第3話
結局、あの後わたくしは、ゼオン公爵が用意してくださった豪奢な馬車で、エーデルシュタイン侯爵邸まで送り届けられた。
夜会の喧騒から完全に切り離された車内で、わたくしたちはほとんど言葉を交わさなかった。ただ、彼が時折向ける、慈しむような、そして何かを堪えるような銀色の眼差しが、わたくしの心を静かにかき乱すだけだった。
「返事は、急がない。だが、君の心が安らぐ場所が、私の隣であることを忘れないでほしい」
邸の門前で、馬車を降りるわたくしにそう告げた彼の声が、まだ耳の奥で響いている。
重厚な扉を開けると、そこには案の定、鬼のような形相をした父、アルブレヒト・フォン・エーデルシュタイン侯爵が待ち構えていた。
「リリアーナ! 一体どういうことだ! 王宮からの使いが来て、お前がクラヴィス殿下から婚約を破棄されたと聞いたぞ! 我がエーデルシュタイン家の顔に泥を塗りおって!」
父の怒声が、大理石のホールに響き渡る。
わたくしは侍女に外套を預けながら、静かに父に向き合った。いつものことだ。父が気にするのは、わたくしの心の痛みではなく、家の面子だけ。
「お父様、お話は事実ですわ。クラヴィス殿下は、ミア・ブライトン男爵令嬢と真実の愛を見つけられたとかで、わたくしとの婚約は不要になったそうです」
「男爵令嬢だと!? あの成り上がりの娘か! 殿下も血迷われたものだ! ……いや、それよりも問題はお前だ! 一体どんな失態を演じれば、たかが男爵令嬢に婚約者の座を奪われるのだ!」
(失態など、何も……。ただ、殿下がわたくしに興味を持たなかった。それだけのことですわ)
心の中で反論するが、口には出さない。父に何を言っても無駄なことは、長年の経験で分かっている。
父は苛立たしげにホールを行ったり来たりしていたが、ふと、わたくしが一人で帰ってきたわけではないことに気づいたらしい。
「……して、お前を送り届けてきた馬車はどこのものだ? 王家の紋章ではなかったようだが」
「……ゼオン・ディ・アルジェント公爵様のものですわ」
その名を口にした瞬間、父の動きがぴたりと止まった。
ぎ、と油の切れたブリキ人形のように、父がゆっくりとこちらを振り返る。その目には、先ほどの怒りとは質の違う、驚愕と、そしてわずかな畏怖の色が浮かんでいた。
「……アルジェント、だと? あの、北の『氷竜公』か? なぜあの男が、お前と……」
「夜会で、クラヴィス殿下に婚約を破棄された直後、わたくしに求婚なさいました」
淡々と事実を告げる。
父は、まるで雷にでも打たれたかのように、目を丸くして硬直した。そして、数秒の沈黙の後、彼の顔にはあからさまな歓喜の色が浮かび上がった。
「な……! な、なんと! リリアーナ、それは真か!?」
「わたくしが、お父様に嘘をついたことがございましたか?」
「おお、おお……! まさか、こんなことが……! 殿下に捨てられたのは災難だったが、これは怪我の功名というやつか!」
父の手のひらの返しようは、見事なものだった。
さっきまでの怒りはどこへやら、今は娘がとんでもない大物を釣り上げてきた、とでも言いたげな満面の笑みを浮かべている。
「リリアーナ、よくやった! それでこそ我が娘だ! アルジェント公爵の力添えがあれば、我がエーデルシュタイン家は王家さえも凌ぐ権勢を手にすることができる! クラヴィス殿下など、もはやどうでもよいわ!」
(……やはり、そうなりますのね)
分かってはいたが、そのあからさまな態度に、心の奥が冷えていくのを感じる。
父にとって、わたくしの結婚相手がクラヴィス殿下だろうとゼオン公爵だろうと、大した違いはないのだ。家の利益になるかどうか、ただそれだけが判断基準なのだから。
「アルジェント公爵は、その強大な魔力と私兵団で北方の蛮族を一人で抑え込んでいる、生ける伝説だ。王家ですら、あの男には迂闊に手出しができん。そんな方が、なぜお前に……? いや、理由などどうでもいい! リリアーナ、この縁談、必ずまとめるのだ! 分かったな!」
「……お父様のおっしゃりたいことは、分かりました」
これ以上話す気にもなれず、わたくしは一礼して自室へと向かった。
後ろで父が「すぐに公爵に使者を送らねば!」などと息巻いている声が聞こえたが、もうどうでもよかった。
自室に戻り、侍女を下がらせて一人になると、どっと疲れが押し寄せてきた。
天蓋付きのベッドに腰を下ろし、今日の出来事を反芻する。
婚約破棄。
ゼオン公爵の登場。
そして、唐突な求婚。
(彼の目的も、結局は政略なのでしょうか……?)
父の言葉を聞いて、冷静になろうとする自分がいる。
アルジェント公爵ほどの人物が、何の理由もなく、ただ捨てられたばかりのわたくしに求婚するはずがない。彼の言う「君の価値」とは、結局のところ、わたくしの背後にあるエーデルシュタイン侯爵家の財力や影響力のことなのではないか。
『これは、政略ではない。……私自身の偽らざる願いだ』
彼の言葉が、脳裏に蘇る。
あの時の、痛いほどの真剣な眼差し。あれが、嘘だったとは思えない。
思いたくない。
記憶はない。
それなのに、なぜ、こんなにも心が彼を求めるのだろう。
婚約を破棄された時の、あの魂が引き裂かれるような痛み。あれは、クラヴィス殿下を失ったことによる痛みではなかった。
では、あれは何だったのか。
考えても、答えは出ない。
頭と心が、ばらばらになってしまったようだ。
理性が「ありえない」と警鐘を鳴らし、魂が「彼こそが運命だ」と叫んでいる。
混乱したままベッドに潜り込み、目を閉じる。
どうか、安らかな眠りを。そう願ったが、その夜、わたくしは夢を見た。
―――ごう、と音を立てて、赤い炎が天を舐めている。
見慣れない、石造りの城が燃え落ちていく。人々の悲鳴と、剣のぶつかり合う音が響き渡る。戦場だ。
わたくしは、今とは違う、簡素だが気品のあるドレスを着て、誰かの腕に抱きかかえられていた。
その腕は力強く、わたくしを必死に守ろうとしてくれているのが伝わってくる。
見上げると、そこにいたのは、銀の甲冑を纏った騎士だった。
煤で汚れ、いくつかの傷を負っているが、その顔立ちは、紛れもなくゼオン公爵その人だった。
彼の銀色の瞳が、悲痛な色を浮かべてわたくしを見下ろしている。
『――行け! 君だけでも、生き延びるんだ!』
『嫌……! あなたを置いてはいけない!』
自分のものとは思えない、悲痛な叫び声が喉からほとばしる。
夢の中のわたくしは、彼の胸倉を掴んで泣きじゃくっていた。
『リリア……。約束してくれ。必ず、来世で私を見つけ出すと』
『そんな……! 来世なんて……!』
『見つけ出せるさ。君の魂は、私が必ず見つけ出す。何度、生まれ変わっても。だから……』
彼の言葉が、背後から迫る敵兵の鬨の声にかき消される。
彼はわたくしの額に最後の口づけを落とすと、何か小さな、硬いものをわたくしの掌に握らせた。そして、わたくしの身体を、秘密の通路へと突き飛ばす。
『愛している。永遠に』
最後に聞こえたのは、その言葉だった。
そして、背後で通路が崩れ落ちる轟音と共に、わたくしの意識は暗転した―――。
「……はっ!」
心臓を鷲掴みにされたような衝撃と共に、わたくしはベッドの上で跳ね起きた。
全身が汗でぐっしょりと濡れている。窓の外は、まだ夜の闇に包まれていた。
ぜえ、ぜえ、と荒い呼吸を繰り返しながら、わたくしは自分の掌を見つめた。
夢の中で握らされた、あの硬い感触。それは、一体何だったのか。
(あれは……ただの夢?)
いいや、違う。
あまりにも鮮明で、リアルな感覚だった。
あの燃える城の熱気も、彼の腕の温もりも、そして、彼を失う絶望も。まるで、たった今体験してきたことのように、この胸に焼き付いている。
婚約破棄を告げられた時の、あの痛み。
あれは、クラヴィス殿下との別れの痛みではない。
夢の中で体験した、彼――ゼオンとの、永遠の別れの痛みの残滓だったのだ。
記憶はない。
けれど、魂が覚えている。
わたくしたちは、前世で出会い、愛し合い、そして、引き裂かれたのだ。
そう理解した瞬間、全ての辻褄が合った気がした。
彼の言った「やっと見つけた」「今度こそ守りたい」という言葉の意味も。わたくしが彼に感じた、説明のつかない引力の正体も。
まだ、全てを思い出したわけではない。
けれど、もう迷いはなかった。
(知りたい。……いいえ、思い出したい)
わたくしたちの過去に、何があったのか。
わたくしは、彼とどんな約束を交わしたのか。
そして、この胸の痛みの、本当の意味を。
父の政略のためでも、家の利益のためでもない。
わたくし自身の意志で、彼の求婚を受けよう。
そして、この魂の謎を、自分の手で解き明かすのだ。
窓から差し込む朝の光が、わたくしの心に宿った新たな決意を、静かに照らしていた。




