第110話再会の約束、未知の世界へ
上位執行者が消滅した後の「廃棄区画」には、耳が痛くなるほどの静寂が戻っていた。ロアが作り出し、ラグが蹴って高く跳んだあの透明な「足場」が、主を失ってもなお、空中にポツンと浮かんでいる。
「……消えないのね。」
エイラが、その足場にそっと手を触れた。 指先が硬質なデータに触れ、小さな波紋が広がる。
「普通、この領域で実体化したデータは、マスターシステムの走査が入れば瞬時に霧散するわ。……でも、これは違う。まるでこの空間に新しい『理』として根付いてしまったみたい。」
「僕が……、これを?」
ロアが自身の聖葬槌を見つめた。ナハトの意志が宿り、シオンのマスターキーがインストールされたその槌には、もはや単なる「剥離」を超えた力が宿りつつあった。
「直すんじゃない。……新しく作り変えたのか、ロア。」
アルゴスが雷の余韻を消しながら、感嘆したように呟いた。これまで「守護者」として、壊れた秩序を守ることばかりを考えていた彼にとって、この「創造」の光景はひどく眩しく、そして希望に満ちたものに映った。
「……さあ、感傷に浸ってる時間は無いわ。」
エイラが空を見上げた。赤銅色の夕暮れのあちこちに、いつの間にか「赤い点」がいくつも灯り始めている。 それは執行者よりも遥かに小さな、無数の浮遊カメラユニット――マスターシステムの「目」だった。
「即時デリート(削除)に失敗したバグを、システムは『深刻なシステム侵食』として再定義した。……次は、今のような一体だけでは済まないわ。」
「へっ、望むところだ。ゴミの山で囲まれるよりは、派手にやり合った方が性に合ってるぜ。」
ラグが鉄剣を肩に担ぎ直し、口角を上げた。だが、その瞳には冷静な警戒の色が宿っている。
エイラは一行を促し、廃棄区画のさらに深奥へと進んだ。 そこには、巨大な二つの歯車が噛み合うような形をした、古びた石造りの「門」がそびえ立つ。
「ここが、最初のエラー領域――『並行接続区(実験世界)』への転送ゲートよ。」
門の向こう側は、暗い渦のような光が渦巻いており、その先を窺い知ることはできない。
「エイラさんは、一緒に来ないの……?」
ノエルが、エイラの服の裾をそっと掴んで問いかけた。 初めて出会った上位世界の住人。どこか寂しげで、けれど慈愛に満ちた彼女との別れが、ノエルには寂しかった。
エイラは優しくノエルの髪を撫で、微笑んだ。
「私は、この場所を見守るためにガレンさんに託されたの。……ここから先は、管理者権限を持たない者が足を踏み入れれば、二度と元のコードには戻れなくなるわ。だから、私はここで扉を閉じる『番人』でいなきゃいけない。」
エイラはロアに向き直り、その小さな肩に手を置いた。
「ロア。ガレンさんがあなたに槌を託したのは、あなたが強いからじゃない。……不完全なものを、不完全なまま愛せる人だと思ったからよ。」
「……じいちゃんが……。」
「行って。……そして、いつかこの冷たいマスターシステムの最深部まで、あなたの『温かいバグ』を届けてあげて。……それが、私たちすべての祈りだったのだから。」
エイラが端末を操作すると、門の歯車が轟音を立てて回り始めた。渦巻く光が強まり、一行を吸い込むような重力が発生。
「……じゃあ、行くよ。エイラさん、ありがとう!」
ロアが一番に足を踏み出し、ノエル、ラグ、アルゴスがそれに続く。
「エイラ! 達者でな! またそのうち、ゼニスの酒でも持ってきてやるよ!」
「……期待せずに待っているわ、ラグさん。」
最後にアルゴスが深く一礼し、光の中へと消えていった。
ゲートの光が収束し、完全に閉じられる瞬間。エイラの唇が、声にならない言葉を紡いだ。
(……ガレンさん。あの子は、きっと……。)
静寂が残る廃棄区画。エイラの一人きりの影が、ガラスの大地に白く伸びていた。
浮遊感。あるいは、身体が数万ものパルスに分解され、再構成されるような感覚の果てに。
ロアが目を開けた。
「……っ、ここは……?」
靴の裏に伝わる感触が、廃棄区画のガラス屑とは明らかに異なっていた。 硬く、冷たい。 だが、植物の腐りゆくような「生」の匂いが混じっている。
視界が晴れる。そこは、果てしなく広がる「巨大な図書館」のような場所。
いや、図書館というにはあまりに無機質だ。空を衝くほどの高さを持つ棚には、本ではなく「液体に浸された灰色の結晶」が何万、何億と整然と並べられている。 そして、その巨大な書架の合間を、巨大な真鍮製の歯車が音もなく、ゆっくりと空中で回っていた。
「……なんだこれ。空が無い……?」
ラグが呆然と呟いた。頭上にあるのは、どこまで行っても続く天井と、その隙間に絡みつく無数の配管、そして鈍い光を放つ人工の照明だけ。
――静止。 風のひとつも吹かない、完璧に管理された「死せる知恵」の世界。
「……ルカくん2号・改。ここ、どこだかわかる?」
ロアの問いに、黄金のドローンはピピピッ、とノイズ混じりの反応を返した。
『――現在地特定、失敗。……座標系ガ、存在シナイ、領域デス。 領域名:第11観測区――『停止した時計塔』。』
一行の目の前で、一つの真鍮製の人形が、カチ、カチ、と不気味な関節音を立てながら動き出した。
彼らの新たなお掃除の舞台は、色を失った機械の迷宮。
(第110話 終わり)




