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5.

 果たして、二人の勝負の取り決めは素早く終わった。

 アルレッキーノは「は、権利書以外に興味はない。そこにいるのは女の顔をした人形だけだからな」とヘティを置いて立ち去った。

 結局、アルレッキーノは何もトシキから奪わず、トシキもまたアルレッキーノに何も奪われることなく表面上の話は終了したのであった。


 致命的に変わってしまった物があるのだとすれば、それはヘタイラ・ラミアーの所有権と、他にもう一つ。


「……」


 ここにいる者たちの心情変化であった。






 アルレッキーノが帰った後も、全員が重く口を閉ざして誰も話を始めようともしない。ただただ無為に時間が過ぎる中、ただ一人トシキだけは無神経に作業に没頭していた。


「すまなかった。……勝負の取り決めには、ヘタイラ・ラミアー、ミーナ・セリアンスロープ、そのどちらにも危害を与えるような行為を禁ずるとあった。だから、ヘティを手放しても、俺が勝負に勝つ限りは最悪の事態は有り得ない」


 最初に沈黙を破ったのはトシキであった。


「だから、早く勝負を成立させることで、お前たちに手出しできないように制約で縛る……それしか出来なかった。すまない」


 トシキの言い分は正論であった。ミーナがもしも本名を呼ばれてしまった場合、全く何の対抗策もなくただただマレビトに塗りつぶされてしまうだけだ。一方ヘティを手放しても、勝負の取り決めで、勝負が終わるまではヘティはアルレッキーノに何もされることはない。つまり勝てばいいのだ。

 論理的な回答で、おそらくこれ以上の最適解はないだろう。


「……」


 だがアルレッキーノが無意味な二択を迫るはずがなかった。アルレッキーノはこの二択がほとんど同じ重さであると判断して、ヘティを売ることとミーナの人格を上書きすることを選ばせた。


 そう、ヘティにとってこの二択は致命的すぎた。

 そのことにトシキは気付いていない。いや、気付きながらもそれしか選ぶことが出来なかった、というほうが正しかった。


「……ヘティ、どこへ」


「……ちょっと外へ」


 自分でも驚くほど細い声が出て、こんなに自分が参っているだなんて思わなかった、とヘティは自嘲した。自嘲してばかりだ、どうしてこうも嫌なことに向き合わなくてはならないのだろうか、と我ながら自分の弱さにうんざりしてしまう。


 気付かないうちに心の傷になっていたらしい。それも触られたくないほどのとても大きなもの。捨てられるという事がこんなに辛いというのなら、よく子供の自分は耐えたものだと思う。

 それとも当時は鈍感だったのか。捨てられるという意味も、捨てられると一体何を失うのかという実感も、そもそも捨てられることで失うような温もりや優しさも知らなかったから、なのかもしれない。


「ヘティ。俺には選択肢があった」


「……」


 聞こえないふりをする。


「本当に直前まで、お前を手放すつもりだった。本当の意味でだ。お前を俺の奴隷じゃなくすれば、俺がヘティを売ることが出来なくなる。だからマハディに委ねるか、もしくはもうそのまま解放するかを考えたんだ」


「……」


「そうしなかったのは、俺がそれでも最悪のケースを回避するために逃げたからだ。早くアルレッキーノとの勝負を成立させたかった、そうすれば勝負が終わるまではヘティにもミーナにも手出しできなくなるから」


「……」


「捨てた訳じゃないんだ、守りたかったんだ」


「……」


 耳当たりの良い嘘を、と思いながらもヘティは何かを反芻するかのように長く沈黙した。しかし、やがてそのまま無言でテントの外へと立ち去った。






「……どうすればよかったんだろうな」


「貴方のやり方で正解よ。それ以外あり得ないわ」


「ユフィはそう思うか。……そうなのかな」


「あの時例えば『ヘティは手放すがお前に売る訳じゃない』みたいな真似をしたら、ふざけるんじゃないって逆上されて、それこそ最悪の事態を招きかねなかったわ。ああするしかなかったの、割り切りなさい」


「……」


「頭で考えてこれよりいい方法が思い付かないのなら、そのことについてうだうだ考えるのは損よ。これからどうすべきなのかを考えなさい」


「……全くだ」




「……私は、そうは思いません」


「ネルは、そう言うと思った」


「きっぱり断るべきでした。アルレッキーノに向かって啖呵を切るべきでした。ヘティさんをアルレッキーノさんに売るだなんて選択肢は、絶対にやっちゃ駄目でした。だって」


「……」


「だって、ヘティさん、泣いてましたから……」


「……そうだよな」


「一度捨てられたヘティさんをもう一度捨ててしまうなんて、捨てられたことを思い出させるなんて、そんなの残酷です。ましてやご主人様本人がそんなことをするだなんて」


「……」


「……ごめんなさい、ご主人様も辛かったんだと思います。でも私は、無理です」




「私なら、アルレッキーノを、あの段階で始末した」


「そうか、イリはそう思ったか」


「あの二択は、選べない。だから彼を始末する。彼は不可能と言った。でも、不可能かどうかは、試さないと分からない」




「……不可能でした」


「ミーナ、お前」


「私、何を言えばいいのか分かりません……。あの時ヘティを選んでいたら、主様は、アルレッキーノにポーカーで勝てました。でも、私は……」


「……。なあ、ミーナは何を知っているんだ?」


「……。正夢って、口にしたら実現しないんです。ですけど、実現してほしくないことだから今までしゃべってきましたし、今回も話します。……主様はヘティを売ったことでポーカーに負けます」


「……。なあミーナ、具体的にはどう負けるんだ?」


「だめです。私が見る夢は、感情と写真です。細かいセリフはちぎれている場合がほとんどで……。でも、何となくですけど、大一番の勝負で負けていたはずです」


「……そうか」


「……主様」


「ん、どうした」


「今日、とても怖かったです。……でも、ヘティもとても怖かったはずなので、今日はヘティの話を聞いてあげてください」


「……わかった」


「……。お願いします」


「……。ミーナ、お前の話も聞かせてくれ」


「……はい、また今度」






「ヘティ」


「……一人にさせて」


「……。分かった」






「ヘティ、そろそろ夜だ。冷えるぞ」


「……。もう少しだけ、一人にさせて」


「じゃあ何か着るものを持ってくるとも」


「分かったわ、トシキ(・・・)


「……ああ」






「……。もうご主人様じゃない。そのことを当てつけようと名前で呼んだのに、貴方は普通に流すのね」


 ヘティの独り言は、寒さに包まれた砂漠の夜にひっそりとこぼれ落ち、ついぞ誰にも拾われなかった。

 拾われなかったという表現が思いついた時、ヘティにとってそれが一種の皮肉のように思えてならず、笑みに似た何かに口元が歪むのを止められなかった。

 拾われるという表現は救われる(掬われる)という意味で、何か意味を見いだしてもらうというものだ。貴方は私にとって無意味ではないから側にいて欲しい――良いように言い換えればそんな所だろうか。


(情や絆をそういう解釈をしている私は歪んでいるかしら)


 今度の独り言は喉から出て来ずに胸中に留まったまま飲み込まれて、胸の奥でわだかまりとして積もった。

 ヘティは捨てられた。故に、情や絆をそういうように解釈する人間として育ってしまった。友との友情や親子の愛情は、必要とし必要とされるその関係の中にあるものであって、必要でなくなればそこで途絶えてしまう――という価値観が、ヘティの中で固定化されている。


 人と価値観が違うことに気付いたのは、マハディの所で働きだしてからだ。情や絆とはむしろ捨てられる直前に試されるものなのだ、という考えが周りの者たちにはあるらしかった。

 ヘティの冷えた心が更に冷えたのは、その言葉のせいでもある。

 なるほど、では自分には情や絆が与えられなかったのだろうと再確認する羽目になったためである。


 案外、情や絆がなくても人は生きていけるものだ、周りの言うほど情や絆は必要ではないし、それがないと死んでしまうわけでもない――ヘティが欲しかったかもしれない(・・・・・・)ものはさほど大事なものではないらしいと傷つけられたような気もしたが、そうか、と納得してしまう自分もいた。

 欲しかったのかどうかすら分からない。子供の頃は何も知らなかったし分からなかった。鈍感というのか、物を知らないというのか、発達が遅れていたというべきかは知らないが、ヘティは自分の心すらよく分からない、それこそ人形のような子供だった。

 しかし、情や絆は綺麗なものだと信じる気持ちもどこかにあった。とても綺麗でとても素敵でとても幸せなものだと。

 多分、とても欲しかったのだろう(・・・)

 ヘティにはどうしても、気持ちが分からない。


 欲しがる気持ち、必要とする気持ち、それらがきっとそうなのだろうという解釈は歪んでいるそうだ。

 誰に指摘されたわけでもなかったが、賢いヘティは人との会話でそう学んだ。


 では絆や情とは何か。人と人をつなぎ止めるものとは何か。自分は何に捨てられたのか。自分は何がだめだったのか、何を失敗したのか。やり直せるとしたら何をやり直すべきなのか。人を必要とする心とは一体何なのか。自分は何故人形と呼ばれるのか。何で自分は可哀想なのに平気なのか。今まで必要がないから泣かなかったがそれは異常なのか。必要とは何か。それがないと幸せじゃないのか。幸せとは何か。絆や情に包まれていたら幸せなのか。周りの人の笑顔は行為じゃないらしいが、何故自分にとっては行為なのだろうか。人にとって笑みが自然に浮かび上がってくるのは何故なのか、自分は何故自然に浮かび上がらないのだろうか。


 人は、押しつぶされそうな感情に直面したとき叫ぶという。ああああああ、と途切れることなく叫ぶのだろう。声で叫ぶか心で叫ぶのかは知らないが、とにかくそうらしい。

 ヘティに限っては、それはない。

 押しつぶされそうになる感情がそもそもない。叫びたくなる気持ちがそもそも分からない。

 引き換えに、ヘティにとってはそれは、疑問の羅列であった。


 何故自分は必要とされなかったのか。何を謝れば許してくれたのか。自分は何をしたらよかったのか。気味が悪いとはどう言うことか。気味とは何か。何を変えればよかったのか。顔はどう動かせばよかったのか。声はどうしゃべればよかったのか。振る舞いはどう媚びればよかったのか。人の心を窺うのはどうすればよかったのか。神様は心をどうして教えてくれないのか。人の心はどうして知ることが出来ないのだろうか。自分の心はどうして出来損ないなのか。心はどうすれば生まれるのか。どうやって願えば心が出来るのだろうか。必要とは何か。欲しいとは何か。必要とされるには何をどうすれば答えなのか。絆はどこから生まれるのだろうか。情はどこから生まれるのだろうか。生まれるだけの絆や情が世界に満ちあふれていないのは何故なのか。そのおこぼれが自分にないのは何故なのか。誰も彼も自分を必要としていないのは何故なのか。必要としているのは自分ではなく、自分という名の人形なのは何故なのか。心が欲しいと呼びかけてくれる人はいないのだろうか。心がないと心が欲しいと呼びかけてくれる人はいないのだろうか。それとも心が欲しいと言われたとき心は命が吹き込まれるのだろうか。

 心があれば、欲しがって下さいと叫んでいたのだろうか。


(……人形)


 ヘティには普通の価値観を養う機会がなかった。そのことについては賢いヘティは自覚していた、切っ掛けがなかったのだろうと。だがついぞ、普通の価値観とは何なのか分からなかった。


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