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逃走

静かだった。


 さっきまで暴れていたドラゴンもどきは、ただの肉の山になっている。

 

 ホールの真ん中に、ひよりとレンだけが立っていた。


 ステージの上には——ももりん。


 スポットライトに照らされている


「……ももりん」


 レンが、その名前を呼んだ。


 ひよりの心臓が、どくんと跳ねる。



 ももりんの肩が、びくりと揺れた。

 それでもステージからは降りてこない。


 レンは一歩前に出る。


「話がしたい。

 あんたが、ここで何を——」


 ジジジッ。


 天井スピーカーが、一斉に赤く点いた。


『三次試験、補足プログラムを開始します』


 冷たい声が、空気を割る。


『ターゲット再設定。

 帰還者およびマーク保持者を——優先排除』


 ひよりの背筋に、冷たい汗が流れた。


「優先って……ちょっと待って、それ私も入ってません?」


 床が、かすかに鳴る。


 倒れていたゾンビたちが、一斉に身じろぎした。


 ぎち、ぎち。


 折れた首が起き上がり、濁った目が、ゆっくりと——


 レンと、ひよりだけを、見た。


「うわ、やっぱり私もだ……!」


 ももりんの周りだけ、ぽっかりと穴が空いたみたいに静かなまま。

 一体も、そっちへは向かわない。


 レンは、奥歯を噛み締めた。


「……ひより、下がれ」


「下がる場所がないんですけど!?」


 後ろを見てもゾンビ。

 前もゾンビ。

 横もゾンビ。


 じわじわと、包囲が狭まっていく。


「ルーチェ!」


 レンの肩の横で、空気がふっとまとまった。


「呼ばれなくても見てるってば」


 手のひらサイズの風の塊が、ふるふる震えながらゾンビの列を見回す。


「さっきみたいに、まとめて吹き飛ばせ」


「無理」


 即答だった。


「はやいな」


「はやく現実見なさいよ。

 さっき天井ぶち抜いた時点で、あんたの剣の中スッカラカンよ?」


 ルーチェの輪郭が、さっきより薄い。

 外側から、じわじわ崩れているのが分かる。


「じゃあ、もう一発——」


「もう一発撃ったら、この階ごと穴空くわよ。

 その他の人たちに聞いてみる? “吹き飛ばされたいですか”って」


 ひよりが全力で首を振った。


「ごめんそれはちょっと……!」


 ゾンビの足音が、コツ、コツ、と近づいてくる。

 腐った指先が、届きそうな距離まで伸びた。


 ルーチェは、すうっとレンを見た。


「それとね、レン」


「なんだ」


「——あたしの方も、そろそろ限界」


 その言葉に、ひよりが目を見開く。


 ルーチェの渦は、風というより“薄い影”みたいになっていた。


「こっちに長く留まりすぎるとさ、今度はあたしが引っ張られんの。

 世界の境目、あんたほど丈夫じゃないのよ」


 レンは、短く息を吐いた。


「つまり、どうなる」


「簡単に言うと——」


 ルーチェが、少しだけ笑う。

「もう限界」


 ひよりの顔から血の気が引いた。


「え!?」


「そう。バイバイ」


 ルーチェは、肩をすくめるようにふわりと消えた


 レンは、ほんの一瞬だけ目を閉じる。



 ゾンビが、とうとう腕を伸ばしてきた。

 ひよりはパイプを構えながら、声を張り上げる。


「レンさん!?やばそうです!!」


「分かってる」


 レンがひよりの方をちらりと見た。



 ひよりの左手首の上に、風の塊が降りる。


「え、ちょ、ちょっと待って何ですかこの——」


 皮膚の下で、何かがじん、と熱くなった。


 紺色の印が、淡く光る。


「俺の“魔法”の感覚。

 ほんのちょっとだけ、ルーチェが置いてってくれたみたいだな」


 


「うまく使えるかどうかは——ひより次第」



「剣、は戻ってきた

 しばらくは魔法も使えないな」



 次の瞬間、レンの手に重みが戻った。

 鞘ごと、いつもの剣。


 けれど、足元の“風の気配”は、まだ戻ってこない。


 ゾンビたちが、一斉に飛びかかる。


「ひより!」


「はいっ!」


 左手首の印が、熱を持つ。


 体が、軽い。


 足がひとつ前に出た瞬間——

 地面との距離感が、さっきと違うのが分かった。


(あ……これ——)


 レンと視界を共有したときのーー


 ひよりは、ゾンビの腕の間をすり抜けるように走った。

 寸前で、足首だけをパイプで叩き折る。


 バランスを崩したゾンビが、後ろの列に倒れ込む。


 レンが、その隙間に滑り込んだ。

 剣の背で顎をはね上げ、進路を切り開いていく。


「そのまま、足だけ見てろ!」


「はい!!」


 ひよりの視界の端で、ももりんがステージから一歩、後ろに下がった。


 扉の向こうから、誰かの声がする。


「桃瀬さん、配置に戻ってください」


 ももりんは、ぎゅっと拳を握った。


 ひよりの声が、遠くから届く。


「——絶対、迎えに行きますから!」


 振り向けば、きっと泣いてしまう。


 ももりんは前だけを向いて、扉の奥へ消えていった。


 その背中を見送る暇もなく、レンとひよりはゾンビの波を切り裂いていく。


 風のないホールで、足裏だけがやけに鮮明だった。

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