第105話 忘却の記憶層
設計所の白い雲を突き抜け、一行はさらなる下層へと降下した。視界が開けた先、そこに広がっていたのは、星の数ほども浮遊する「記憶の立方体」の海だった。
――漂う、かつての日常。
ロアたちの横を、一つの立方体が音もなく通り過ぎる。その表面には、どこかの街の穏やかな夕暮れと、手をつないで歩く親子の姿が映し出されていた。
だが次の瞬間、立方体はノイズと共に黒く染まり、粒子となって霧散する。
「……あ。……今、消えた……?」
ロアが愕然と声を漏らす。周囲を見渡せば、至る所で立方体が明滅し、かつての笑い声や、誰かの祈りが、実体のない残響となって虚空に溶けていた。
(静止。幾千万の「終焉」が、音もなく重なり合う)
「これが記憶層。……上位階層に吸い上げられた、管理期限切れのデータたちの末路よ。」
エイラの声には、冷徹な響きがあった。 ここでは「死」という概念さえ効率化され、ただの容量確保のための削除プロセスとして淡々と処理されている。
「……う、あ……ッ!!」
不意に、ノエルが耳を押さえて膝をついた。 銀髪が激しく揺れ、その瞳には耐え難い苦痛の色が浮かぶ。
「ノエル! どうした!?」
「……聞こえるの、みんなの声が……。消えたくない、忘れないで……って……熱い、悲鳴が、頭の中に……!!」
(轟音。演算の奔流が、一人の少女に牙を剥く)
感情の翻訳者である彼女にとって、この場所は「数千万の世界の断末魔」が鳴り響く地獄に他ならなかった。
その時だ。
オギャァァァァァァァァァァッ!!!!!
赤ん坊の泣き声のような、しかし身の毛もよだつ不快な「音」が、記憶の海を切り裂いた。
一行の前方、幾つもの立方体を「臍の緒」のようなノイズの触手で絡め取り、貪欲に啜り上げている異形がいた。
「……な、なんだありゃあ……化け物か!?」
ラグが大剣を構え、顔を歪める。 出現したのは、半透明の肌を持ち、未発達な四肢を丸めた「胎児」のような姿をした巨大な怪物――。
メモリー・イーター。 世界の欠片から「意味」を啜り取り、自身の演算リソースとして肥大化する、上位階層の原生生物。
怪物は大きな口を開き、一行に向けて無数のノイズの糸を放射した。
――加速。
アルゴスが雷装を纏い、一瞬でロアの前に躍り出る。溢れ出す電位がノイズの糸を焼き切り、その隙間にロアが滑り込んだ。
「……シオン、ナハト。この子の『痛み』を止めてあげて……!!」
(咆哮。黄金の槌が、光の尾を引いて爆ぜる)
地形を反転させ、宙に浮く立方体を足場にロアが跳躍する。
背後からは、苦痛に耐えながらもノエルが魔導杖を掲げ、純白の杭を胎児の核へと打ち込んだ。
「――剥離、開始ッ!!」
パリンッ!!!!!
怪物の頭部が砕け、啜り取られていた記憶が、輝く光の粒となって周囲に溢れ出す。だが、その光は行き場所を失い、霧のように消えていく。
(沈黙。救ったはずの光が、誰の手にも届かず消える)
「……ダメだ。やっぱり、消えちゃう……」
ロアが掲げた槌も、その光を繋ぎ止めることは出来ない。
エイラが、消えていく光を静かに見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……ここでは、記憶さえも贅沢品なのよ。お掃除屋さん。」
一行を乗せた光の回廊の先、さらに巨大な、記憶の「深淵」が口を広げていた。
(第105話 終わり)




