アイドル
三次試験会場、と書かれた紙がガムテで雑に貼られていた。
元はイベントホールだったらしい。
天井は高く、床はコンクリにむき出しの配線。
ひよりは、一人で折りたたみ椅子に座っていた。
スピーカーから、よく通る女の声が響く。
「三次試験に進んだ皆さんは、“特別候補”として優先的に戦力編成の対象となります」
(あ、はい……光栄です……)
「なお、この中から“とくに適性が高い”と判断された方には、個別に試験を受けていただきます」
ひよりの前に、係員が歩いてきた。
「北川ひよりさんですね。あなたが“個別”です。こちらへ」
「えっ」
思わず声が裏返る。
(なんで!?)
二次試験でゾンビから逃げるとき、ちょっと指示を出したせいだろうか。
それとも、どこかで変な評価がついてるのか。
桃農家の青年と眼鏡の女性が、遠くから心配そうにこちらを見ていた。
ひよりは、とりあえず立ち上がる。
心の中でだけ愚痴りながら、係員の後に続いた。
* * *
ホールの奥、かつてステージだった場所。
照明が落とされ、スポットライトがひとつだけ中央を照らしている。
「三次試験は、対強化ゾンビを想定した個別模擬戦です」
スピーカーの声が淡々と続く。
「特別候補——北川ひより。あなたには、これから“ある一人”と戦ってもらいます」
汗ばむ手を服で拭う。
待機位置に立たされ、ひよりは正面のシャッターを見つめた。
ギギギ、と重い音を立ててシャッターが上がる。
その向こうに、逆光のシルエットが浮かんだ。
小柄な体。
ラフなパーカー。
立ち姿だけは、妙に“見せ慣れている”。
ひよりの心臓が、一瞬止まった。
スポットライトが、その顔を照らす。
「……っ」
喉が、音にならない。
ステージに立っていたのは——
「も、桃瀬……鈴……?」
自分でも驚くほど、かすれた声だった。
画面越しで何百回も見た笑顔と同じ顔。
けれど、目の下には薄い影がある。
それでも、スイッチを入れるみたいに、舞台用の笑みを浮かべていた。
スピーカーが紹介する。
「三次試験の対戦相手を紹介します。
特別候補——“桃瀬鈴”。」
ひよりは、立っているのがやっとだった。
(ももりんが……ここで。なんで……)
ももりんが、新宿のコロニーを目指していたのは知っている。
でも、三次試験の“敵役”として、目の前に立っているなんて。
ももりんが、マイクもないのに、はっきり届く声で言った。
「初めまして、こんにちは」
アイドルの挨拶だ。
条件反射で、胸がきゅっとなる。
「桃瀬鈴です。
……えっと、今日は“ここ”では、少し違う役目をしています」
(役目……)
ももりんは、一瞬だけ視線を落とし、小さな声で続けた。
「……ごめんね、本当はこんなことしたくないんだけど」
ひよりの胸が、きゅっと痛む。
「でも、手加減したら、あの人たちが困るから」
「だから——全力で行きます。
北川ひよりさんも、できるだけ本気で来てください」
名前を呼ばれた瞬間、背筋がぞくりとした。
ひよりは、乾いた喉を無理やり動かす。
「あなたの顔に、傷なんてつけられません」
ももりんの目が、ほんの少しだけ笑った。
「それじゃ生き残れないよ……」
心が揺さぶられる。
スピーカーが宣言した。
「三次試験——開始」
その瞬間、床の上を見えない風が走った。
前髪がばさりと持ち上がる。
(え……)
ももりんが、すっと片手を上げた。
「——ごめん」
その一言と同時に、足元の空気が爆ぜた。
突風が、真正面からぶつかってくる。
「っ……!」
ひよりは咄嗟に腕で顔を庇う。
身体ごと後ろに押し戻され、膝が床にぶつかった。
(なに、この威力……! まるでレンさんみたい)
肺が焼けるみたいに痛い。
ももりんは、こちらをまっすぐ見ていた。
「終わりだね」
口調は柔らかいのに、言葉は容赦がない。
「立てる?」
ひよりは、歯を食いしばって立ち上がる。
「……立ちます。
倒れた心を、何度もあなたに立ち直してもらいました……」
「ごめんね」
ももりんが悲しそうにする。
その目の奥には、消えない疲れがあった。
(レンさんなら、こういうときなんて言うかな)
『むやみに突っ込むな。まずは相手の“癖”を見る』
「本物のももりんだ……かな? 笑」
頭の中で、レンの声がよみがえる。
ひよりは、床を蹴る。
そのまま真正面ではなく、斜め前に出た。
ももりんが、足の位置をわずかに変える。
(ステップだ……)
ライブで見た、あのステージ上のステップ。
でも今は——
横から風の壁が来る。
ひよりは、スライディングするみたいに床を転がってくぐり抜けた。
耳元を、暴力みたいな風圧がかすめる。
「うわっ、ぶなっ……!」
その勢いのまま、ももりんの足元に転がり込む。
(近い——!)
床に落ちていた折れたパイプをつかんで、振り上げる。
……けれど、その瞬間。
腕が、止まった。
(叩けない……)
頭の中に、配信で泣きながら「ありがとう」って言っていた顔。
画面越しに何度も救われた夜。
新曲が出るたび、震える手で長文の感想を書いたタイムライン。
全部がいっぺんに蘇る。
パイプを握った手が、ぶるぶる震えた。
「ひよ……」
ももりんが、小さく息を呑む。
ひよりは、歯を食いしばった。
「ごめん——」
パイプを握ったまま、わざと横に転がる。
そのわずかな躊躇が、致命的な隙になった。
足元で風が爆ぜる。
「っっ!!」
横から殴られたみたいな衝撃。
視界がぐるりと回って、背中から床に叩きつけられた。
肺から空気が全部抜ける。
「っ、は……!」
しばらく、息が吸えない。
耳鳴りの中で、ももりんの声も聞こえる。
「……だから、本気で来てって言ったのに」
悔しそうな響きが混じっていた。
(わかってるよ……そんなの……)
体が動かない。
(でも、こっちだって、推しを殴る度胸なんか持ち合わせてないんだよ……)
ももりんは、一度だけ目を閉じた。
「これ以上、長引いたら——あの人たちが、もっとひどいことする」
誰にも聞こえないくらいの小さな声。
でも、その口の動きは、ひよりの位置からもわかった。
再び、両手を広げる。
足元から、さっきとは桁違いの風がうねり始める。
(やば……)
ひよりの背筋に、冷たいものが走る。
ステージの空気そのものが、ももりんの中心に吸い込まれていく。
(このままじゃ——)
必死に体を起こそうとした、そのとき。
左手首の内側が、焼けるように熱くなった。
「っ……!」
ひよりは、思わず手首を押さえる。
皮膚の下で、何かがじわりと浮かび上がろうとしていた。
(これ……)
レンと一緒に走った時間。たった一日だけだけど。
視界を重ねたときの、あの感覚。
頭の奥で、舌打ちみたいな音がした。
(……おい、ひより)
聞き慣れた声だ。
(見てるからな。——ちゃんと、立て)
レンの声が、視界の縁に重なる。
同時に、遠くで鈍い爆音が響いた。
壁が砕けるような音。
コロニーのどこか別の場所で、誰かと誰かの戦いが始まっている。
ひよりは、ぎゅっと歯を食いしばった。
「……立ちますよ」
誰にともなく、そう呟く。
左手首の内側で、薄く紺色の印が、ゆっくりと形を取り始めていた。




