硝子
外の空気は、ビルの中よりも冷たかった。
割れた窓枠に足をかけて身を乗り出した瞬間、
レンは思わず眉をひそめた。
「……まじか」
ビルとビルのあいだの路地の上に、
細い“橋”が一本かかっていた。
鉄パイプで組まれた骨組みの上に、
幅一メートルほどの分厚いガラス板が何枚か並べてある。
全長はせいぜい十メートル。
両端だけがビルの壁に固定されていて、
左右には頼りないチェーンがぶら下がっているだけ。
手すりと呼ぶには心もとない。
その橋の真下、路地にはゾンビがぎっしり詰まっていた。
ひび割れたアスファルトも、倒れた自転車も、
崩れた看板も、すべて死体で隠れて見えない。
濁った瞳。
乾いた喉から漏れる、低い唸り声。
ガラス越しにも分かるほど、
ゾンビたちは上から落ちてくる何かを待ち構えていた。
「どう? かわいくない?」
先に渡り板の上に立っていた女が、くるりとターンして見せた。
「本物の“命綱なし綱渡りステージ”。
落ちたらゾンビの餌。コンセプトは分かりやすくね♡」
「悪趣味だな」
「でも映えるでしょ?」
女は嬉しそうに言う。
「この狭さ、下のゾンビ、イケメン。
カメラ三台は欲しいところなんだけど」
女はグローブを打ち鳴らした。
カシン、と金属の音が谷間に響く。
その音に反応して、
下のゾンビたちが一斉に顔を上げた。
黒ずんだ涎がだらりと垂れ、
ガラスの真下で手を伸ばしている。
「さ、れん君」
女が顎をしゃくる。
「こっちおいでよ。
細いところのほうが、画になるから」
レンは短く息を吐いた。
(……しょうがない)
すぐ下に、ゾンビだらけの路地。
腐臭と熱気が噴き上がってきて、鼻を刺す。
レンは、渡り板の端に着地した。
ガラス板がきしみ、
下のゾンビたちが一斉にざわめく。
「下、あんまり見ないほうがいいよ」
女が楽しそうに言う。
「落ちたときのこと、つい想像しちゃうから」
「助言サンキュー」
「じゃ、ルール説明ね」
女は渡り板の中央まで数歩歩き、グローブを肩の高さで構えた。
「ここから落ちたほうが負け。
床が割れても、チェーンがちぎれても、
ゾンビの中に落ちたらゲームオーバー」
「こっちのメリットは?」
「君が勝ったら、
ももりんの話、ちょっとサービスしてあげる」
レンはほんの一瞬だけ目を細めたが、
すぐ視線を戻した。
「そういう顔、ほんと好きなんだよねぇ」
女が一歩踏み込む。
拳が、空を切った。
遅れて、レンの左側──
数メートル先のガラスが「バン」と音を立てて割れた。
ひびが一気に走り、
そこだけ蜘蛛の巣状になって沈み込む。
ガラスはギリギリ持ちこたえているが、
次の一撃で抜け落ちてもおかしくない。
真下で、ゾンビたちがその位置に集まってくる。
落ちてくるものを待つ子どもみたいに、両腕を伸ばして。
「……わざとだろ」
「当然。
“落ちそう感”は演出上、かなり重要だからね」
女はケラケラ笑うと、
今度は反対側のチェーンに向かって拳を振った。
鈍い音がして、
チェーンの固定部分がひしゃげる。
渡り板が、わずかに傾いた。
足元の感触がずれる。
「近距離、苦手?」
「お前みたいなやつを相手にするときはな」
レンは剣を抜いた。
拳が、再び振り下ろされた。
今度は、レンのすぐ横のガラスに、
星型のひびが走る。
ガラス板の端が、わずかに沈んだ。
下から伸びてきたゾンビの指先が、
ガラスの裏側をがりがりと引っかく。
耳障りな音が、足裏から伝わってきた。
「ねぇ、君さ」
衝撃波を風でいなしながら、女の声だけが届く。
「本気出したら、もっと楽できるでしょ」
「剣と風だけの顔じゃない。
“それ以外”の何か、沈めてる目」
女の視線が、レンの足元をかすめる。
風の溜め。
踏み込みの癖。
跳躍のための重心。
よくみている
「だからさ」
女はにやりと笑う。
「もっと追い込みたくなっちゃった」
次の瞬間、女は渡り板の反対端まで一気に走り、
路地のど真ん中に向かって拳を叩き込んだ。
連続する衝撃波。
下のゾンビたちが吹き飛び、
もつれ合いながら壁や地面に叩きつけられる。
ぐちゃりとした音とともに、
肉片や骨がわずかに上方へ跳ね、
ガラスの裏側にべったり貼りついた。
視界の下半分が、濁った色で曇る。
臭いと熱と重み。
最悪のブラインドだ。
「さて、イケメンよ!」
女の声が、腐臭の向こうからする。
「本気、見せてくれるかな?」
レンは、剣を握り直す。
(……ここで出し惜しみしたら、
ひよりも危ないか)
風が、足元に集まる。
今までより、一段深いところから。
異世界で“最強”と呼ばれていた頃に使っていた、
本当の速度と跳躍力。
「──」
レンは小さく舌打ちした。
次の瞬間、レンの身体が風に弾かれたように加速した。
細い渡り板の上を、一気に駆け抜ける。
足音はひとつだけ。
けれど、その姿は一瞬で女の死角へ消える。
「うわ、やっと本気モード?」
女幹部の目が、楽しそうに細くなる。
「いいね。
やっと“見たい画”になってきた」
ビルの谷間にかけられた細い渡り板の上で、
帰還者どうしのデスマッチが動き出した。




