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切り札

渡り板が、悲鳴みたいな音を立てていた。


 鉄パイプはところどころ曲がり、

 ガラス板はひびだらけで、何枚も抜け落ちている。


 下の路地は、ゾンビで埋まっていた。


 白く濁った目。

 黒ずんだ涎。

 腐った腕が幾本も、細い空を目指して伸びている。


(……長くはもたないな)


 レンは、掌に汗がにじむのを感じた。


 風で足場をつくり、

 風で衝撃をそらし、

 風で体勢を立て直す。


 そのくり返しだけで、もうかなり魔力を削られている。


 それでも、女幹部は楽しそうに笑っていた。


「いいねぇ、このギリギリ感。

 そろそろクライマックスでしょ?」


 グローブをはめた拳が、渡り板の根元に向けられる。


 支えている鉄パイプを狙っている。


 あれを折られたら、板ごと落ちる。


 ゾンビの海へ。


(……ここで、粘っても意味がない)


 ゾンビを斬らないという、自分で決めた制約。

 現代で派手な魔法は使わないという、もう一つの制約。


 二つを抱えたままでは、この場は越えられない。


 レンは、剣の柄を握り直した。


 刃にまとわせていた風を、いったん全部ほどく。


 代わりに、もっと重い魔力を、ゆっくりと集めた。


 空気が、きゅっと乾く。


 冷たい谷間に、わずかな熱の気配が混じる。


 女幹部が目を細めた。


「あれ、それ……風じゃないね」


 レンは答えない。


 喉の奥で息を止め、魔力を一本の線にまとめる。


 刃の根元から先端まで、赤い光がスッと走った。


 女の拳が振り下ろされる。


「終わりにしよっか」


 鉄パイプが折れる寸前──

 レンも踏み込んだ。


 細い渡り板の上で、半歩だけ。


 剣を、斜め下へ振り抜く。


「──炎刃」


 刃の軌跡に沿って、炎が奔った。


 ガラス板の表面をなぞるように、赤い線が一閃する。


 女の衝撃波と真正面からぶつかり合い、

 音も光も、一瞬だけ世界から消えた。


 次の瞬間、爆発的な熱と圧力が弾ける。


 渡り板が、内側から持ち上げられるように軋み──

 真ん中から、ぱっくり割れた。


 ガラス板が、熱で柔らかく溶けながら落ちていく。

 鉄パイプが悲鳴のような音を立ててひしゃげる。


「っは……!」


 レンも、肺が焼けるような反動に膝をつきかけた。


 頭がぐらりと揺れる。


(……一発で、これかよ)


 炎刃は最後の切り札だった。


 現代で二度と使うつもりはなかった技だ。


 だが、もう撃ってしまった。


 割れた渡り板の向こう側で、女幹部の足場が崩れる。


 ガラスが砕け、鉄が折れ、

 支えを失った身体が、ゆっくりと空中に投げ出された。


 その顔に、薄い笑みが浮かぶ。


「あーあ、マジでステージ崩壊」


 背中から、ゾンビの海へ落ちていく。


 黒くよじれた腕が、待ち構えるように伸びてくる。



 レンは剣先を下へ向けた。


 残っている魔力を、できる限り広く、深く。


「……頼むぞ」


 足元から、巨大な風が噴き上がった。


 ビルとビルの谷間に、渦ができる。


 ゾンビの海を中心からえぐるように、

 風が下から巻き上がった。


 腐った身体が、まとめて持ち上がる。


 腕も脚も、肉も骨も、

 風にさらわれて四方の壁に叩きつけられる。


 鈍い音と、崩れる音。


 瞬く間に、路地の中心が“空洞”になった。


 そこに、女幹部の身体が落ちていく。


「……は?」


 さすがの彼女も、目を見開いた。


 ゾンビの山に飲み込まれるはずが、

 真下には何もない。


 ただ、風だけ。


 レンは、その中心に、さらに薄い風の板を重ねていった。


 空中に、見えない踏み台を何枚も並べるように。


 女の落下速度が、段階的に削られていく。


 衝撃を受けるたび、風の板はすぐに消え、

 次の板が少し下に生まれる。


 何度もクッションを重ねるうちに、

 彼女の落下は、ただの“飛び降り”くらいの速さになっていた。


 最後の一枚を、地面すれすれに。


 女幹部の身体は、

 ほとんど転がるようにして、ゾンビの消えた路地の中央に着地した。


 尻もちをつき、息を呑む。


 周囲のゾンビは、すべて壁際に吹き飛ばされていた。

 まだ蠢いている個体もいたが、

 中心に飛び込んでこられるものはいない。


 谷間の真ん中だけが、ぽっかりと空いていた。


「……っだぁー……」


 女幹部はしばらく空を仰いだまま、息を整えていた。


 やがて、ゆっくりと上を見上げる。


 ビルの非常階段の踊り場に、レンの姿があった。


 いつの間にか、自分だけ先に避難している。


 その足元には、風で出した空中の踏み板の残りが、

 蜃気楼みたいに揺れて消えていくところだった。


「……助けるとか、イケメンかよ」


 思わず、女は笑った。


 レンは手すりにもたれながら、息を吐いた。


 炎刃の反動に、さっきの暴風まで重ねたせいで、

 脚から力が抜けそうだ。


 女幹部は、路地の壁にもたれかかりながら、

 痛む腕を振ってみせる。


「気をつけなよ、イケメン」


 


 ここで、とどめを刺す気はない。


 生かしておきたかった。


 非常階段の奥へと身を引いた。


 これ以上ここにいれば、

 いつ別の“幹部”や改造ゾンビが来るか分からない。


 背を向ける寸前、谷間の風だけが、彼の言葉の代わりに動いた。


 女の髪を、ほんの少しだけ撫でる。


 まるで、「次は新宿で会おう」と伝えるみたいに。


「……ほんっと、壊しがいあるわ」


 女幹部は、誰もいなくなった谷間でぼそりと呟いた。


 ゾンビは吹き飛ばされ、

 渡り板は燃えて、跡形もない。


 それでもこの一戦で分かった。


 あの男は、風だけじゃない。

 炎も、大風も、全部“誰かを守るため”にしか振るえないタイプだ。


(そういうのが、一番、割るとき気持ちいいんだよね)


 彼女はよろよろと立ち上がり、

 新宿のコロニーへ向かう別ルートを歩き出した。


 炎刃と暴風の記憶を胸に、

 次のステージの構想をもう練り始めながら。

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