第98話 夕暮れの高台、二人の領域
日の入りが、近づいていた。 黄金色の陽光が、村外れの高台を優しく、けれど寂しげに包み込んでいる。
その高台の麓で、ロアたちはふと足を止めた。
「……ここから先は、二人で行ってこいよ」
ロアが静かに、しかし力強い声で告げる。 ノエルも、ラグも、アルゴスも、何も言わずに深く頷いた。 それが、永い戦いを共にした仲間としての、最大限の敬意だった。
「…………ありがとう、ロア」
シオンが、かすかに震える声で応える。彼はナハトの肩を借り、一歩、また一歩。 かつてガレンが愛し、自分たちを見守ってくれた丘の老木へと歩んでいく。
カサリ、カサリ。
乾いた草をゆっくりと踏みしめる音だけが、静寂の中に響いた。
ようやく老木の根元に辿り着き、二人は腰を下ろす。目の前には、燃えるようなオレンジ色に染まった村の景色が広がっていた。
「……ふふ。覚えているか、ナハト」
シオンが、遠くを見つめながらポツリと漏らした。
「ガレンが初めて、この世界のコードを組んでいた時のことだ。……あの人、自分の書いた構文がバグって、空が真っ青じゃなくド派手なピンク色になっちゃってさ」
シオンの口から、楽しそうな笑みが零れる。
「これも前衛的でいいじゃないかなんて、顔を真っ赤にして必死に言い訳してた。……僕たちはただ、呆れて横で見ているしかなかったのに」
かつて、管理者でも道具でもなかった頃。 ただの弟子と助手として、ガレンの無邪気な失敗を笑い飛ばしていた、幸福な記憶の断片。
「……はい。……あの時のガレンの顔、最高レベルの動揺として、アーカイブされています」
ナハトの声には、まだ少しだけ、電子的なノイズが波打つように混じっていた。
「……ああ。……本当に、他愛のない毎日だったな」
シオンは赤く染まる空を仰ぎ、静かに息を吐いた。
「…………少し、疲れたな」
その言葉と共に、シオンは隣に座るナハトの膝に、吸い込まれるように頭を預けた。
ズッ。
わずかに服が擦れる音。ナハトの膝は、無機質な演算領域の冷たさとは無縁の、確かな柔らかさと生きた温もりを持っていた。
「……こうして、誰かの熱を感じるのは……いつ以来だろうか」
膝枕のまま、シオンはナハトをじっと見上げた。夕闇が迫る中、彼女の透き通るような瞳と視線がぶつかる。
「……ナハトには、……苦労をかけたな」
感情を禁じた世界の管理者の、最後の自白。
「……謝っても、足りないくらいだ。……ずっと、僕のそばに居てくれて……ありがとう」
ナハトは、答えない。 ただ、呆然としたまま、焦点の定まらない瞳でシオンの顔を覗き込んでいた。
現実が、理解できない。目の前の少年が、自分の膝の上で今にも消えようとしていることが、論理の枠から激しく逸脱している。
けれど。
ナハトの唇が、無意識に震えた。彼女は何も言わず、ただ慈愛に満ちた、今までにないほど優しく、哀切な微笑みを浮かべた。
そして……。 シオンの細く透き通った手を、離さないように、壊さないように。
ギュッ。
静かに、しかし確かに、力強く握り締める。
太陽が地平線の向こうへと、完全に姿を消そうとしていた。
(第98話 終わり)




