憶の中のガレンは、若かりし日の精悍な顔立ちで笑っていた。その隣には、彼が守ろうとした「名もなき世界」の住人たちが、笑顔で酒を酌み交わしている。
『ロア。……この「汚れ」を磨き消さずにここに隠したのは、俺の弱さだ。……だが、同時にこれこそが、俺が最後まで人間でいられた理由でもある。……これを受け取れ。お前なら、この弱さを「強さ」に変えて、この冷たい図書館ごと書き換えられるはずだ。』
――現実へ、意識が戻る。ロアの手の中には、ガレンがかつて「捨てられなかった」想いを封じ込めた瓶が、確かな温かさを持って収まっていた。
「じいちゃん……。そうだったんだね。」
ロアが涙を拭い、瓶を胸に抱きしめた。完璧主義のシステムにとって、この瓶は「深刻なエラー」そのものだ。だが、お掃除屋にとっては、これこそが磨き上げるべき「真実」の光だった。
――その時。
「――管理者権限を持たぬ者による、最重要セクターへの侵入を確認。」
空間全体の光が、一瞬にして刺すような冷たい青色へと変わった。
「ッ、ロア、危ない!!」
ラグが叫び、ロアを突き飛ばした。直後。ロアがいた場所を、水銀のような滑らかな光跡が走り抜け、石の大地を豆腐のように切り裂いた。
光の柱の影から、音もなく「それ」が現れる。それはマニコットのような機械的な人型ではなかった。 液体金属のような流動的な身体を持ち、顔には百もの「電子の目」が明滅する、高度自律防衛ユニット。
「……第11観測区、中央司書……。」
エイラの言っていた、「番人」のさらに上を行く執行者。
『対象が所持する「非効率な情動データ」の即時返還、および当該バグの永久抹消を推奨します。』
司書の身体が、鏡のように一行を映し出す。それはまるで、彼ら自身の過去や弱さを解析し、それを武器に変えようとしているかのようだった。
「……爺ちゃん。……返さないよ、これは。」
ロアが聖葬槌を構え、その目は恐怖を通り越し、静かな闘志に燃えていた。
「これは、僕たちがこれから守る世界の、最初の『理』なんだから!」
(第113話 終わり)




