第2話
時が、止まったかのようだった。
わたくしの手を取り、恭しく口づけを落とすゼオン・ディ・アルジェント公爵。
その銀色の瞳が、射るように真っ直ぐわたくしだけを捉えている。まるで、この世界の他のすべては色を失い、彼とわたくしだけが存在しているかのような錯覚に陥った。
「やっと、見つけた。リリアーナ」
囁かれたその声は、甘く、切なく、そしてひどく懐かしい響きをもって、わたくしの心の奥底を震わせた。
知らないはずの名前の呼ばれ方なのに、魂が歓喜に打ち震えている。
ああ、そうだ。わたくしは、ずっと、この声に呼ばれるのを待っていた。
そんな、ありえないはずの想いが胸を満たしていく。
しかし、硬直していたのはわたくしだけではなかったらしい。最初に我に返ったのは、先ほどまで意気揚々とわたくしを断罪していたクラヴィス殿下だった。
「ゼオン公爵! 一体どういうつもりだ! その女は、今しがた私に捨てられたばかりの女だぞ! そんな女に跪くなど、帝国の英雄たるあなたの名折れではないか!」
嫉妬と侮辱が入り混じった、醜い声。
その言葉に、ゼオン公爵はゆっくりと立ち上がった。その所作の一つ一つが洗練されていて、目が離せない。彼はクラヴィス殿下を一瞥すると、その銀色の瞳に絶対零度の光を宿らせた。
「……捨てられた、だと?」
地を這うような低い声。先ほどまでの甘い響きは微塵もなく、それは聞く者の背筋を凍らせるほどの冷気を帯びていた。大広間の気温が、一気に数度下がったように感じる。
「この方を、お前が、捨てた……? 笑わせるな、三流王子。お前のような男に、彼女の価値が分かるとでも思ったか。宝石の価値も分からぬまま、ただの石ころだと言って手放した愚か者が。その愚行に、せいぜい感謝することだ」
「なっ……! 無礼なっ!」
顔を真っ赤にして怒鳴るクラヴィス殿下を、ゼオン公爵はもはや意にも介していない。彼は再びわたくしに向き直ると、その表情を和らげ、優雅に手を差し出した。
「リリアーナ。このような騒がしい場所は、君に相応しくない。場所を移そう」
その手を取ることに、何の躊躇いもなかった。
まるで、そうするのが当然であるかのように、わたくしはごく自然に彼の手を取っていた。
彼が軽く手を引くと、わたくしの身体はふわりと彼の腕の中に導かれる。そのままエスコートされ、唖然とする人垣を抜けていく。モーゼの十戒のように、人々が道を開けていくのが分かった。
「待て! リリアーナ! 公爵! どこへ行く!」
後ろでクラヴィス殿下が何か叫んでいるのが聞こえたが、わたくしたちの足を止めることはできなかった。
ただ、ゼオン公爵の広い背中を見つめながら、その力強いエスコートに身を任せる。彼の纏う、夜の森のような、静かで落ち着く香りに包まれて、先ほどまでの胸の痛みが嘘のように和らいでいくのを感じていた。
彼がわたくしを連れてきてくれたのは、夜風が心地よい、月明かりに照らされたバルコニーだった。
大広間の喧騒が遠くに聞こえる。ここには、わたくしたち二人しかいない。
ゼオン公爵はわたくしを腕から解放すると、一歩下がり、改めてわたくしに向き合った。その銀色の瞳には、月の光が宿り、まるで宝石のようにきらめいている。
「……ゼオン公爵様。先ほどは、助けていただき感謝いたします。ですが、一体なぜ、あのようなことを?」
ようやく、わたくしは声を発することができた。心臓が、まだ早鐘を打っている。
婚約破棄の屈辱よりも、彼の突然の登場と行動の方が、よほどわたくしの心を乱していた。
「礼には及ばない。私は、当然のことをしたまでだ」
「当然、と申しますと?」
「君があの愚かな男に辱められているのを、黙って見ていられるはずがないだろう」
当たり前のように、彼は言う。
その言葉に、胸の奥がきゅん、と甘く痛んだ。
わたくしと彼は、今日が初対面のはずだ。それなのに、なぜ彼は、こんなにもわたくしのことを気にかけるのだろう。
「失礼ながら、公爵様。わたくしたちは、以前どこかでお会いしたことがございましたでしょうか……?」
どうしても、聞かずにはいられなかった。
この奇妙な既視感と、懐かしさの正体を突き止めたくて。
しかし、ゼオン公爵は静かに首を横に振った。
「……今の君は、私を知らない」
『今の君は』。その含みのある言い方に、ますます混乱が深まる。
彼が何かを隠しているのは明らかだった。その銀色の瞳の奥には、わたくしの知らない物語が、深い悲しみの色と共に沈んでいる。
「ならば、なぜ……。なぜ、わたくしを?」
「言ったはずだ。君の価値が分かるからだ、と」
彼はそう言うと、そっとわたくしの頬に触れた。ひんやりとした、けれど優しいその指先に、身体がびくりと震える。
触れられた場所から、熱が生まれていく。
「君は、氷の人形などではない。誰よりも情が深く、誰よりも温かい心を持っている。それを、私は知っている」
(……どうして、あなたがそれを知っているの?)
誰にも見せたことのない、わたくしの内面。
エーデルシュタイン侯爵家の令嬢として、次期王太子妃として、完璧を演じるために心の奥底に封じ込めてきた、本当のわたくし。
それを、なぜ目の前の男は、さも当然のように語るのだろう。
「君が、たった一人でどれほどの努力を重ねてきたか。どれほどの孤独に耐えてきたか。……それも、私は知っている」
彼の言葉の一つ一つが、固く閉ざしていたわたくしの心の扉を、優しく叩く。
やめて。そんな風に、分かったようなことを言わないで。
そう思うのに、涙が滲んでくるのを止められなかった。
今まで、誰にも分かってもらえなかった。父でさえ、わたくしをエーデルシュタイン家の駒としか見ていなかった。クラヴィス殿下は、言うまでもない。
それなのに。
「リリアーナ」
ゼオン公爵が、再びわたくしの名前を呼ぶ。
そして、彼はもう一度、その場に跪いた。
夜会での行動は、クラヴィス殿下への当てつけかとも思った。だが、今は違う。二人きりのこの場所で、彼はただひたすらに真摯な瞳で、わたくしだけを見上げている。
「リリアーナ・フォン・エーデルシュタイン嬢。このような形で伝えることになってしまった非礼を許してほしい。だが、もう一刻の猶予もない」
彼の声が、真剣な響きを帯びる。
わたくしは、次に彼が何を言うのか、息を詰めて見守った。
「――私、ゼオン・ディ・アルジェントの妻になってほしい」
それは、あまりにも唐突な、求婚の言葉だった。
(……妻に?)
思考が停止する。
婚約を破棄された、ほんの数十分後に。別の男性から、求婚されるなんて。
しかも相手は、謎に包まれた北の公爵。帝国の英雄。
ありえない。常識的に考えて、あまりにも突飛な話だ。
これは、エーデルシュタイン侯爵家の後ろ盾が欲しいという、新たな政略結婚の申し込みなのだろうか。いや、彼ほどの権力と武力を持つ男が、今更わたくしの実家を頼る必要などないはずだ。
では、なぜ?
混乱するわたくしの心を読んだかのように、ゼオン公爵が言葉を続けた。
「これは、政略ではない。……いや、政略の意味合いが全くないと言えば嘘になる。だが、それ以上に、私自身の偽らざる願いだ。私は、君を妻に迎えたい。今度こそ、私の傍で、君を守り抜きたい」
『今度こそ』。
まただ。また、わたくしの知らない過去を示唆する言葉。
彼の瞳は、痛いほどに切実だった。そこにあるのは、燃えるような愛情と、そして、何かを失うことへの深い恐怖。後悔。
その瞳を見ていると、胸が締め付けられる。
わたくしは、この瞳を知っている。
いつか、どこかで、この瞳に見つめられ、愛された記憶がある。
そして、この瞳を、悲しませてしまった記憶がある。
記憶はない。
けれど、魂が覚えている。
婚約破棄を告げられた時の、あの喪失感。
そして、彼に手を取られた時の、失われた半身を見つけたかのような、満たされる感覚。
「……お返事を、今すぐには」
「ああ、分かっている。急かすつもりはない。だが、一つだけ覚えておいてほしい」
彼はゆっくりと立ち上がると、わたくしの涙の滲む目元を、優しく親指で拭った。
「君の心は、もう答えを知っているはずだ。記憶が、理性が、それを邪魔しているだけにすぎない。――君が、私のものになるという運命を」
その言葉は、傲慢なはずなのに、不思議とすんなりと胸に落ちてきた。
運命。
クラヴィス殿下が語った「真実の愛」は陳腐に聞こえたのに、ゼオン公爵が語る「運命」は、抗うことのできない絶対的な真実のように、わたくしの心に響くのだった。




