センス
ゾンビとの距離が、靴一足ぶんになった。
出口の前に立つその個体は、やはり他と違っていた。
皮膚の色も、目の濁りも、どこか“途中”で止まっている。
完全に死んでもいない。
完全に生きてもいない。
ひよりは、椅子の脚を構えたまま、そっと息を吐いた。
後ろには、短髪の青年と、眼鏡の女性。
二人の呼吸が、せわしなく背中にかかる。
「大丈夫です。
“倒さなくていい”ならなんとかなります!」
さっきそう言った手前、ここで腰が引けるわけにはいかない。
ゾンビは、ひよりの動きをじっと見ていた。
生前の癖なのか、ほんの少し顎を上げて見下ろすような視線をする。
それが、妙に“人間”っぽかった。
上の見張り通路に立つ影が、視界の端で揺れた気がした。
踏み出すか、下がるか。
ひよりの足は、一瞬だけ床に縫いつけられたみたいに動かなくなった。
その瞬間だった。
ゾンビの腕が、ぬるりと伸びてきた。
「っ──」
手首を掴まれた。
冷たい。
けれど、骨ばった指は妙に力強くて、簡単には振りほどけそうにない。
(やば──)
肩のあたりから、じわじわと力が奪われるような感覚がした。
恐怖、というより“死”という実感。
頭の中で、何かが空回りを始める。
(れんさん──)
名前を思い浮かべた、その刹那。
世界の輪郭が、ぐにゃりと歪んだ。
* * *
(……っ)
レンは、非常階段の踊り場で、壁に片手をついていた。
ひよりがコンテナのふたを投げさせ、ゾンビの膝を砕き、うまく通路を抜けていくのを見ていた。
(よし、そのまま行け……)
そう思った矢先。
出口前の個体が映った。
姿勢のよさ。
目の濁り方。
肩の上下。
操られている。
少なくとも、“ただ立たされているだけ”のゾンビではない。
ひよりが一歩、踏み出す。
足が止まる。
白い手が伸びる。
ひよりの手首を掴む。
(遅れた)
自分でも分かるくらい、判断が半拍遅れた。
視界の縁が、じりじりとにじむ。
視界“共有”では、ここまでだ。
ただ見るだけ。
手は出せない。
本来なら、駆けつけるしかない。
だが──
レンは、柄に握った手にぐっと力を込めた。
(……使うしかねぇか)
本当は、教えるつもりのなかった技。
1人ではあまりに危うい魔法。
視界ではなく、“感覚”を共有する。
一時的に、相手の身体操作に割り込む。
感覚共有。
レンは、ひよりの名前を、心の中で強く呼んだ。
(ひより。少し、貸せ)
魔力は体にはもう残っていない。
あるのは、腰の剣の中だけだ。
柄に込めた魔力の線を、ひよりの気配へと細く伸ばしていく。
視界の奥にあった“他人の目線”が、ぐっと自分の中に近づいてくる。
* * *
掴まれた手首の“重さ”が、急に変わった。
ひよりは、一瞬、自分の腕じゃないみたいに感じた。
体の内側に、別の呼吸が入り込んでくる。
肺の動き。
心臓の跳ね方。
足裏の感触。
全部、自分なのに、全部、自分じゃない。
(……え?)
思考が言葉になる前に、身体が動いた。
掴まれた手首に、すばやく力を乗せる。
自分の意志とは別に、肩の位置が半歩引かれた。
てこの要領で、ゾンビの指の力だけを外す。
ひよりの口が、勝手に息を吐く。
低く、短く。
「──そこだ」
ゾンビの重心が、一瞬だけ前に乗った。
それを待っていたかのように、足が動く。
床を蹴り、半歩踏み込み、靴先でゾンビの足首を払う。
同時に、椅子の脚を持った手が、最短距離で側頭部のすぐ横──耳の後ろあたりへ振り抜かれた。
骨を砕くのではなく、バランスだけを崩すような角度と力加減。
ゾンビの体が、ぐらりと傾いた。
後ろで息を呑む音がする。
短髪の青年と眼鏡の女性だろう。
(待って、今のわたしじゃ無理、こんな──)
ひよりがそう思った瞬間には、次の動作に移っていた。
掴まれていた手首を、逆にゾンビの肘の内側へ滑り込ませる。
少しだけ体を沈め、肩口に自分の肩をねじ込む。
体重を一気に前へ。
「──っ」
声にならない声とともに、ゾンビの体が前のめりに崩れた。
ひよりの身体は、そのまま相手を扉の横の壁に叩きつけるように回転する。
鈍い音。
ゾンビの頭が壁に当たり、その場でずるりと座り込んだ。
完全に動きが止まったわけではない。
だが、しばらくは立ち上がれそうにない。
その一連の動きを、“ひより自身”はただ中から見ているだけだった。
(なにこれなにこれなにこれ……)
頭の中で、ひよりの声が空回りする。
息が、勝手に整えられる。
視線が、勝手に周囲を確認する。
出口の扉。
足元の段差。
後ろの二人の位置。
レンの“目”の動きだ、と直感で分かった。
扉の横を開けるように、ゾンビの体がずらされる。
半身になって、背中を扉に向ける。
ひよりの口が勝手に開いた。
「今です。先に出てください」
短髪の青年が、ハッとしたように頷く。
「は、はいっ!」
眼鏡の女性も、その後を追うように扉に手をかけた。
扉が開く。
外の空気が流れ込んでくる。
二人の背中が通り抜けたのを確認してから、
ひよりの身体は一歩だけ下がった。
ゾンビが、まだかすかにもがいている。
椅子の脚が、わずかに構えを変える。
鼻梁、喉、心臓──と、一瞬で致命点をなぞったあと、
スッと構えが下に降りた。
ひよりの中に、レンの“ためらい”が流れ込んでくる。
(殺さないラインを、ちゃんと探してる……)
ゾンビの手首を壁に押しつけ、
指だけをありえない向きにひねる。
これでしばらく、掴みかかることはできない。
扉に背中を向けず、横歩きで退く。
最後の一歩で、ひよりの身体が扉の敷居をまたいだ。
その瞬間──
糸が切れたみたいに、全ての“別の感覚”が抜け落ちた。
* * *
レンは、非常階段の踊り場で息を吐いた。
「……っくそ、気持ち悪ぃ」
胃のあたりがひっくり返ったようにムカつく。
自分の足で立っているはずなのに、しばらく地面の固さの感覚があいまいだ。
ひよりの視界から見ていた世界と、
自分の視界から見ている世界が、頭の中でぶつかり合っている。
感覚共有の後遺症だ。本来ならお互いがこの力を共有することで交互に入れ替わり相手を撹乱できる。
後遺症などはでないんだが
(やっぱり、ひとりじゃ使いたくねぇな、これ)
息を整えながら、さっきの動きを頭の中で巻き戻す。
ひよりの筋力とリーチでできる最大限の動き。
致命傷にはしない。
でも、二人を逃がす時間は稼ぐ。
ゾンビの手首と指を壊し、視界を奪わず、声も上げさせない。
(……よくやったほうだろ)
自分で自分をそう評価してから、レンはすぐに眉をひそめた。
(問題は、勝手に“借りた”ってことだ)
ひよりから許可をもらったわけじゃない。
視界共有の応用だと説明する前に、実戦で使ってしまった。
あとで、ちゃんと話す必要がある。
階段を降りながら、レンは小さく呟いた。
「……悪いな、ひより」
誰にも届かない謝罪だった。
* * *
訓練場の外に出た途端、膝が笑った。
「っわ……」
ひよりは、その場にへたり込みそうになるのを、ぎりぎりでこらえた。
短髪の青年が慌てて支えてくれる。
「だ、大丈夫ですか!」
「だい、じょうぶ……です、たぶん……」
喉がからからで、声がうまく出ない。
背中に張り付いたシャツが汗で冷たい。
呼吸だけは、さっき“勝手に整えられた”おかげで乱れていないのが、逆に気味悪かった。
(今の……ぜったい、わたしの動きじゃない)
さっきの連続動作を思い返し、ひよりはぞわりとした。
手首を外して、足首を払って、壁に叩きつけて。
指の一本一本の角度まで、全部“わかっている”動きだった。
異世界で戦い続けた誰かの癖。
(れんさん、ですよね)
心の中で問いかける。
返事は、もちろんない。
上の見張り通路から、誰かがこちらを見下ろしている気配がした。
スピーカーが、淡々と告げる。
「三番組、二次試験通過。
待機室に戻れ」
短髪の青年と眼鏡の女性が、ほっと息を吐く。
「す、すごかったな……さっきの」
「まるで、どこかの部隊の人みたいでした……」
ひよりは、苦笑いを浮かべた。
「……そんなたいしたもんじゃないですよ。
ちょっと、頼れる人がいるだけです」
二人には意味が分からなかっただろう。
それでいい。
ひよりは、汗で滑る手のひらをそっと握りしめた。
(れんさん)
心の中だけで、もう一度名前を呼ぶ。
(あとでちゃんと文句言いますからね)
勝手に身体を動かされたこと。
でも、そのおかげで二人を連れて出られたこと。
怒りと感謝が、同じくらいの重さで胸の中に座っている。
(……ももりんにも、ちゃんと報告しよ)
いつか会えたとき、胸を張って言えるように。
ひよりは立ち上がり、ふらつく足で、待機室への通路を歩き出した。




