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第96話 理の剥落、残された五分間

 シオンの頬を伝った透明な涙が、虹色の海に一滴、ポツリと落ちる。すべてが光に包まれ、修復されるはずだったその瞬間……。    


 ビキィィィィィンッ!!    


 天を劈くような、不快な電子の裂傷音が戦場に響き渡った。  


「……っ!? なんだ、今の音は!?」


 ロアが弾かれたように顔を上げる。美しい虹色のオーロラで満ちていた空が、一瞬にして、ザザザッ……と灰色のノイズに侵食され始めた。単なる雲でも、影でもない。 それは、描画処理を完全に投げ出したコンピューター画面のような、無機質で冷酷な無の広がりだった。


「……バカな。指導者のコアは、消去したはずだ……」


 アルゴスが大剣に手をかける。しかし、目の前の異常は物理的な剣で斬り裂けるものではない。遠くに見える「定義の山々」のテクスチャが、古い壁紙のようにペラペラとめくれ上がり、ベリッ、と剥がれ落ちていく。剥がれたその真下に隠されていたのは、形も、色も、概念すらも存在しない灰色の静止画面スタティック


「ロア……! 地面が……足元が、消えていくわ!!」


 ノエルが悲鳴を上げる。輝く虹色だったはずの足元の海が、急速に彩度を失い、ボロボロと砂のように崩落し始めていた。  


「……警告。全ルートサーバーへの自死コードの流入を確認。……指導者の、死後契約デッドマンズスイッチが……発動しました』    


 ナハトの電子音が、今まで聞いたこともないほど激しいノイズ混じりに歪む。  


「ナハト! 修正は!? シオン、直せるんだろ!?」


 ロアが叫び、シオンへと駆け寄った。少年シオンは、震える細い手で虚空にホログラムのインターフェースを展開する……だが。    


 スカッ……。    


 シオンの半透明な指先が、キーボードを無情にすり抜けた。


「……嘘、だろ……?」


「……リソースが、足りない。ロア……僕の、演算負荷コストが……世界を、定義しきれていない……ッ」    


 少年の顔が、絶望に歪む。彼がどれほど必死に入力しようとしても、その存在自体が「世界のバグ」として処理され、システムからの干渉を完全に拒絶されている。  


「……演算完了。……世界定義の剥落率、70%を突破」  


 ナハトの冷徹な宣告が、重く、無慈悲に響き渡る。  


「完全崩壊……すべての『存在証明』が抹消されるまで、あと300秒。……残り五分、です」


「五分!? 五分で、この世界が全部真っさらに消えるっていうのか!?」


 ラグが叫ぶ。  


  「そんな……じゃあ、村は!? リゼは!?」


 アルゴスの視界の先、水平線にうっすらと見えていたはずの村の輪郭が、


 ズズズ……


 と灰色のノイズに飲み込まれ、今にも消えようとしていた。自分たちが血を流し、命を懸けて守り抜いた村が、人々が、その存在そのものが、ただの不用データとしてゴミ箱へ捨てられようとしている。  


「……だめだ、槌でも……お掃除できない……! これは汚れなんかじゃない……キャンバスそのものが無くなってるんだ!!」


 ロアの手の中で、聖葬槌が直す対象を見失い、ブルブルと力なく震えていた。  


「……論理外の……隠し領域アーカイブを、強制展開ランタイムする……ッ! この座標を、僕の存在データで、力技で固定し続ける……!」


「シオン!? でも、それじゃお前の身体が――」  


「……五分だ。……ナハト、この残された五分間で……全員を村へ、強制送還テレポートしろ。あそこなら……世界の定義が、まだ……濃いはずだ」


 シオンの半透明な身体が、バチッ、バチッ、と激しく明滅を繰り返す。彼自身の命そのものを、崩壊を食い止めるための杭として世界に打ち込む。それは、演算を全く度外視した、管理者としてのあまりに無謀で痛ましい反逆だった。  


「ロア、……行け。……最後のお掃除、……まだ、……終わっていない、……から」


 残り、240秒。  


 世界が完全な灰色に飲み込まれる寸前、眩い光が一行を包み込み、空間の彼方へと進路を拓いた。


(第96話 終わり)


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