第106話 記憶の鏡に映る少女
立方体が乱雑に漂う海を抜け、一行は周囲が鏡のように全てを反射する「鏡面セクター」へと足を踏み入れた。 足元の反射するパスの先に、ひときわ異彩を放つ、巨大な黒い結晶体。
――静寂。鏡の世界に、ノイズの鼓動だけが響く。
「……これ、エイラさんの……?」
ロアが呟くと同時に、結晶体の表面に映像が浮かび上がった。映し出されたのは、バグに侵食され、崩壊していく「名もなき箱庭」の光景。
灰色の空の下、ボロボロの服を着て、独り泣きじゃくる幼い少女がいた。
「……ああ、嫌。……見ないで……!」
エイラの声が震える。 映像の中、絶望に沈むその少女に、一人の男が歩み寄った。全盛期の、まだ白髪の混じっていない逞しいガレンだ。
『……立て、おチビ。泣く暇があるなら、この槌を握れ。』
ガレンは少女を抱き上げるでもなく、武骨な金槌の柄を突き出した。
『お前の世界は死んだ。だが、お前が生きているなら、その記憶を俺が守ってやる。……その代わり、お前が磨くんだ、この世界の外側を。』
(静止。過去のガレンと、現実のエイラの視線が重なる)
少女――エイラが、震える手でその槌の端を掴んだ。 それが、彼女が「案内人」としての役目を引き受けた、運命の瞬間。
「……私は、彼に拾われただけの、空っぽなアーカイブに過ぎない。……だから、こんな価値のない記憶、消えてしまえばいいと思ってたのに……ッ!」
エイラが結晶体に駆け寄ろうとしたその時。
オギャァァァァァァァァァァッ!!!!!
セクター全体を震わせるような、極大の泣き声。エイラの強い感情に惹きつけられ、虚空から数百を超えるメモリー・イーターの群勢が溢れ出した。
「ハッ、上等だ! 価値があるかどうかは、俺たちが決めることじゃねえよ!」
ラグが、背中の巨大な二枚の背負い板を力強く引き抜く。
――一閃。
横一文字に振るわれた巨大な鋼鉄の塊が、空気を、そしてデータをなぎ払う。迫りくる数体の怪物を、ラグはその圧倒的な重量だけで押し潰し、演算の塵へ。
「アルゴス! 左は任せたぞ!」
「了解した。……誇り(アーカイブ)を汚すモノ、一匹たりとも通さぬ。」
アルゴスが雷装の大剣を構え、一段と低い姿勢で地を蹴った。
バチィィィィィィィィィン!!
(閃光。一筋の紫電が、鏡の世界を切り裂く)
アルゴスの移動は、もはや回避不能な落雷だった。怪物の群れが反応する前に、その「臍の緒」を正確に斬り飛ばし、広範囲の雷撃で連鎖爆破。
ラグが盾となり、怪物を一箇所に固め、アルゴスが雷で一気に殲滅する。二人の「大人の戦士」による、言葉を超えた阿吽の呼吸。
「……ラグ、アルゴスさん……!」
「……お掃除屋さん、何を呆けてるの。……核が来るわよ!」
エイラの鋭い声に、ロアが聖葬槌を振り上げた。 二人の戦士が開いた道、その最奥。 結晶体を狙う巨大な胎児の眉間に、ロアの黄金の槌が吸い込まれていく。
「――みんなの記憶を、喰うんじゃない!!」
ドォォォォォォォンッ!!!!!
衝撃波がセクターを駆け抜け、鏡面の世界に再びの静寂が戻る。
結晶体は傷一つなく、そこに映るガレンの姿もまた、相変わらず不敵に笑っていた。
「……お節介な人たちね。……本当、ガレンさんの選んだ通りの連中だわ。」
エイラが、頬を伝う一筋の涙を乱暴に拭い、小さく笑った。
(第106話 終わり)




