4.
そして、一方で。
本物が欲しい。その台詞を聞きながらヘティは、今度こそ思考が一瞬だけ空白になっていた。
(……この場から立ち去りたい。居なければ良かった)
よりによって、ミーナと自分の二択になるとは思わなかった。
ヘティを買う、飲まないならミーナにマレビトを降ろす。ぞっとするような笑みをアルレッキーノは浮かべている。
自分は今だしにされているのだ――、そうヘティは、ようやく話の展開に追いついた。
それはヘティの最も嫌な行為であった。
単純に、自分の存在が主人であるトシキに迷惑を掛けている、その事実がヘティには耐え難い。
自分は他人に迷惑を掛けてはいけない人間だ――、とヘティの心のどこかにある劣等感が、ヘティを苛んだ。
人形の癖に。他人に迷惑を掛ける権利は自分には存在しない。そんな声がどこかから聞こえてきたような気がした。
人に迷惑を掛けないように表面を取り繕うことが上手くなって、久しく忘れていた、ヘティの根深いコンプレックス。
いつの間に解消したつもりでいたのだろうか、と今更になって思う。
(……早く私を売り払って)
そうすれば、また、解決する。
かつて昔、ヘティの家族が自分を売ったときと同じように、自身がもう一度身売りされたらそれで解決する話なのだ。
そうすれば、主人トシキに迷惑をかけることもない、ミーナに迷惑をかけることもない、誰にも迷惑を掛けることもない、そうやって丸く収まるのだ。
アルレッキーノの奴隷になったとしても、彼に復讐する機会を今後ずっとなくすだけだ。
それは、耐え難い。
だが、それだけの話でしかない。ただ耐え難いだけで、ヘティさえ我慢すれば誰にも迷惑が掛からない。
(売り払ってくれなきゃ、私、どうすればいいの……?)
八つ当たりに似た暗い発想に至り、ヘティははっと我に返った。
アルレッキーノとトシキ以外の皆が何故かこちらを見ている。
表情に出してしまっていただろうか――、とヘティは今更になって慌てた。
自分がアルレッキーノに売られたら丸く収まる話だったというのに、もし自分が暗い表情をしたとかで話が流れてしまっては、あまりにも申し訳ない。
努めて、ヘティは余裕のある態度を取ろう、と考えた。
少しだけぎこちない笑みになってしまったかも知れないが、『どうぞ、そんなに私が欲しいなら買えば?』というような笑みを作り上げる。
嘘でも笑顔を作れば、案外気持ちは前向きになるものだ。
自分でも分かる、これほど嘘に飾られた笑いしか出来ないだなんて、むしろ見ていて痛ましいだろうと。
「――、今日の話は勝負についての話です。ヘティを買うかどうかは枝葉の話です。つきましては保留して」
「そうだな。確かに勝負についての話だったとも。――だが、俺の本能が囁いているのさ。お前に『これ』を選ばせたら面白い、とな」
迂遠な言い回しだが、とどのつまりは趣味の悪い二択だ。ミーナかヘティ、どちらなのか、と。
なるほど、アルレッキーノが好きそうなことだ。どちらの女の方が大切なのか、それを試そうとしているらしい。
余裕がなくなって追いつめられていく感覚を抱きながら、それでもヘティの笑みはより自嘲的に深くなった。
このままではだめだ、と思った。そんな答えを聞く羽目になるのならば、いっそ自分の手で選択を決定する方が遙かにいい。
もしかしたら、いや、きっとおそらく、自分は選ばれないのだから。
(だから、お願い、声を出させて。自分で全て台無しにさせて)
自分は人形ではないのだから、声を出して「私、自分を売るわ」と選ぶことが出来る。
自分の中に、意志はある。感情はある。――はずだ。
(もしかしたら、自分は『今度は』選ばれたかもしれないという希望を残させて――)
ある日ミーナは、自分はいつか誰かに塗りつぶされるかもとヘティへと打ち明けた。だからヘティは、今アルレッキーノが何を使ってトシキを脅しているのか分かっていた。
分かっていてなお、『記憶が無くなる』だなんて狡い――と、そう考える自分がどこかにいた。そんなの、絶対選ばれるではないか、と。
一瞬だけ脳裏をかすめたが、ほとほと浅ましい考えだ、と思った。
そうではなく自分は、自分を売ることを選ぶのだ。自分で選ぶのだ。
それなのに声が出ない。
(お願いだから、声を)
この笑顔の綻びないうちに。
「――ダメです! 買うならいっそ私を買って下さい、アルレッキーノ!」
私を、と呟き漏れたヘティのか細い声は、予想外のところから出た声にかき消された。
ミーナの声だった。
同時に、かき消されてどこか安心してしまった自分がどこかにいた。
「――は、笑わせるなよ、獣人の巫女。決めるのはお前じゃなくて俺だ、一丁前に選ぶ権利はお前にはない。分かるな?」
「――額でタバコを吸うコツ、教えましょうか?」
「は、面白い」
ミーナの威嚇するような声音は、彼女が本気だということをアピールしていた。
それを受けてなお、アルレッキーノはその余裕のある態度を崩さなかった。
「お前の槍じゃあ俺を捉えきれんさ、ミーナ・セリアンスロープ。俺がお前の真名を喋る方が早い。……分かるな?」
「生憎未来なら私にも見えるんですよ。貴方のココナッツみたいな頭蓋骨に鉄のストローを刺してジュースにすることなら、再現できるんです」
「なら、何故今やらんのだ? ――出来んのだろう、見た景色以外は何も出来んのだからな?」
「私の主様は、マハディ・プアラニ、アリオシュ翁の両名に『とある』約束をしております。その関係で手を出さないだけです」
「――は、あいつら、まだ俺を諦めてないのか」
肩をすくめるアルレッキーノに、油断はなかった。
「悪いが、ヘタイラ・ラミアーを選ぶ必要がある。そうでなくば、ミーナ・セリアンスロープの真名を呼ぶだけ呼んで、この勝負の話はなかったことになるだけだ」
「勝手な話を……っ!」
怒りを押し殺すミーナの槍先は、アルレッキーノから離れなかった。
「ついでに言うなら、お前たちとこの場で戦うことになったとして、俺は負けない。……分かるな?」
は、と短い笑い声。
「この場において当事者なのは、ミーナ・セリアンスロープやヘタイラ・ラミアーではない。お前らはどちらかが選ばれ、どちらかが見捨てられるだけの、ただそれだけだ」
「何を……」
「当事者はトシキ・ミツジだ。奴に決める権利がある。どちらを助け、どちらを見捨てるのか、だ。――お前自身の手で見捨てろってことだ、トシキ・ミツジ。それも言い訳できないようにな」
言うなり、懐からタバコを取り出すアルレッキーノだったが、ヘティにはそれを咎める気力はなかった。
ただ、思考放棄したかった。状況に流されて、なるようになれ、としか思わなかった。
タバコに火がつく。上質な葉巻の匂いがテントに漂う。ヘティはそれを、どこか捨て鉢のような気持ちで眺めていた。
(……もう、いいかも)
急に冷めてしまったのだ、とヘティは自分を客観的に見ていた。
あの時ミーナが「私を買って下さい!」と名乗り上げたとき、自分の中で、何かが、もういいのだ、と折れてしまったのだ。
よくよく考えたら、昔アルレッキーノと勝負して負けた瞬間から、復讐は不可能なものなのだと諦めるべきだったのだろう。
そう考えると、結局自分にはこの生き方がお似合いなのだ、と折り合いがつけられる、ような気がする。
(……)
かといって、自ら私を買って、と言い出す気力もない。
ただ、思考を放棄したくなっただけなのだ。
もしも自害することでアルレッキーノに一矢報いることが可能だというのなら、ヘティは喜んで自害しているだろう。それほどに自棄な気持ちで、ヘティはその場に立っていた。
「では、私の答えですが」
「ほう?」
そんなヘティの心情をよそに、トシキはさらりと事も無げに質問に答えていた。
「両方ともを選ばせていただこうと」
「……。愚凡だな」
失望したようなアルレッキーノにとりもなおさずトシキは発言を続ける。
「そのためにはヘティを手放させていただこうと考えております」
「……!」
誰が息を飲んだ音なのかは分からなかった。きっと、この部屋にいる人間でトシキの発言に息をのまなかった者はいなかったはずだからだ。
それは、一番趣味の悪い二択を突き付けた立場のアルレッキーノでさえであった。アルレッキーノは明らかにトシキが彼女たちを致命的に傷つけてしまう選択肢を提示して、その二者択一性に何かを『試していた』というのに、随分あっさり片方を切り捨ててしまうその異常性に「面白い」と息を飲んだのだから。




